ストーリー

文字数 16,639文字

【一】
 頭頂部に苺色のリボンを着けた少女は、コーヒーの湯気で不覚にもメガネのレンズを犠牲にした。カフェで優雅に読書を楽しんでいたのだろうが、注文の品が運ばれ、事態が一変したらしい。どうやら、コーヒーの湯気は遠慮を知らないらしかった。
 僕は、むくつけき少女の形相に目が離せなかった。居心地が悪い感じがしながらも、一先ず注文したコーヒーを口に運ぶ少女をなにやら畏敬するふうに思えた。別に様子が可愛らしいとか、仕草に惹かれたとか、そんなことではない。自分には無い物が彼女にはある、そういう漠然とした思いに駆られたのだ。
 だからと言って、僕は彼女の世界に踏み込もうとは思わない。これ以上の感情はない。彼女の世界と僕の世界は多分触れ合わない。こうやって、間接的に干渉するようなことはあっても。
 僕が物思いにっていると、彼女は状況に慣れたのか、再び本の世界へ導かれていった。藍色の秩と紫陽花模様のある栞は、彼女が読む本を教えてくれない。教えてくれるはずがない。彼女の温もりに触れているそれらは、彼女しか見ていないから。僕や店員は蚊帳の外だ。それでも、いつかは教えてくれるだろうか。
 それにつけても、苺色のリボンと藍色の秩は相容れない存在だな、なんて考えてみる。統一感の無いところが、彼女の性質なのかもしれない。変に同色で武装されても、愛が伝わってくるだけで惹かれない。彼女の方がよっぽどいい。同時に、このカフェもいい。内装から、店員の服装、メニューまで、何もかも統一感されていないところが、心踊るような気分を誘う。来る度に視点を変えて楽しめるのもいい。
「お客様、本日は紅茶だけですか?」
 見知った店員が、気さくに話しかけてきた。いつも笑顔で接してくれるので、営業スマイルというやつなのかも知れないが、客側が気分を害することは全くない。むしろ気に掛けてくれるなんて、サービスとして非常に良く整っている。
「ええ、まあ。ちょっと」
 そういって、少女の方に顔を向けた。店員は何事か分からず、口角を下げている様子であったが、何やら結論に辿り着いたらしい表情で、再び笑顔を取り戻した。
「彼女がメインディッシュってことですか?」
「それは、何やら誤解を招きそうな言い方ですね……」
「意味あり気な表情で言われますと、色々考えちゃうじゃないですか。まあ、それはさておき。此方、店長からの奢りと言うことで、お持ち致しましたよ」
 運ばれてきたのは、店長——マスターお手製のキッシュ。カフェの常連にとって、名物料理だ。カウンターの方に目をやると、マスターは背を向けて、何やら料理を作っているらしい素振りを見せるが、僕の気持ちはきっと伝わるだろうと思い、ありがとうございます、と一言残して料理に手を付けた。



【二】
 僕はお金がない。理由は二つある。
 一つは高校生だから。高校生だから収入源が無い。バイトをしてしまえばいいじゃないか、と思われるかもしれないが、生憎、弊校ではアルバイトが禁止されている。戒律を破る勇気はないので潔く従う。もう一つは、週に一度カフェに通っているから。こればかりは、行かなきゃいいと思われるだろう。しかし僕にとって、カフェに通うこと自体が生活をする上で欠かせないルーティーンとなっている以上、心の臓にまで染み着いたモノを今更拭き取ろうなどとは思わない。
 僕は国公立大学を目指す一般高校生だが、週末を潰すくらいの余裕はある。平日と日曜日は勉強に追われているので、土曜くらいお休みしたっていいじゃない。人間、息抜きが肝心なのだから。
 ……そうやって妄想しながら、今日もカフェを訪れる。
「いらっしゃいませ」
 店内へ足を踏み入れると、先週、僕を揶揄ってきた店員が、真っ先に挨拶する。本日も笑顔が輝いている。常連客以外には変に突っかからないので、初見の客にとっては好印象だろう。いつもの席に案内してもらい、コーヒーとクロワッサンを注文してみる。
「トッピングはどういったものにされますか?」
 クロワッサンへのトッピングということだろう。客がつましい味に杞憂しないよう、予めトッピングの注文が問われる。というのも、この店の料理は、他と比べて量が多いことを売りにしているが、如何せん、味が淡白なので、客が色々な味を楽しめるようにということで、トッピングの注文が求められるのだ。実はトッピングが専門なのではないかと、思わず指摘したくなるくらい種類は豊富である。何を頼んでも、たいていのものは出てくる。いつであったか、冗談交じりで旨辛肉みそを注文して、実際に出された際は、不覚にもあんぐりとさせられた。
 ……さて、何を頼もうかな。そんなふうに考えていると、何だか一週間前の光景が脳内を過り、嫉妬心が芽生え始めた。何に対してか、と言われれば、それは少女のリボンであった。苺色のリボンが、僕を捉えて離さない。それにしても、どうして少女のリボンなんかを思い出したのだろう。
 ——ああ、そうか。そういうことか。今日の少女は、昨週とは打って変わってカチューシャだからか。日本人らしい黒髪に、ビターチョコレートを彷彿とさせる色彩のカチューシャが、妙にくすぐったかった。
「よし、苺ジャムにしましょう」
「あれ、てっきり旨辛肉みそを注文されるものかと思っていましたが」
「辛いのは嫌いじゃありませんが、これでも甘党です」
 その話はもう済んだ——いや済んだというのは、僕の脳内でだが——少し語気を強めて言い、出方を伺ってみる。店員は一瞬戸惑う素振りを見せたが、もはや笑顔が素顔なのか、変に表情を変えることなく、注文を聞き入れてくれる。
「失礼致しました。それでは御注文の品を確認させて頂きます。コーヒーとクロワッサン、トッピングに苺ジャムの三点ということで間違いありませんか?」
 僕は頷き、店員は注文を伝えに去る。きっと、十分(じっぷん)も掛からないだろう。マスターは料理の筋がいいから、客を退屈にさせない。僕にとっては、物思いに耽る時間として、少しくらい退屈な方が体にいい気がするが、一方で、マスターの料理を味わいたいという本能的な欲望が抑えられない。そうやって悩んでいるうちに料理が到着する。一見有意義では無いかもしれないが、僕にとっては十分(じゅうぶん)意味のある時間となっている。
 さて、少女は今日も本を読んでいる。僕は少女をさり気無く観察する。彼女はチョコレートケーキを注文しており、数頁読み進めたかと思うと、今度は本に栞を挟んで、それを口に運んでいた。唇から伝わる躍動、彼女の容姿からもある程度推察できるが、チョコレートが好きなのだろう。なかんずく、本であったり食べ物であったり、好きなことが可視化されていて、彼女の様々な表情が伺えるのは僕の興味を事欠かない。
 僕の下に運ばれてきたクロワッサンも、味覚の可能性として事欠かない。ほのかに下を包む甘みとそれだけで空腹を自覚させる香ばしさ、まるで口の中を舞踏宮殿として踊るようなサクサク感は、それだけでも料理の主役と言えよう。トッピングによって楽しみ方が変わるのだから、臨機応変な食べ物と言っていい。
 五感全てで楽しむのが料理。凄腕の料理人は

