第一夜

文字数 1,647文字





 いらっしゃいませ。そしてお帰りなさいませ。

 庄内多季物語工房へ、ようこそおいで下さいました。

 山形県庄内地方は、澄んだ空気と肥沃な土壌、そして清冽な水に育まれた、新鮮で滋味豊かな野菜や果物の宝庫です。

 それに加えて、時に不思議な光景に遭遇する場所でもあるのです。

 さて、今回、物語収穫人である私、佐藤美月が遭遇致しました不思議な光景は、こちらからお楽しみ頂けます。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 夜の九時過ぎに仕事を終え、社屋から一歩外に出た時のことです。

 鼻の先も見通せないほどの、濃密な乳白色の霧の海に包まれました。

 これは、大気が次第に蒼褪めていく秋口などに、一度か二度、発生する現象です。

 もうこうなってしまうと、数十メートル先にある駐車場まで辿り着くことでさえ、困難な行程になってきます。

 私は、串団子状に連なって出てきた他の同僚や後輩達と一緒に、亀のようなのろのろとした足取りで歩いていきました。

 その時、この厄介な霧が今夜中に晴れる可能性について、口々に、各自の見解を述べ合っていました。

 いつもより時間を掛けて駐車場まで辿り着き、仕事仲間達と挨拶を交わして別れ、水滴がびっしょりと付着した愛車のルノーに乗り込みました。

 そこで何故かしら、ふとした疑心暗鬼に囚われたのです。

 今し方まで一緒にいた何人かの仕事仲間達は、本当に何年も慣れ親しんだ、当の彼らだったのだろうか、と。

 それというのも、この濃密な霧に乗じて、全くの別人と入れ替わっている可能性だって、あるかも知れません。

 そのように考えてみると、霧に紛れて顔ははっきり見えなかったし、声のトーンだけで当人だと判断出来るかと言われたら、今一つ自信が持てません。

 この出来事で、私は思い知ることになりました。

 現実だと思っているものは、実は全て幻想なのだと。

 たかが霧一つ発生したくらいで、自分のそれまでの立ち位置が簡単に揺らぐのであれば、現実というものは、幾らでも差し替え可能ということになります。

 それは何と不安定で柔らかく、そして何と可能性に満ちた状態なのでしょうか。

 私は不思議の国にでも迷い込んだような、何とも掴み所のない心持ちで、フロントガラス越しに滞留する霧を眺めていました。

 この状況は、見方を変えれば、まるで巨大な迷路に招待されているようにも感じられます。

 普段通い慣れている何の変哲もない道が、濃密な霧の出現によって書き換えられ、何処へ誘われるとも知れない、一種の巨大なアミューズメントパークへと早変わりしているのです。

 この立体迷路に身を任せてしまったら、今夜中に自宅に辿り着くのは難しいかも知れません。

 そう考えた時、私は何故だかわくわくしてきてしまいました。

 明日の朝も早くから、いつも通り出勤しなければいけないのにもかかわらず、です。

 わざわざテーマパークや映画館などに足を運ばなくても、日常のすぐ隣で非日常を体験出来る機会は、そうそうあるものではありません。

 私は、この特別な霧の夜からの招待に、快く応じてみることにしました。

 会社の駐車場を後にして、公道に乗ってからは、自宅まで暫く一本道が続きます。

 それにもかかわらず、ものの数分も走行しないうちに、方向感覚をすっかり失ってしまったのです。

 ちなみに自慢ではありませんが、私は極度の方向音痴で、平穏な日常生活を営んでいても、方向感覚を司る器官が、殆ど機能していないのではないかと危ぶんでいた節がありました。

 けれど、方向感覚の喪失を経験するということは、曲がりなりにも機能しているという証です。

 そのことが確認出来ただけでも、私にとっては有意義な夜となりました。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

・・・ 第二夜へと続く ・・・


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