第1話
文字数 1,996文字
風呂場のシャワーの音で目が覚めた。
スマホの時計を見るともうすぐ日付が変わる時刻。クーラーも点けずに寝ていたから、寝汗で身体がベタつく。扇風機があるとはいえよく生きてたな。
(先に腹を満たすか、汗を洗い流すか……)
部屋の戸を開けると、脱ぎ捨てられた浴衣が廊下の上でくたばっていた。玄関から足袋に、紐に、飾りに帯にと、足跡のように続いている。反対の端、風呂場の前には見覚えのある下着が落ちていて、誰がシャワーを浴びているのかを示していた。
「チカ、俺も入っていい?」
「えー、駄目。あと三〇分待って」
「長いよ」
ご機嫌な鼻歌が聞こえる。これは三〇分以上出てこないな。
チカは俺の従妹だ。今は高校生だったはず。彼女がうちに来る時は、大抵どこかの誰かと遊びたい時だ。叔母さんがうるさいから、俺のところへ行って勉強教えてもらうと言っているらしい。一応俺も昔は難関校に通っていたからそれなりに頭はあるのだが、それをチカに都合よく使われているというわけだ。
チカの遊び相手は誰だか知らないが、前に見かけた時は、いずれも違う奴といた。……俺には関係ない話だから、何も言うまい。
そんな彼女が、今日は夏祭りに行くと言って、浴衣や小物一式を持ってうちに来たのだった。
「ミナトくん着付けできるでしょ? やって」
ドン、とカバンを押しつけられ、ズカズカ家に上がり込むチカ。一体誰に似たのやら、俺は叔父叔母の顔を思い浮かべた。
当分風呂は空かないだろうし、先に何か腹に入れようとキッチンに立ったが、それも面倒くさくなってきた。ひとまず水分補給、水道から水を汲む。……ぬるま湯だ。
冷蔵庫の中にはチーズが一かけと、ビールとラムネが一本ずつ、あとは凍ってない氷枕。
「明日は買い出しに行かないとな……」
ラムネはチカが飲むだろうし、チーズとぬるま湯を持って、さっき出てきた部屋に戻った。日が沈んでもまだ空気は暑く、文明の利器に頼るべくリモコンを握る。チカが出てきて暑いと嫌だろうから……。
俺の生活は随分チカに侵食されてしまっていた。従妹と言うには近くて、家族と言うには熱があり、恋人と言うには冷めすぎて。都合の良い関係と言うのがピッタリ合うが、やはり俺たちは血の繋がった従兄妹でしかない。そう、堂々巡りしているのはきっと俺だけで、チカはきっと何も考えてやしない。そういう対象じゃないのだ。
二十七歳、男、フリーター兼バンドマン。
俺はチカが好きだ。
さっき寝落ちするまでに書いていた歌詞は最後まで仕上がっていた。確認するにも一旦置いて明日にしたい。メールの新着通知もないし、手持ち無沙汰になって、そばに転がっていたギターを手に取る。
普段はベース担当だけど、ギターは作詞する時に使えるし、何なら今のメンバーに落ち着く前は俺がギター担当だった。
何を弾こうか、ジャラジャラ音を鳴らしながら、次の新曲のメロディを頭に流す。ギターはこんな感じだったっけ。誰も聴く人はいないから今は適当。
「私、やっぱりギターよりベースの音の方が好きだな。お腹の奥に響くのがクセになる感じ」
「……チカ、髪拭きなって」
バスタオルを巻いただけのチカが、入り口に立っていた。
彼女は俺からギターを取り上げると、あぐらをかいた脚の上に座り、さも当然のようにもう一枚のタオルと頭を差し出してきた。
……拭けってことか、人の気も知らないで。
「嫌ならこのまま布団に寝転がってびしゃびしゃにしてあげるけど」
「丁重に拭かせていただきます」
濡れた黒髪からしたたる雫が冷たい。それを夏の熱気を含んだタオルで包んで、彼女の髪が明日も誰かの目を奪うように、丁寧に乾かしていく。ただ一心に、甘い香りも白い首筋も意識の外に追いやる。
「どうしてミナトくん、ベース弾けるくせに私がいる時はギターばっかり弾くの?」
もういいかな、というところで、チカが不服そうに声をかけてきた。形のいい脚を折りたたみ、脇へ退けたギターの弦を白い指が弾く。
「さぁ。……チカが好きだからかな。ベース」
「なぁにそれ、私への嫌がらせ?」
チカは本気にしないで、クスクスと笑った。まるで彼女の方が俺より遥かに年上であるかのような、いや、俺が子供であるような無力感。
チカが好きだからベースを取ったが、俺がチカを好きだから、幻滅されたくなくて彼女の前では弾けない。それに……。
「また今度ね」
「いつもそういうんだもん、今度こそって思うのに。いつかライブ聴きに行ってやろ」
「はは、どうせ来ないくせに」
彼女の肩が冷える前に手に持ったタオルを掛け、彼女のために用意した座布団に座らせる。俺も頭を冷やしてくるか、と戸を開けると、まだ脱ぎ散らかした浴衣が落ちていた。
彼女にとって都合のいい俺は、それを回収しながら風呂場へ向かったのだった。
いつまでもここに来てほしいから、なんて。……叶わない想いの、ただの延命だよ。