だ。それこそ、学問における世界的権威に匹敵すると言っていい。料理だって、味を学ぶから個性が現れるし、美味しくなる。料理人の人生も、勉強にあるのだ。だからこそ、僕はマスターを凄腕の料理人と思う。僕がこのカフェを訪れる理由のうちの一つなのだから、間違いない。
 唾液溢れる料理を堪能して興奮している心を鎮静する為、コーヒーに口をつける。料理が一つの物語になっている。もしかすると、料理人は喜劇作家なのかもしれない。勿論、風刺を料理で表現するのは難しいので、喜劇とは少々異なるが、そう表現したくなるくらいには、悲壮を孕んだ料理を食べたことが無い。五百円程度でここまで楽しめるなんて、下手な映画を観に行くよりお得だ。そうしていると、不意に少女が視界に入ってきて、だからこそ、僕がカフェで飽きることなんてあるはずなかった。収入源が無くても、学業第一の高校生でも、僕が聖地を手放すことはない。



【―幕間―】
 僕は孤独だが、彼女は孤高だ。僕には分かる。人とは比にならない高い理想を持ち、それを叶える為に本を追い求めている。これは、藍色の秩と紫陽花模様のある栞が教えてくれた。これらは、やっと僕に心を開いてくれて教えてくれた。
 本にとり憑く彼女は、間違いなく孤高である為の理由がある。この先は、まだ僕には分からない。飽くまで、とり憑き先は本という媒体であり、固有の演題ではないのかもしれない。或いは、学問対象が幅広いのか。いずれにせよ、僕はこの空間での彼女しか知らない。それ以外の彼女は、僕にとって幻想に過ぎない。土曜日にだけ、空間を共有する。彼女は、気付かないふりをしているだけかもしれない。僕の異常な眼差しに、既に気付いていて、恐れているかもしれない。
 そうであるなら、もうこの場には居ないだろう。頻繁に様子を覗かれて、喜ぶ者は物好き以外いない。視線を感じたい、見られたい。そういう願望があるなら、オープンテラスのある店に通うだろうから——僕はこの場の彼女しか知らない以上、その可能性も否めないが——この推察に、間違いはないと思いたい。
 ……だから、何が言いたいのかといえば、彼女は僕の視線に気づいていない。少なくとも、今日までは。今後はどうなるかしらん。



