第17話

文字数 4,467文字

 アトリは、しばらくの間、正確には二年間、大人しく仕事に励んでいたようです。
 でも、結局、アトリが適用された成績優秀者特例は、委員会の人手不足を解消するためのものでしかなったようです。委員になれたからといって、地上生まれ並みに市民権を得られるわけでもなく、ただ委員という肩書の名誉を得るだけのようです。もちろん各種特典はあります。支給される物の質が変わりますし、制服を着ていれば往来を大手を振って歩くことができます。でも、そのくらいです。おまけに僕たちには選ばれれば拒否権はありません。言われるがまま入会して甘んじてこき使われる存在になるのです。
 成績が悪くて喜ぶべきではないのでしょうけど、僕は、優秀者に選ばれなくて、本当に良かったと思います。地位は底辺でも仲間が身近にいます。寂しい思いだけはしなくてすみますから。
 そんな感じでしたから、アトリがいつ委員を辞めると言い出すか心配でした。
 僕はいつもアトリのことが気がかりでした。でも、もとから僕は積極的に、自分から人と関わろうとするたちではありませんでした。だから、生活環境も変わったせいもあり、お互いなかなか時間が合わないせいもあり、いつしか疎遠になっていました。気づけば何か月も通信すらしていないこともありました。今から思えば、とても悔やまれます。その頃にもっとアトリの愚痴を聴いて、もっと耐えるように説得していれば・・・。
 そして、彼は事件を起こしました。
 詳しいことは分かりませんが、どうやら総務委員会の中で、上司たちと口論を起こしたらしいのです。彼にしてみればそれまで溜めに溜めた言葉をぶちまけたのでしょう。きっと理路整然と上司たちを論破していったのだと思います。彼は口達者です。そして激しい感情と、正義感を併せ持っています。高々と自分の正義を振りかざして上司たちの論陣に切り込んでいった彼の姿が目に浮かぶようです。
 即日、アトリは謹慎処分を言い渡されました。そして数日後、アトリは行方不明になりました。正直、僕はそのことを知りませんでした。他の仲間たちも知らなかったようです。アトリはすべて一人で決めて、一人で姿を消しました。
 僕たちが保育棟を出て、三年目の春のことでした。

 それから瞬く間に一年近くの時が過ぎました。
 僕はもちろんアトリのことが気になっていました。行方不明になって以来、彼は僕にも、他の友人にも一度も連絡を寄越しませんでした。生きているのか死んでしまっているのか、それすら分からない日々でした。
 おそらく、彼はアントに接近して、もしかしたらその一員になっているのかもしれません。その団体は言わずと知れた反社会的組織です。だから公表することがはばかられたのでしょう。連絡を寄越してそのことを訊かれることを避けたかったのかもしれません。僕も、クマゲラ先生やアントに関係している、と思われる方々にそれとなく訊いてみましたが、もちろん本当のことは教えてくれません。でも、アントの話を彼にしたのは僕です。だから、僕としては、僕くらいには打ち明けてほしかった、それが本心です。
 そんな僕の思いを察したのか、突然、アトリが僕の目の前に現れました。