スマホの時計を見るともうすぐ日付が変わる時刻。クーラーも点けずに寝ていたから、寝汗で身体がベタつく。扇風機があるとはいえよく生きてたな。
(先に腹を満たすか、汗を洗い流すか……)
部屋の戸を開けると、脱ぎ捨てられた浴衣が廊下の上でくたばっていた。玄関から足袋に、紐に、飾りに帯にと、足跡のように続いている。反対の端、風呂場の前には見覚えのある下着が落ちていて、誰がシャワーを浴びているのかを示していた。
「チカ、俺も入っていい?」
「えー、駄目。あと三〇分待って」
「長いよ」
ご機嫌な鼻歌が聞こえる。これは三〇分以上出てこないな。
チカは俺の従妹だ。今は高校生だったはず。彼女がうちに来る時は、大抵どこかの誰かと遊びたい時だ。叔母さんがうるさいから、俺のところへ行って勉強教えてもらうと言っているらしい。一応俺も昔は難関校に通っていたからそれなりに頭はあるのだが、それをチカに都合よく使われているというわけだ。
チカの遊び相手は誰だか知らないが、前に見かけた時は、いずれも違う奴といた。……俺には関係ない話だから、何も言うまい。
そんな彼女が、今日は夏祭りに行くと言って、浴衣や小物一式を持ってうちに来たのだった。
「ミナトくん着付けできるでしょ? やって」
ドン、とカバンを押しつけられ、ズカズカ家に上がり込むチカ。一体誰に似たのやら、俺は叔父叔母の顔を思い浮かべた。
当分風呂は空かないだろうし、先に何か腹に入れようとキッチンに立ったが、それも面倒くさくなってきた。ひとまず水分補給、水道から水を汲む。……ぬるま湯だ。
冷蔵庫の中にはチーズが一かけと、ビールとラムネが一本ずつ、あとは凍ってない氷枕。
「明日は買い出しに行かないとな……」
ラムネはチカが飲むだろうし、チーズとぬるま湯を持って、さっき出てきた部屋に戻った。日が沈んでもまだ空気は暑く、文明の利器に頼るべくリモコンを握る。チカが出てきて暑いと嫌だろうから……。
俺の生活は随分チカに侵食されてしまっていた。従妹と言うには近くて、家族と言うには熱があり、恋人と言うには冷めすぎて。都合の良い関係と言うのがピッタリ合うが、やはり俺たちは血の繋がった従兄妹でしかない。そう、堂々巡りしているのはきっと俺だけで、チカはきっと何も考えてやしない。そういう対象じゃないのだ。
二十七歳、男、フリーター兼バンドマン。
俺はチカが好きだ。
さっき寝落ちするまでに書いていた歌詞は最後まで仕上がっていた。確認するにも一旦置いて明日にしたい。メールの新着通知もないし、手持ち無沙汰になって、そばに転がっていたギターを手に取る。
普段はベース担当だけど、ギターは作詞する時に使えるし、何なら今のメンバーに落ち着く前は俺がギター担当だった。
何を弾こうか、ジャラジャラ音を鳴らしながら、次の新曲のメロディを頭に流す。ギターはこんな感じだったっけ。誰も聴く人はいないから今は適当。
「私、やっぱりギターよりベースの音の方が好きだな。お腹の奥に響くのがクセになる感じ」
「……チカ、髪拭きなって」
バスタオルを巻いただけのチカが、入り口に立っていた。
彼女は俺からギターを取り上げると、あぐらをかいた脚の上に座り、さも当然のようにもう一枚のタオルと頭を差し出してきた。
……拭けってことか、人の気も知らないで。
「嫌ならこのまま布団に寝転がってびしゃびしゃにしてあげるけど」
「丁重に拭かせていただきます」
濡れた黒髪からしたたる雫が冷たい。それを夏の熱気を含んだタオルで包んで、彼女の髪が明日も誰かの目を奪うように、丁寧に乾かしていく。ただ一心に、甘い香りも白い首筋も意識の外に追いやる。
「どうしてミナトくん、ベース弾けるくせに私がいる時はギターばっかり弾くの?」
もういいかな、というところで、チカが不服そうに声をかけてきた。形のいい脚を折りたたみ、脇へ退けたギターの弦を白い指が弾く。
「さぁ。……チカが好きだからかな。ベース」
「なぁにそれ、私への嫌がらせ?」
チカは本気にしないで、クスクスと笑った。まるで彼女の方が俺より遥かに年上であるかのような、いや、俺が子供であるような無力感。
チカが好きだからベースを取ったが、俺がチカを好きだから、幻滅されたくなくて彼女の前では弾けない。それに……。
「また今度ね」
「いつもそういうんだもん、今度こそって思うのに。いつかライブ聴きに行ってやろ」
「はは、どうせ来ないくせに」
彼女の肩が冷える前に手に持ったタオルを掛け、彼女のために用意した座布団に座らせる。俺も頭を冷やしてくるか、と戸を開けると、まだ脱ぎ散らかした浴衣が落ちていた。
彼女にとって都合のいい俺は、それを回収しながら風呂場へ向かったのだった。
いつまでもここに来てほしいから、なんて。……叶わない想いの、ただの延命だよ。