【三】
 毎週、同じ場所で、展開されていく物語。
 いつしかそれは、何の変哲もない日常と化す。
 進展が無ければ、停滞も無い。
 こんな日常に、僕は慣れてしまってよかったのだろうか。
 心境の変化——そう言ってしまえば、聞こえはいいかもしれないが、これに至る背景を語れば、単純な心境だと、僕は思えない。
 一種の革命だよ。
 男性と女性という生物学上の分類は、芸術だと思っていた。美しさを求める為、人間は敢えて、この不可思議さを言葉で表したのだと。この生物学的発想が、人類史に多大なる影響を及ぼし、男尊女卑だとか、女尊男卑だとかいう言葉を生んでしまった。これは、人類の進展を性によって停滞させていたといってもいい。日本を見れば、女性に参政権が与えられたのは、戦後間もなく。英国を見れば、一次大戦末期である。これは、両者とも目まぐるしく変化する国際社会に影響された故の歴史的事象で、変化がなければ、もしかすると発生しなかったとも——もしかすると、という空想の話は、僕は歴史において必要ないと思っているが——考えられる。こういった事象は、触媒という、何か状況を急激に変化させるものがあるからこそ、発生している。災害や戦争といった、人類の生活を劇的に変化させる事象が発生しない限り、現状維持であろうから、この生物学上の分類は、純粋に芸術だと思っていられた。
 歴史を積み重ね、遂に現代では、社会的・文化的な性別の壁を取り除こうと、ジェンダーレスが唱えられている。
 しかしそれは、同時に不平等を体現していないか。社会的、文化的という言葉が鼻につく。芸術かどうかで考えたら、僕はジェンダーレスなんて言葉はいらないし、歴史を否定することにもなりかねないが、今日までの政治の在り方は間違っている。
 男性と女性の区別は、純粋に芸術だと思わせてほしい。馴れ初めから、まぐわい、行為だって芸術。次第に嫡子が誕生し、育てていく過程で苦労を知る。育て終え、余生を楽しみ、同じ墓に眠る。これは、男女の区別があってこその関係で、区別する言葉が無くても美しいが、分類されることで可視化され、より美しさが際立つ。
 先日、下校途中に男女のカップルを多数見かけた。どれも花があって、独自の関係が構築されていたと思う。人間それぞれ違うから、そこから引き出される味が、また美しい。同時に、羨ましくもあった。
 書生たるもの、学問第一。それは容易に理解出来る。しかし、同時に知見が狭い。所詮、肩書という箱庭の中で、アイデンティティーを形成しているだけの代物に過ぎないからだ。
 ひょっとすると、自分が恋愛に目を向けることを、正当化しているのかもしれない。先々週、先週に、僕と彼女が結びつくことはないと、男前に語っていた人間が、今では一匹の雄として、本能を理性で正当化しかけている。
 そんな自分を冷静に考えて、こそばゆいふうに思えた。ああ、まだ自分は大丈夫だな、とも思えた。僕にはまだ、人間たらしめる要素が残っていたらしい。そう結論付けて、今日も何か注文していこうか。
「本日のオススメは何ですか?」
 地球の真理を辿っていた先程とは打って変わり、僕は清々しい気分で店員に尋ねていた。先ほどまで難しい顔をしていた僕を知っている店員は、若干の違和感を抱きながらも、軽快に返してくれた。
「そうですね、冷麺なんていかがですか? 店長が、料理する時も涼しくいたいというので、今週から()(もの)をメインにやっていますよ」
「じゃあそれでお願いします。トッピングは、キムチで」
「では、そのように伝えます。ご注文は以上ですか?」
 僕は躊躇いなく頷き、注文を済ませる。こう、マスターの機嫌で品目が変わる店は嫌いじゃない。むしろ、好きだ。好きだから、毎週来ているっていうのはあるけれども。
 さて、彼女はどんな料理を注文しているのだろう。夏が本格化してきて、彼女も冷え物を注文しているだろうか。それとも、以前のように、コーヒーで顔をしかめているだろうか。
 そんな気持ちをよそに、彼女が座っているであろう席に、顔を向けてみる。
 さり気無く、無意識を装って。
 ただそこには、飲みかけのコーヒーカップがあるだけなのに。



【―幕間―】
 五分程度でどんな思いが綴れるかしらん。彼女が僕の視界に入らなくなってから、世界がすっかり変わってしまったという話でもしようか。丸まっていた心の臓が、改めて尖ってしまったふうに思える。興味や関心を担っていたものが、ぽっかり穴を空けている。こんなこと、僕にとってはくだらない。でも、どうやら周りはそうでないらしい。なんだか、世界が僕を遠ざけているふうに感じるのだ。人生で一つの楽しみが、フライパンでバターのように溶かされた後、彼女という「メインディッシュ」が投下され、僕と絡み合って居たのに、彼女は誰かに食べられてしまった。それで僕も一緒に、胃酸で溶かされればいいよ。しかし、違う。僕だけがフライパンに残され、キッチンペーパーで拭き取られてしまうのだから。ほんとに彼女はいなくなってしまったのだと、心の底から感じざるを得ない。失意のうちに、僕は散ってしまいそうだよ。



