第一夜
文字数 1,647文字
いらっしゃいませ。そしてお帰りなさいませ。
庄内多季物語工房へ、ようこそおいで下さいました。
山形県庄内地方は、澄んだ空気と肥沃な土壌、そして清冽な水に育まれた、新鮮で滋味豊かな野菜や果物の宝庫です。
それに加えて、時に不思議な光景に遭遇する場所でもあるのです。
さて、今回、物語収穫人である私、佐藤美月が遭遇致しました不思議な光景は、こちらからお楽しみ頂けます。
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夜の九時過ぎに仕事を終え、社屋から一歩外に出た時のことです。
鼻の先も見通せないほどの、濃密な乳白色の霧の海に包まれました。
これは、大気が次第に蒼褪めていく秋口などに、一度か二度、発生する現象です。
もうこうなってしまうと、数十メートル先にある駐車場まで辿り着くことでさえ、困難な行程になってきます。
私は、串団子状に連なって出てきた他の同僚や後輩達と一緒に、亀のようなのろのろとした足取りで歩いていきました。
その時、この厄介な霧が今夜中に晴れる可能性について、口々に、各自の見解を述べ合っていました。
いつもより時間を掛けて駐車場まで辿り着き、仕事仲間達と挨拶を交わして別れ、水滴がびっしょりと付着した愛車のルノーに乗り込みました。
そこで何故かしら、ふとした疑心暗鬼に囚われたのです。
今し方まで一緒にいた何人かの仕事仲間達は、本当に何年も慣れ親しんだ、当の彼らだったのだろうか、と。
それというのも、この濃密な霧に乗じて、全くの別人と入れ替わっている可能性だって、あるかも知れません。
そのように考えてみると、霧に紛れて顔ははっきり見えなかったし、声のトーンだけで当人だと判断出来るかと言われたら、今一つ自信が持てません。
この出来事で、私は思い知ることになりました。
現実だと思っているものは、実は全て幻想なのだと。
たかが霧一つ発生したくらいで、自分のそれまでの立ち位置が簡単に揺らぐのであれば、現実というものは、幾らでも差し替え可能ということになります。
それは何と不安定で柔らかく、そして何と可能性に満ちた状態なのでしょうか。
私は不思議の国にでも迷い込んだような、何とも掴み所のない心持ちで、フロントガラス越しに滞留する霧を眺めていました。
この状況は、見方を変えれば、まるで巨大な迷路に招待されているようにも感じられます。
普段通い慣れている何の変哲もない道が、濃密な霧の出現によって書き換えられ、何処へ誘われるとも知れない、一種の巨大なアミューズメントパークへと早変わりしているのです。
この立体迷路に身を任せてしまったら、今夜中に自宅に辿り着くのは難しいかも知れません。
そう考えた時、私は何故だかわくわくしてきてしまいました。
明日の朝も早くから、いつも通り出勤しなければいけないのにもかかわらず、です。
わざわざテーマパークや映画館などに足を運ばなくても、日常のすぐ隣で非日常を体験出来る機会は、そうそうあるものではありません。
私は、この特別な霧の夜からの招待に、快く応じてみることにしました。
会社の駐車場を後にして、公道に乗ってからは、自宅まで暫く一本道が続きます。
それにもかかわらず、ものの数分も走行しないうちに、方向感覚をすっかり失ってしまったのです。
ちなみに自慢ではありませんが、私は極度の方向音痴で、平穏な日常生活を営んでいても、方向感覚を司る器官が、殆ど機能していないのではないかと危ぶんでいた節がありました。
けれど、方向感覚の喪失を経験するということは、曲がりなりにも機能しているという証です。
そのことが確認出来ただけでも、私にとっては有意義な夜となりました。
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・・・ 第二夜へと続く ・・・
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