ヒア・カムズ・ザ・サン (7)
文字数 1,576文字
「さすがにすぐには。でもあちこち書いてありましたから、いやだって」とベンジャミン。
「蕎麦食べた? 名物なんだけど」
「はい。うまかったー。川魚の炭火焼きがまた絶品で」
「ははは、よかった」
いやだ。
いや、いやいや。だから、いやなのだ。
つり橋、小便小僧、蕎麦と来て、とっくにおわかりの読者もおられると思う。
日本三大秘境の一つ。平家の落人伝説で有名だ。
ああ、失礼。「伝説」ではなく、史実らしい。
「平家の落人」と言う場合、かならずしも清盛ダディの血縁者とはかぎらない。家来もたくさんいっしょに逃げているからその人たちもふくめる。
世の中が源氏の白旗一色に染まったとき、彼らはさぞかし生きづらかったに違いない。ひっそりと隠れ住んだ里が全国各地にあってもなんら不思議はない。
とまあ、この説明はわたくし作者が自分を納得させるために書いたもので。
祖谷に行くと、次のような看板が立っている。
いや。いやいやいや。
この写真はフリー素材でダウンロードさせてもらったものだが、作者もかつて祖谷渓を訪れたとき、同じものを見てたまげた。(似たような看板は他の場所にもあった。)
「古来史実とみられ現在では学問的に究明せられ」って、意味不明な名文の典型だ。
何が、どう、究明せられたというのだ。
作者もこの看板を撮影したかったのだけどできなかった理由は、べつに撮影禁止とか写すと祟られるとかではなく、あのときは老父母といっしょの旅で、母は平家伝説なんて1ミリも興味のない人だから私が滝の写真を撮るのもそわそわして待っていて、「もういい?」なんて言ってさっさと先へ行こうとするものだから、私もあわあわしちゃって、看板までは撮れなかったのだ(痛恨)。
でも私たちが祖谷渓に行ったのは母のためで、なぜかというと彼女、四国は香川県の出身で、香川の小学校の遠足と言えば(私のような東京近郊在住者の遠足が鎌倉と高尾山であるように)、祖谷渓らしいのである。
小学生だった母はつり橋が怖くて渡れず大泣きし、一人だけ担任の先生におんぶされて渡った、とはずかしそうに言うものだから、父が
「じゃあ
と提案して、実現とあいなった。
結果的にあれが親子三人で遠出をした最後になったから(父は半年後に倒れ、翌年クランクアップした)、がんばって行っておいて本当によかったと思う。なつかしい。高い所苦手な作者もベンちゃんみたいに泣きながら渡りました。
(三好市公式サイトより https://miyoshi-tourism.jp/spot/iyanokazurabashi/ )
下から写すと大したことないんだな。笑
さて、さっきの看板。安徳天皇を奉じた「国盛」って誰。どのおじさんだっけ?とあのときは思って通りすぎたんだけど、おわかりのかたいますか。
教経の少年期の名前だ。
落人伝説に出てくる彼は、名前を「教経」から「国盛」に戻している。
国を盛り立てる、という、平家再興の願いがこめられたわかりやすい名前だ。忠盛、清盛、重盛と続いたカリスマ三代にもあやかっている。敗北をリセットして子ども時代の名前に戻し、さらに心機一転をはかる教経の心意気が伝わってくるじゃないか。いじらしくて目頭が熱くなる。
だけど、だけど。
彼は。教経は。
壇ノ浦で戦死している。
看板を見ると、
「源平の戦いに屋島で敗れた平国盛が安徳天皇を奉じ祖谷に潜入し、この地に土着した」
とある。待ってくれ、屋島の合戦は壇ノ浦より前だ。
たしかに祖谷は、壇ノ浦より屋島からのほうがだんぜん近い。そういう意味では説得力がある。だけど、だけど。安徳天皇も壇ノ浦で崩御している。
となると。
壇ノ浦で死んでいった教経は、安徳帝は、誰だったのだ。