【四】
 とある歌を聴いていて、疑問に感じたことがある。幸せとは、数えられるのだろうか。英語では、ハピネス(happiness)やラァク(luck)というのだろうが、これらは不可算名詞だ。英語圏では、直接的に数えることは出来ない。幸せが一つ増えるという言い方は、やはり不自然なのだろうか。まあ、仮に不自然であっても、僕は使うよ。
 僕は最近、一つ不幸せを得た。観察対象であった少女を失った。突然の出来事であったが、熟考すれば、原因は目に見える。僕が悪いのだろう。僕は彼女にとって、不審者であった。不幸せの象徴であった。だから、この場から去ったのだ。彼女は別に、僕から離れて幸せになった訳ではないだろうが、不安材料が取り除けて、さぞかし安心しているだろう。それとも、この店を訪れることが出来ず、不幸せかしらん。万が一、彼女が僕と同じ境遇なら、うってつけの店に足を運べず、それこそ不幸せだ。同時に僕も不幸せ。生きがいを亡くしたようなものだから。
 ひんやりとしたテーブルに、自然を湧かせる植物。コーヒーを淹れる音色は、なにやら河水にも聞こえる。店内はすっかり雰囲気を変え、瞳を閉じれば河原の様子が浮かび上がる。唯一の欠点にして、最たる利点は、虫の類が顔を見せないことだ。雰囲気を考えれば、虫がいないと完全に再現するに至らない。しかし、奴らは、僕にとって邪悪な存在であることが殆どだから、むしろ好都合だよ。
 普段、人工物に囲まれている人間が自然に触れた途端、開放的な気分になることは珍しくない。店内はそういう雰囲気ではないものの、それに似た、清々しさは感じられる。まったく、物好きなマスターだよ。ここまで来ると客に対するサービス精神が全てか、マスターの個人的趣味が全てか、判断不能だ。
 しかし、それさえ惨めに思えてしまう僕は、一体何だろう。
「僕、もう来ないかもしれません」
 不意に漏らしてしまった言葉は、予想以上に小さく、弱弱しいものであった。本意ではないと言いたげだ。
「……どうかされましたか?」
 それでも、店員は笑顔で向き合う姿勢を改めず、僕に対峙してきた。嫌いじゃないが、流石に本音を言うのは気まずいので、誤魔化すことにする。
「最近体が言う事を聞きません。僕はこのまま、駄目になってしまいそうだ」
 笑顔とはまた違った笑みを浮かべる店員は、どうやら笑っているらしかった。営業スマイルではなく、素の笑いであった。
「精神的な苦痛とは全く無縁の方だと思っていましたが、意外と従順なのですね」
「そうでしょうか?」
 本音を隠してしまったので返答に困る。疑問ではなく、適当な返事で濁しておけばよかったと後悔する。
「では、私の話を聞いてください。私が笑顔を崩さないのは、感情労働をしているからです」
 店員が自分語りを始めてしまったが、抗う余地もなく聞くしかなかった。
「接客業に勤しむ者は、主観を抑え込まなくてはなりません。笑顔は、最初で最後の、主観と客観を隔てる大きな壁なのです。顔は第一印象ですから、お店の看板になります。私がもし、無愛想で消極的な接客をしていたら、常連客を獲得できるでしょうか。……まあ、貴方や、貴方の向かい側に座る女性といった常連客は一定数いると思いますが、やはりほとんど寄り付かなくなるでしょう。お店の利潤は、私のお給料に直結します。ですから、仮に精神的な苦痛を受けても、踏ん張ってお客様と接しなければならない。それが店員というものです」
「確かに、貴方の言う事は理解できます。利益の為の建前は、集団社会を生き抜く上で必須事項でしょう。勿論、僕や彼女のような物好きは、それでも寄り付きますが、だからといって、僕らがお店側にとっての最大限の利益を生むことは到底ない。お客様からの最大限の利益を追求する以上、提供する側は、出来るだけそれらに対する最大幸福を提供し、かつ、大勢からの対価を求める必要性がありますね。それで、それが一体、僕とどのような関係にあるのでしょうか」
 そう問いを投げた瞬間、店員は待っていましたと言わんばかりの笑みを浮かべて、思惑通りの言葉を言い放った。
「そこですよ」
「そこ、とは?」
 そこ、だけでは理解できるはずもない。何処に答えがあったと言うのだろう。僕の考えることに何が——
「あっ」
 なにやら、点と点が吸い寄せられるふうに繋がった気がした。同時に、自分にとって最大の欠点と考えざるを得なかった。
「常に主観である」
「そう、そこです」
 決して交わるはずの無かった点と点が、何食わぬ顔で繋がる予定があったと言わんばかりに、自然と結び付く感覚を覚えた。
 キッチンペーパーで拭き取られてしまったはずの僕は、同時に、他者というものに掬われた気がした。僕というバターは、主観に溢れていた。それが、彼女というメインディッシュを一生懸命神秘的に見出そうとした。しかし、僕は彼女の味を引き出すどころか、引き離されてしまい、それで拭き取られて捨てられた。捨てられたはずであった。だがしかし、それは店員というキッチンペーパーで、僕の主観を吸い取って、客観との明確な出会いの場を設けてくれたのだ。それは捨てられてもいい。僕というバターは全てが浪費された訳ではなく、まだ冷蔵庫に残っている。客観的な視点を知った僕が、同様の醜態を晒すことは、もうないだろう。偉大だ、料理は。食事という物語を楽しむだけでなく、人生において大切なことでさえ教えてくれるのだから。学校の授業では抱えきれないところまで、料理は手を伸ばしていた。
「そして、貴方も偉大です」
「えっ、私ですか?」
 口元が緩んでしまい、頭で考えていたことをつい話してしまった。まあいい。悪いことを言った訳ではないのだから。
「ありがとうございます。おかげさまで、気分がいいです」
「私には理解しがたいほどの思考を張り巡らしていたようですが、それで解決できたなら安心です。……あっ、あの。折角ですから、私も伝えたいことがあるのですが……」
 なんだろう、そこまでいくと接客の度を超えてはいまいか。関心しないな。先程まで客観的な視点が大切だと、僕を諭していた女性には、到底感じられない。
 ……なんてことを言ったら、ますますお店に訪れにくくなるか。止めよう、忘れよう。
「いつか聞きます。今は、僕を救ってくれた貴方と、お店の雰囲気を大事にさせてください」
 何やら夏気らしい火照りを店内で感じた。涼みたいという一心は、しらじらしく料理を続けるマスターも同じらしい。だから僕は、アイスコーヒーを注文する。
少し、人間の本能的な臭みを感じながら。



