演説少女とストーカー
文字数 3,459文字
打ち合わせを終えて防衛省の正門ゲートを出ると、演説少女はいなくなっていた。場所を変えたのか、家に帰るかでもしたのだろう。
俺は由佳里の案内で付いていく。そう言えば早稲田大学は比較的近い。築地生まれの由佳里でも、この一帯ならよく知っているのだろう。
曙橋の駅を通り過ぎ、古ぼけた商店街を俺たちは歩く。防衛省から歩いて五分、こんなところが残っているとは驚きだ。
いいですか。大阪も名古屋も、あれは頂けません。街が碁盤の目で、どこにいっても同じようで、風流のカケラもない。でも東京は違います。ホラ、見て下さい、この道を。流れるような曲線美、緩やかに上下する標高、入り乱れる路地と民家。これこそが東京の風情ってなもんです。
由佳里の言う「番町」とは、千代田区の一番町から六番町までの番地を総称して言う。近いかどうかは微妙なところだ。自転車でかっ飛ばせば一〇分くらいの距離だろう。
ふと由佳里は、気づいたように俺を見上げてくる。
最近の官庁は世間の想像と違い、予算が少なく、渋い要求ばかりだ。要するに金がないのである。だから接待で予算枠を拡大してもらうこともできない。しかしある意味で優良クライアントであることは確かだから、蒼通としては仕事をせざるを得ないという悩ましい事情もある。
『損して得取れ』って言葉があるだろう。日本社会は、そうやって上手く回っているところがある。考えてみろ、いざ有事となれば、防衛省は最高のクライアントになりうるんだぞ。そんなときに取引してないなんて事態になってみろよ。日々の仕事は多少損したって、長期的視野で構えていられる余裕のあることが蒼通の強さなんだ。
路地を回ってすぐ、由佳里は呆然とつぶやきながら前方を指差した。
演説少女が、いかつい二人の男に挟まれ睨み合っている。少女は片方の男から腕を摑まれ、どこかへ引き立てられようとしていた。
すぐ傍で車のドアが開け放たれている。真っ白いトヨタ車。少女を拉致しようとしているのだろうか。
少女は腕を振りほどこうと必死に叫んだ。
男たちは包囲を狭め、力尽くで言うことを聞かせようとしているようだった。
由佳里は戸惑った声を上げる。
もぞもぞとバッグを漁った由佳里は、スプレー缶を差し出してきた。
そう言いつつ、俺はスプレー缶を受け取った。使うことにはならないだろうが、俺は念のため缶を握りしめ、少女と男たちの方へ慎重に歩を進めた。
もみ合いながら少女は声を上げている。
男たちの後ろから近づいた俺は、うんざりしたように声をかける。
男たちは、眉をひそめて俺を振り向いた。
俺はアゴでそっちに行けと促した。
だが俺の思惑とは裏腹に、男たちは微塵も動じた様子を見せなかった。「警察を呼んだ」という言葉だけで逃げ散っていくものと思っていたのに。
男の一人が俺を睨みつけてきた。興奮状態にあるように見えた。
もう一人が少女を摑む手に力を込める。
少女は激しく首を振り、うめいた。
俺と睨み合っていた男はそう口にし、再び少女の腕を取った。
なんという白昼堂々とした暴漢だろうか。ここまで威厳に満ちて犯行に及ぶ凶漢に、さすがに俺は面食らった。日本の治安は世界一だったはずではないのか。
いくらなんでも、少女が連れ去られるのを黙って見過ごすわけにはいかない。こうなれば手段を選んでいる余裕はなかった。問答無用だ。
俺は意を決し、男らに一歩近づいた。
再び男がチラと俺を見やり、訝しげな顔をした。
おもむろに俺は痴漢撃退スプレーを、目の前の男に振りかける。
住宅街に響く男の絶叫。
男は路面にひれ伏し、のたうち回った。
うむ。効果は抜群だ。
倒れ伏した男を乗り越えるように、少女から手を離したもう一人の男が、俺へと襲いかかってきた。身のこなしが速い。
咄嗟に俺はスプレーの発射口を向けるも、男は機敏に、しゃがみ込むように俺へと急接近してきた。スプレーを発射する間もなく、男は俺の腕を摑みあげてくる。
男が俺を投げようと腕を取ってきた。俺も投げられまいと、必死で男の腕を摑み返す。
そのまま揉み合う格好になるも、男の力の方が強い。俺は片膝をつき、組み伏される寸前だった。
その時――。
突然、男がグッタリし、俺にのしかかるように倒れ込んできた。
由佳里が持っていたバッグで、男の後頭部に一撃を食らわせたのだ。由佳里のバッグにはノートパソコンが入っている。その角を力任せに打ち付けでもしたのだろう。ナイスフォローだ。
くずおれる男を払い除け、俺は立ち上がって少女の手を摑んだ。
少女は目を見開いて俺を見上げ、コクリと頷いた。
目の前で由佳里はパンプスを脱ぎ、裸足はだしになった。
それから俺たちは住宅街を駆け抜け、暴漢たちから遠ざかった。
由佳里は一一〇番しているはずだ。倒れ伏している暴漢たちは、現場に駆けつけた警官らに、いの一番で見つかることだろう。