第十七章 ⑯
文字数 1,480文字
忘れられるわけない。
と、言っても、これまで、ずっと
記憶から消えていたけれど。
だけど、昔の、あの……松山空港での
出来事を思い出す。
おしっこを我慢する―我慢させられて
いる―小さな女の子を助けに走ってきた、
他社―JAS―の若い職員、下木さん。
自分は、『その姿』、ようするに、
自社便の利用客じゃないのに、その母娘を
助ける姿勢に感銘を受けて、一時期、
本気で、グランドスタッフになりたいと
思い、勉学に励んでいた……んだよね。
一気に、昔にタイムスリップする。
そして……。
今は、羽田で。
ベテランの表情で。
小さな女の子でなく、高齢で足の弱って
いる雪子のために…。
真子はジーンときた。
疑いは、ない。
「あの。もしかして……、昔、
松山空港で働いていませんでしたか?」
と、野暮なことを訊く必要は感じない。
絶対に、間違いないのだから……。
運命……、いや、大いなる存在の介入を
感じた。
で……。
真子は、ハッとした。
見ると、隣に立つ、旦那が、怪訝な
表情で自分を見つめている。
「あ…。彼に、突っつかれたんだ」
と理解したのは、1秒後。
で、昔感銘を与えてくれた下木さんが、
自分達2人に話しかけているのに、
気づく。
「……搭乗口までなのですが、お1人様
だけ、お付き添いいただけますが。
……いかがなさいますか?」
直前までぼんやりしていたので、
言われたことを、脳内で処理するのに
時間がかかった。
でも、有難いことに、旦那が、復唱して
くれた。
「僕たちのうちどっちか、1人だけなら、
雪子さんと一緒に、搭乗口まで、送りに
いけるんですね?」
「はい。左様でございます」
恵みだなぁ…と思う。
旦那の復唱。
この復唱のおかげで、分かった。
読み込めた。
すぐに、彼の方を見る。
彼も、こっちを見てた。
で、旦那は言ってくれた。
「俺はここで待ってるから…。
行って来なよ。
また、いつ会えるか分からないん
だから」
ありがとう、と答えて、
すぐに、真子は、下木に。
「じゃ、私が行っていいですか?」
「かしこまりました。それでは、
これか……」
だけど、雪子が、真子に答える下木を
遮る。
「真子ちゃん。もう、良いわよ。
ここまでで……。
ここまで送ってくれただけでも
ありがたいわ。
それに、義時さんも明日は、
お仕事でしょ。
早く、千葉に戻らないといけないでしょ。
私は、大丈夫。
……だから、ここで、ね」
下木グランドスタッフは、黙って、
3人を見つめている。
義時は、妻の自由にしてあげたかった。
真子は……。
出来る限り、長く、雪子と一緒に
いたかった。
旦那の言う通り、今日別れたら、
今度いつ会えることか……。
だから、言う。
「でも……」
だけど、雪子が最後まで言わせて
くれなかった。
「真子ちゃん、わるいわ。
だって、あなた、中に入ったら、
義時さん1人で、こんな騒がしいロビーで
待たないといけないし、あなたも、私が
飛行機乗ってから、ここに戻ってくるまで
かなり時間かかるでしょ?
だからね、あの、検査場までで、大丈夫よ」
大伯母の気遣い、だと言うのは、
分かる……。
でも、こんな時は。
甘えてほしい、いや、甘えさせてほしい、
いや、どっちが正しいのか、よく分かんない
けど。とにかく!
でも……。
はぁと息をつく。
「雪子おばさん、頑固だからなぁ」
真子は、諦めて言った。
「分かった。
じゃ、あそこの保安検査場の前までは
行くよ。
そこで、お別れね」
「うん。ありがとう。
それで、良いわ。
あとは、下木さんがいるから大丈夫
だから」
それぞれの『想い』―それはたとえ
家族であってもすれ違うこともあるもの
だが―、それを抱えて、4人は、保安
検査場へと進み行く……。
(著作権は、篠原元にあります)