【五】
 他人にとっては、淡いのかもしれない。勿論、常人なら毎週同じカフェに通って同じ少女を遠くから見つめるという行為をしようなど、到底考えつかない。しかも、これを本人は観察と表現している。この一言で、心のうちに秘める、決して覗くことは叶わない本性が滲み出ていることが分かるだろう。残念ながら、僕はこれを愛情だと自力で捉えるまでに至らなかった。偏に、カフェの店員のおかげであり、そういった意味では頭が上がらない。
 僕は、これが恋と認識するまで、恋を経験したことが無かった。勿論、これを文字として認識した場合は当然のことだと、誰しも考えるだろう。しかし、これを文字として認識するのと言語として認識するのでは、全く別物なのだ。
 改めて、文字として認識する場合、前述したことを引用すればそれでいい。「恋と認識する」、これでどうだ。その文字に深い意味はない。記述された通り読み取れるのであって、それは本質を表してはいない。つまり、「恋と認識する」という記号が置かれただけで、記号自体に意味はないのだ。では、言語として認識した場合はどうなるのか。この世界には、想像もつかないほど沢山の言語が存在しており、それらは、それぞれ起源が異なっていたり、時代を経て意味を変えてきたり、様々な形で言語を成立させている。
 仮に、辞書がラヴ(love)を恋と訳しているから、英語のラヴ(love)と日本語の恋を比較してみるが、果たして同じ様相を保つか? もしそうと思うなら、貴方は適応能力に長けているから、今すぐ統一言語を作って欲しい。しかし、そうなったとしても、記号と言語の差異は埋まらないだろう。
 さて、僕がここで論じたいのは、言語として認識した場合について、日本語といった、言語という大きな括りの中でも更に狭義的な言語における意味認識の差異についてである。
 僕は日本語としての「恋を認識する」まで、恋を経験したことが無かったのだ。某辞書に、恋とは「一緒に生活できぬ人や故人に強く惹かれて、切なく思うこと」であると記載されている。これを意味①とする。また、異なる辞書には、「特定の異性を強く慕ったり、特定の異性に惹かれたりすることが恋である」と記載されている。これを意味②とする。では、「恋」の意味は意味②だと一義的に捉えた場合、近年、病気と青春を題材とした小説が多く出版されているが、主人公の恋は、物語の中盤で終わってはしまうのではないか?
 僕が死を軽く扱っているとは思われたくない。不本意ではあるが、持論を説明する例え話であるとして許容して欲しい。
 例えば、かけがえのない人を失ってしまったとしよう。では主人公らは、彼もしくは彼女であったそれ——骸についても強く慕い、尊ぶのだろうか? 仮に骸を異性と言えるなら、異性たらしめる根拠を述べてほしい。骸に至る前が、異性であったからか? 僕は、「それに至る前の存在に恋をしている訳で、そうとなってしまった以上、生前と死後の存在は全く別物であり、また、生殖機能に鑑みても——だから生前の男性と女性といった生物学的分類は、芸術であると考えているのだが——骸になっては停止してしまうので、判断不可能だ。加えて、外見の性質だけで判断しているなら、個々のホルモンバランスは異なるから、一概にもそれを異性と断定することは困難である」と考える。つまり、意味②のみで捉える「恋」は、意味①とは全く異なる言語となってしまうのだ。
 意味②の「特定の異性を強く慕ったり、特定の異性に惹かれたり」することが恋であるというなら、永遠の愛などという決まり文句は、失礼極まりないと僕は思ってしまう。結局のところ、意味①の「一緒に生活できぬ人や故人に強く惹かれて、切なく思うこと」が意味②と共に存在しているからこそ、亡くなった人に恋し続けることが明確に表現できるし、日本語の「恋」をより正確に認識することが可能になるのだ。
 だから、僕はこの意味①と意味②を孕んだ「恋」を認識するまで、自分は恋を経験したことが無かったのだ。今まで、誰かに会えなくてここまで切なく感じたことはなかった。この切なさは、別に体が震えたり、苛立ちが止まらなかったり、そういった中毒症状のことではない。会えないので、心が縮まる思いがするというか、時々彼女を思い出してはベッドの上を転げ回るというか、そういった具合である。
 これを僕に「恋」だと認識させてくれたのはカフェ店員だ。客観的視点の一つに、自分が知覚しただけの意味をその記号の意味として捉えることは誤っている、ということも含まれているのだと僕は結論付けたい。僕は客観的視点から、自分の挙動は恋による賜物と認識させられたのであった。そこで僕に疑問が浮ぶ。
 果たしてこれは、本能を理性で正当化しているのだろうか。
 少なくとも、それが客観的視点なのであれば、客観性は本能を理性で正当化するという意味を辞書に追加していいかもしれない。以上のことが、自分という人間とは何かを考える上で大きな役割を担っているなら、時間の無駄にはなっていないと、そう思いたい。いいや、かつて勉強は「遊ぶこと」であった。古代ギリシアでは、学校は暇人が集まる場所であったし、信仰以外の勉強は「遊ぶこと」であるから、そういった意味で捉えれば、始めから僕がしていることは生きる上で無駄なことかもしれない。
 しかし現代ではどうだ。学校は、僕と同様に思春期の少年少女を沢山抱え、教育機関として心と体の育成している。現代において、学校は無駄の産物とは到底言えない。主権国家を担う人間を育てるという観点で教育は必須であり、我々は将来の為に勉強をしている。それは能動的であっても、受動的であっても。受験は団体戦と言いながら、結局は本人の能力次第で決まる。集団に身を置くことによってバイアスはかかるかもしれないが、最終的にじゃ個人の実力を測る。正に実力至上主義である。
 結局、民主主義と自由主義は個人主義を加速させた。それはニートや不登校を増加させてしまったし、孤独死や自殺者も同じく増加させてしまったと僕は思う。ホモ=サピエンスは他者との関わりにおいて生存を保ってきたのだから、他者と一定の関係を持てる共同体に身を置くことは、人間の本能だ。だから僕は、通うカフェを学校にしたい。それは飽くまで、自分にとっての学校だ。個人主義の加速と他者との競争を象徴する学校と、貨幣経済が普及して以降、貨幣の対価として料理を提供し、かつ、共同体の一員として人間性を育むことの出来る学校。これは僕の辞書に過ぎない。学校という言葉に意味を付け加えるなら、僕は必ず前述した二つを記載するだろう。
 それが僕にとっての学校だから。