 その日は、ツグミが定期健診に行くことになっていました。だから、僕は久しぶりに一人で、訓練の後、帰路に着きました。
 いつもと同じくエレベーターを乗り継ぐためにセントラルホールに僕はいました。いつもと同じ風景。そこにいる人々、家路についているもいれば、まだ仕事中の人もいるでしょう。あきれるほどいつもと同じように無数の人生が交差するホールで、僕は声を掛けられました。
「イカル、おい、イカル」
 こんな所で声を掛けられるなんて想定していませんでした。だから僕は周囲を見渡しました。そして、すぐ近くの横道にいるアトリに気づきました。
 アトリは唇の前に人差し指を立ててから、僕を手招きしました。僕は黙ったまま彼の後をついていきました。何本もの裏道、何本もの路地を進んでいきました。
 奥へ、奥へと彼は進んで行きます。一歩足を出す度に、空気の質が変化していく気がします。そこは、すでに僕がかつて来たことがない場所でした。ホール部分がこの都市の表の顔だとするとここは、表には出せない裏の顔。薄暗く、陰湿で、生活臭が折り重なった場所。もしかしたらここはこの都市の本音の姿なのでしょうか。
 アトリは、突然周囲を見渡したかと思うと、横にある三階建ての石造りの建物の中に入っていきました。僕も後について入っていきました。
「久しぶりだな」
 彼は、立てていた上着のえりを折り、僕に笑いかけながら言いました。髪が伸び、薄っすらヒゲが生えていましたが、それでもいつもの彼の笑みでした。
「アントに入ったのか」僕はアトリが勧める椅子に座りながら訊きました。
「ああ」アトリも座りながら答えました。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「久しぶりに会ったのに、黙り込むなよ」
「いや、訊きたいことはたくさんあるんだけど、何を訊いたらいいのか分からなくて。ほら、お前、微妙な立場だろ」
「微妙も何も、がっつり反社会勢力に在籍している危険分子だぜ」
「・・・・・・」
「みんな元気か?」
「ああ、みんなお前のこと心配してるよ」
「そうか・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「今日は、突然、どうしたんだ?何か用か?」
「突然も何も、今まで何度もお前には接触しようと試みてたんだ。でも、お前の周りにはいつもツグミがいたから、なかなか接触できなかったんだ」
「そうか」
「そうだ」
「それで?」
「ああ、まあ、もう分かっているとは思うけど、今日はお前を誘いにきた」
「アントにか?」
「そうだ」
「唐突だな」
「ああ、唐突だ」
「そもそもどうなんだアントは。今、苦労してるんじゃないか?家はあるのか?生活はできているのか?危険はないのか?」
「今、どこにいるのかは訳あって言えない。でも、楽しいよ。そりゃ、人目のつきやすい時間に街中を歩き回るわけにもいかないけれど、それほど危険を感じることもない。仲間もいるし、楽しい日々を過ごしているよ」
「そうか」
「そうだ」
「この春に、第三期の子どもが入隊した。これで治安部隊もある程度の人数が揃った。各地区を担当する分隊も決まった。分隊は各班に分かれ任務に当たっている。今までは追及の手が緩かったかもしれないが、これから何かあれば治安部隊は容赦なくお前たちを捕縛できる体制が整った。その楽しい日々がこれからもつづくかは分からないぞ」
「そのくらいのことは知っているよ。心配はいらない。常に、治安部隊が動き出す前に、対策を打てるような体制が整っている。そういえばお前、A地区警備担当分隊の班長になったそうじゃないか。おめでとう。まあ、お前ならそのくらいの力量はあるだろうから不思議じゃないけどな。それよりツグミがお前の班の副官になったんだってな。その方がびっくりだよ。あいつも頑張ったんだな」
「うん、あいつ頑張ってた。特に実技に関してはミサゴを相手にいつも傷だらけになりながらよく耐えていた」
「すごいな。お前に対する思いだけで、そこまでするんだ。関心するよ。お前のどこにそんな魅力があるのかな」
「そんなことは俺にはよく分からない。なぜ、あいつがそこまで思ってくれるのか」
「うらやましいな。そういう人がいれば、人生楽しいだろう」
「そうかな。そうなんだろうな」
「・・・・・・・」
「なあ、俺が職務に忠実で、友人関係よりも仕事を優先して、今、お前を捕縛しようとする、とは思わなかったのか」
「はは、お前なら大丈夫だよ。お前はそんなに単細胞でもないし、計算高くもない。それにお前相手ならたとえ捕まったとしても、うまく騙して逃げられるだろうしな」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「俺たちは、地上に行く。一緒に行かないか?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「俺は、行けない・・・」
「・・・やっぱりな。そう言うと思った」
「そうなのか」
「そうだよ。お前にはツグミがいる。あいつを一人にしてお前はどこにも行けない。それに今、お前は自分の班の班員たちと信頼関係を築こうとしている。その成果が少しずつ現れはじめている。今、班員たちを見捨てて地上には行けない、お前はそういう男だ」
「まあ、そうかもな」
「そうだよ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「行くなよ。死ぬぞ」
「大丈夫、俺は死なない」
「そうか」
「そうだよ」
「なぜ、行くんだ?」
「・・・・・・」
「なぜ、そんな危険を冒してまで地上に行くんだ?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「空って知っているか?」
「ソラ?なんだそれ?」
「地上にあるらしい。地上に出ると頭の上は全部、空だってことだ。果てしもなく広く、限りなく深い。灰色の時もあれば、たまに青色や赤色にもなるらしい。日中には光輝き、夜になると光を失くす。それを毎日くり返す。それとたまに水が降ってくるらしい。時に激しく」
「なんだそれ。色が変わったり、輝きを変えたり、水を降らせたりってどこで誰が操作しているんだ?そんな大きなものを動かす技術が地上にはあったのか?」
「いや、空に人は関わってはいない。あくまで自然の行いだ。発光石と同じように、人は、その光と水の恩恵に預かるだけだ」
「そんなものがあるのか」
「あるんだ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「それを見てどうするんだ?」
「どうもしない。ただ見てみたいんだ」
「命懸けで、か?」
「命懸けでだ」
「お前、やっぱり変わってるな。頭がいいのか悪いのか俺には分からない」
「そうか」
「そうだよ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「俺は、今、日々、指を作ってる」
「指?」
「ああ、指だ。それもとびっきり精工な指だ」
「何のことを言っているんだ?」
「その指は、第二関節を曲げると時計回りに回る。いつか機会があればやってみてくれ」
「だから何のことだよ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「みんなによろしく伝えてくれ」
「止められないのか?」
「止められない」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「それじゃ、捕まらないうちに行くよ。いつまでもツグミと幸せにな」
 そう言ってアトリは去って行きました。僕は彼の名前を呼びました。でも、もう彼は振り返りませんでした。
 それが、アトリと会った最後です。

 その夜、僕は夢を見ました。
 頭の上をどこまでも広がる青い色。僕はそこに行きたくて手を伸ばしました。するといつの間にか僕の身体は浮いていました。
 僕は空の中にいました。どこまでも遠く、どこまでも広い空の中に。
 目が覚めて、僕はただ、空を見てみたい、と思いました。
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