死の前日に初めて心から言えた

文字数 2,310文字

【ラストレター】

「じいじまたね」

「おう、いつでもおいで」

僕はベランダに出て最後まで手を振っていた。小さな手を一生懸命に振る孫はいつ見ても可愛らしい。息子や孫が帰り、先程までの賑やかさはどこか遠くへ行ってしまった。録画しておいたお笑い番組を見ても心虚しく、旅愁のような寂しさを感じていた。その時ふと僕は、手紙を書こうと思い筆を握った。



拝啓、若き日の僕へ
早く気づいて



僕はたった一行書いただけで筆を置いた。なぜなら、書きようがなかったからだ。

僕は悲しい瞳で窓の外を見つめていた。外は先程までの快晴とは違い大雨だ。遠くでは雷の音が響いている。

若き日の僕はいわゆる遊び人だった。浮気を平然とし、飽きれば別れるという生活をしていた。父や母から愛情いっぱいに育てられたのになぜ、こんな男になってしまったのだろうか?

ちょうど55年前、妻になる美紀子と出会った時も僕には彼女がいた。出会いは会社の同僚が開いた合コンで、誰よりも美しく見えた美紀子に一目惚れした。来る日も来る日も電話をし、ようやくデートの誘いに首を縦に振ってくれた。

初デートには少し高めの居酒屋に行った。美紀子は酒に弱く、すぐに顔が赤らんだ。その姿も色気があり、美しく、ますます惚れていった。

その後何度もデートを重ねた。そして、数ヶ月が経った頃僕は告白した。

「美紀子のことが好きです。僕とお付き合いしてください」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

僕の告白に美紀子は心地よく応えてくれた。晴れて恋人関係になった僕だが当然他にも女がいた。良子、春香、理恵、美穂、覚えているだけで4人だ。皆、心優しく素晴らしい人だった。彼女達とは対照的に僕はクズだった。

若き日の僕は恋愛経験を積むことが男としてのプライド、強いては自尊心を高めると信じていた。1人でも多くの女性と関係を持つことに奔走していたあの頃の僕に、もし会えるなら殴ってやりたい。そして、気づかせてやりたい。男の価値とはそのようなもので決まるものではないと。

老人になった今でも、自分の勝手な都合で泣かせてきた女性達に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。若き日の貴重な時間をこのような考えをしていた僕に費やしてくれてありがとう。そして、ごめんなさい。

「本当に愛してくれてるの?」

僕はそれほど器用ではなく態度に出てたのだろう、付き合った女性皆に言われた言葉だ。当然、付き合って数ヶ月が経った頃、美紀子にも言われた。

「愛してるよ」

「全然そんな感じしないけどね」

僕は当時、愛するという感覚がわからなかった。もちろん、好きとか大事という気持ちは持っていた。小さな子供を見れば可愛く感じたし、愛についての映画を見て涙を流す人間だった。

しかし、愛してるの意味を答えろと言われたらきっと、答えられなかっただろう。愛するとはなんなのか?一緒に居て楽しかったり、心地よかったり、大事だと感じることなのか?それとも、早く会いたいとか待ち遠しいということなのか?

死の間際になってようやく、愛するということの意味や美しさ、素晴らしさに気がついた。言葉で上手く表すことはできないが、この感覚だ。そもそも、愛は言葉で表せるほど単純なものではない。言葉で表せる愛など薄っぺらいものだ。

僕は先程置いた筆をもう一度手に取り、強く握った。



拝啓、若き日の僕へ
早く気づいて

若き僕よ、早く気づいておくれ。

男の価値は女性の数で決まるのではない。こんなもので決まってたまるか。

それと、愛にも早く気づけ。死の前日になってようやく気づくとは恥ずかしいことだぞ。今のこの気持ちが愛というものなのだ。言葉では表せないが、この素晴らしい気持ちだ。

一日でも多く愛の感情を持って生きてくれ。愛の感情を持っていれば、毎日目にする全てのことが変わって見える。どんな些細なことにも愛を感じ取り、感謝の気持ちを持つことができる。

頼むから早く



明日にはこの世から消える命だ。過去の自分に手紙など書いても仕方がなく、決して届かないものだが、筆を走らせてなんとか書き終えることができた。僕は外の空気を吸いたくなりベランダに出た。もう孫の姿は見えないが、頭の中で手を振っている姿が映し出されている。本当に愛おしい。1人冷たい風を浴び、小雨に変わった空を眺め黄昏れていた。

「ただいま」

タップダンスから美紀子が帰ってきた。60歳から始めたタップダンスに少女のような瞳で夢中になっている。手には僕の大好物である今川焼きをぶら下げていた。もちろん、あんこ味とカスタード味だ。

「タップダンスお疲れ様。健ちゃんが、ばあばと会いたそうだったよ」

「あら来てたのね。タップダンス休んだらよかったわ」

「いつも急に来るからなあ」

美紀子は今川焼きをお皿に乗せ机に置いた。

「いつ食べも美味しいなあ」

「あなた本当に好きですもんね」

2人であれやこれやと話ながら今川焼きを食べていた。たったこれだけのことなのに、心が満たされて幸せだった。きっと、これも愛のおかげなのだろう。

「美紀子」

僕は美紀子の瞳を見つめた。美紀子は僕に少し戸惑っていた。

「どうしたんですか?」

「愛してるよ、本当に愛してる」

「あらまあ、私もですよ」

死の前日になって初めて、心から愛してると言えた。

美紀子は冷蔵庫を開け、夕飯の準備をしている。僕は自分の部屋に戻り、先程書いた手紙を封筒に入れて封をした。

そして、妻に内緒で作った終活棚に入れてリビングに戻った。
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