【六】
 秋頃になると、店内は黄色や赤色の花が目立ち、何やら紅葉を意識しているふうに感じられた。店内に充満するサツマイモのかぐわしい香りが、僕の食欲に火をつける。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
 本日も笑顔を欠かさず対応してくる店員も、サツマイモの香りからか、いつもよりいくらか嬉しそうに感じられた。
「では、サツマイモパイと栗きんとん、後は紅茶をお願いします」
「承りました。どうぞ秋を楽しんでくださいね!」
 女性はサツマイモを好む人が多いと聞くが、実際にそうなのだろうか。スポーツの秋、食欲の秋とも言われるので、是非とも健康的に秋を味わってほしい。
 僕は最近、カフェで本を読むことにした。というのも、最近は家や学校で本を読む時間が無く、疎かになっていたからだ。彼女がここで本を読んでいた理由も頷けたよ。他人に邪魔されず、大自然の中で本を楽しめるので、彼女だけでなく皆がここで本を読みたいと思うだろうね、虫もいないし。商品が届いたので、まず口に運び、本を読み進めてから栞を挟んで、再び口に運んで、本の世界に戻っていく。これを繰り返して、本と旬の食べ物を楽しむ。
 以前僕が考えていた五感で料理を楽しむということは、間違いなく万民もするべきだと思う。ただ、彼女がしていた本を中心とした食事も、本の楽しみ方としては間違いないと感じた。これも、僕が物事を客観的に捉えられるようになった証拠なのかな。
 さて、そろそろ僕が読んでいる本の話をしてもいいかな。
 僕は最近、『壊れかけの世界』を読んでいる。
 破天荒さは一切ない主人公は、努力を重ねて会社で成功し、地位が向上する中で結婚して幸せな生活を送った。しかし、彼を満たすものは何もなかった。努力の甲斐も虚しくただただ空っぽで、既に壊れていた。表では誰が見ても羨ましい生活を送っていた彼だが、裏ではもう一人の自分が、幾多の犯罪行為に手を染めていた——。
 これが、書店の商品棚の端っこに置いてあった。本には著者の本性が写し出されると僕は思う。一人称視点なら、主人公やメインキャラクターに感情移入してしまうことが多いから、僕は、自分がまるで本の世界の主人公かのように錯覚してしまうことがある。その中で、僕は犯罪に手を染めてしまう。中でも、殺人を犯してしまう。巧妙な手口で、女性を。それまでは万引きとか、不法侵入程度であったのに、突然大きな犯罪を起こしてしまうのだ。それでも、僕は捕まらなかった。もうひとりの人格は、犯罪のエキスパートであった。当然、僕は自分の体がそんなことをやっているなんて認識してないから、今までと同じに近い生活していく。生活が充実すればするほど、もう一人の僕は、犯罪を起こしていく。それらは完全犯罪で、警察の網に引っ掛かることなく、僕は生きていた。しかしある日、妻の不倫現場を目撃したことから、夫婦喧嘩を起こしてしまうのだ。幸せな生活は一気に崩壊し、妻とは離婚。今まで感じたことが無いほどの絶望の淵に突き落とされた。そこで、僕ともう一人の僕は生きる世界が入れ替わったのだ。それまで幸せであった僕は、犯罪に手を染めるようになり、もう一人の僕は、人を愛し、仕事に精を出すようになった。
 おっと、気付けば主人公と僕が同化していたよ、
 この本は面白いことに、どちらかが必ず幸福を得て、どちらかが必ず絶望を被るという構図になっている。まるで普段の僕は幸福を得ていて、カフェでの僕は絶望を味わっているかのようなことを言われている気がしてならない。これは、自己投影なのだろうか。
 僕はどうしても、直近で読んだ本の内容を、自分の生活に置き換えてしまうことが多い。それはある意味、想像力が豊かだと言えるのだろうか。本を読んでいると、文字が踊りだす。それは、文字を判断出来なくなるというより、文字から映像が映し出されるような、そんな感覚。まるで夢でも見ているかのような、でもその夢は、しっかり手元に残っている。映画館に行って、下手な映画を観るよりよっぽど安い値段で物語を楽しめるのだから、これ以上の得はない。あれ、前にも映画館のくだりがあったかな。……そして読み終えると、必ず余韻に浸る。僕だったらこうするとか、僕だったらこう解釈するとか、飽くまでも僕という存在から逸脱することなく、僕の中で延長線上のよりいい物語が繰り広げられる。
「お待たせしました。まず、こちらがスイートポテトと栗きんとんになります」
 店員は商品をテーブルに並び終えると、キッチンに戻って紅茶を運んで来る。沸騰したばかりのお湯で淹れられた紅茶が、カップの中で小刻みに震えていた。飲まれるのが怖いか、いいや、何とも思っていないか。まじまじと紅茶を見つめている僕に、店員は戸惑いを覚えたのか、その場から離れようとしない。
「どうしました?」
 気が散ると言ってしまっては失礼だが、彼女の様子に違和感を覚えたので、しかめっ面を彼女に向けていた。
「あっ、いえ。ごゆっくりどうぞ~」
 彼女は我を取り戻したのか、いつもの笑顔でその場を離れ、矢継ぎ早に他の客の注文を受けていく。
 以前、僕の欠点を彼女が気付かせてくれてから、どうも僕に対する様子が可笑しい。それまでは、単に営業スマイルを向けてくるだけであったが、今はなんだか素の笑顔を向けられているような気がした。悪いことではないと思うが、もし私情があっての笑顔なら、僕はあまり感心しない。仕事は仕事であり、プライベートはプライベートである。特に、顧客のプライベートを邪魔しようものなら、僕は距離を置きたいくらいだ。
 とは言え、誰しも他人の本音は見えない。憶測だけで他人を嫌うのは、正しく主観である。見聞きした事象から総合的に判断してこそ、客観的であると思う。
 またこうして、一つの反省が生まれた。いいことだ。
「美味しい」
 スイートポテト、非常に美味しい。きっと、砂糖を使っていないのだろう。サツマイモを焼いた時本来の香ばしさと、舌が求める甘みをそつなく引き出している。代わりに栗きんとんは、非常に甘い。この甘みは、紅茶と非常に良く合う。乾いた舌を申し分なく潤し、脳を幸福で満たしてくれる。
 そんなことを思いながら本を読み進める。少し経って本を閉じて、料理を味わって、再びその世界に戻っていく。「壊れかけた世界」を、食べ物が繋ぎ合わせてくれているようであった。これは彼女もするだろう。僕だってやめられない、とまらない。
 注文した品を食べ終え、本に集中していた。相変わらず、店内に広がるサツマイモの余香は留まるところを知らないようだが、それでも本は僕を捉えて離さなかった。
 ドアが開かれたことを伝える鈴の音が、店内に響いた。普段ならその音色に思考を邪魔されることはない。僕に響かないから。しかし、今日は違った。何か、振り向かなくてはいけないと、本能が僕を揺さぶるのだ。それでも僕は、振り向かず堪えた。これは日常の一コマに過ぎず、振り向くという非日常的行為を行う必要は無いと、理性が本能に勝ったからである。
「いらっしゃいませ……!? お、お久しぶりです!」
 喜びと不安が入り混じったような声が僕の耳に届いた時、非日常的なことが起こったと察した。それと同時に、いずれ開かれると思っていた心の扉が、こんなにも早くそうなるとは思ってもみなかった。
 それは言わずもがな、少女の帰還である。
 一つの恋が終わり、一つの恋が始まった瞬間だ。



【七】
 このカフェでは、客の入店からフルコースが始まっている。
 入店時から、店内の香りや風景を楽しみ、店員とする注文時の他愛のない会話、料理を堪能すること、食後にまた店内の香りや風景を楽しみ、そして退店する。つまり、料理を含めたお店のサービス全体でフルコースを成しているということが言いたい。
 個人的に、問題はメインディッシュを何処に置くかだと思う。これに関しては、ほとんどの人が食事をする時だと答えるだろう。勿論、僕もその意見に賛成だ。少女を観察することも、本を読むことも、結局は食事を楽しむことが中心となっているカフェに付属する出来事なので、メインディッシュはそこにある。
 ただし、全会一致でそうであるとは明言出来ない。結局、メインディッシュは人それぞれなのだ。カフェのサービス全てがメインディッシュだと答える人が居れば、マスターを眺めることがメインディッシュだと答える人が居ても、何ら可笑しい話ではない。仮に僕が、カノジョをメインディッシュと定めたって、誰も文句は言えないのだ。
 少女が再びカフェを訪れるようになってから、一か月が経過していた。僕は彼女を観察することがほとんど無くなった。勿論、前回の反省も含めてそうしている訳だが、一番は、「僕はどうあるべきなのか」を見つめ直すことが出来たからだ。彼女が突然訪れなくなったこと、店員から客観的視点について気づかされたこと、こういったことから、僕は自分を見つめ直す機会を得られた。
 だから、自分と本の世界に間を置きたいときだけ、彼女を見ていた。今、店で彼女を見るのは一回か二回程度。まるで、モルヒネ中毒から脱したヘルマン=ゲーリングのような具合で、僕の心に巣食う虫は居なくて、頭も冴えている。なんだか少し、世界が明るくなった気がした。
 そんなことを考えていると、本に集中できなくなってきた。僕は本に栞を挟んでから、ふと彼女の方に顔を向けてみる。
 すると、意外なことが起こる。初めて彼女と目が合ったのだ。今まで無かった展開に適応できなくて、僕はすぐに俯いた。さながら内気な少年が見知らぬ人と目が合ってしまい、恥ずかしくなって俯いてしまうような動作に対して、僕は込み上げてくる笑いを抑えるのに精一杯であった。僕は内気ではない。むしろ慎重なのだ。必要以上のことは話さないし、必要以上に相手の領域に踏み込むことはない。そうは思いながらも、まるで内気であるかのような動作をしてしまう自分が居ること、それが可笑しくて仕方がなかった。
 ただ、その動作がいけなかったらしい。彼女は時を移さず荷物を纏め上げ、我が物顔で立ち上がった。いや、むしろ不安が爆発寸前であったのかも知れない。そして、彼女はお会計を済ませようと僕の座るすぐそばの通路に進む。
 去り際に、少女は僕を見た。突然立ち止まると、何やら状況にたじろいだのか、硬直した姿勢を呈する。僕は受動的にあることにした。この状況で先手を打ったのは彼女であり、僕ではない。僕が踏み入る気の無かった繋がりのない関係に、彼女は何かを添えたいようであったから、僕は彼女の言葉を待った。
「……あの」
 それが、彼女の第一声であった。彼女の緊張した面持ちと、僕に募る展開への期待とを兼ね備えた感嘆詞。積極性が皆無で、かつ、僕が理想としていた麗しい声。声までもが、僕を魅せる。だからと言って、彼女の言葉が待ち遠しか——
「迷惑なので、私のことをちらちら見るは止めてください……」
 壊れかけの世界。それは、行動一つで運命が変わる

であった。僕はずっと何処かで、彼女に幸福という理想を追求していたのかもしれない。或いは、僕に同情してくれる人間を探していたのかもしれない。だからこそ、彼女の精一杯の言葉に僕は応える気も無かったし、僕は彼女の言葉に何も感じなかった。同時に、彼女という存在は僕の中から消え去った。僕の中にある彼女という存在は、壊れたのだ。
 彼女はその場から離れ、一目散に会計へ向かい、カフェから去っていった。ここに一つの恋が終わった。客観的にみれば、これを失恋と言うのかもしれない。そういった境地に至ったことが無いから僕には分からないが、別に分かりたいとも思わない。
 ただ、一つだけ言わせてほしい。だからと言って、彼女の言葉が待ち遠しかった訳ではない。この期に及んで、彼女の世界に干渉しようという気持ちは毛頭なかったからだ——という意思表示を、彼女が僕を突き放す前に言っていたら、どう捉えられるかな。本当は独白であったのだろうか。本来は、彼女の世界に留まっているはずの言葉。それが、以前の僕のように、不意に出てしまっただけかもしれない。
 今ここで僕がどんなことを言っても、打ちひしがれた本能へのダメージを軽減するために、理性で自分を守ろうとしているようにしか感じられないかもしれないね。
 かくして僕は、僕に戻るのだ。
 だから今は、振り向くという非日常的なことをしてみる。
 少女の会計を対応したのは、笑顔が特徴的ないつもの店員であった。レジの仕事を終え、カウンターへ向かおうとしている。そんな中、僕の視線に気付いたのか、彼女は此方に顔を向けた。そして、笑顔を作り出す。それは営業スマイルなのか、素の笑顔なのか、僕には分からない。だって、彼女の心を覗けないのだから。
 でも今だけは、知った振りをさせて欲しい。どうしても主観が必要だから。そして、

を今度は十分に感じられたから。
 彼女が心の底から笑っている気がした。

—了
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

主人公。土曜日にカフェに通っている高校生で、ある日同じく通っている少女の魅力に惹かれ、もだえ続ける。脳内には、豊かな主人公の世界が広がっている。

ヒロイン① 主人公に興味を持たれている少女。普段は口数が少なく大人しい。主人公からの視線に気付いているのだろうか……?

ヒロイン② 主人公らが通うカフェの店員。無敵の営業スマイルで客からは好評の様子。主人公の悩みに寄り添う発言が目立つが……?

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み