第1話 2-1.外科女医 笹山ゆみ

文字数 2,453文字

 私は何故、医者になったのだろう。
 幼いころから病院と言う施設の環境をこの目で見てそして感じ、教育されたかのようにその道に進むべくものだと……本当にそうだったんだろうか? 自分の進むべく道は自分で決める。それが高校の時私が決めた事だった。

 だが蓋を開けてみれば、私は医療と言う自分の生活の一部として育った環境の中から脱することが出来ないでいた。
 でもそれには訳がある。
 私には追うべき人がいたから、その人の背中をいつも見続けていたから……
 そして気が付けば、この世界に身を投じて10年もの歳月が過ぎ去っていた。

 外科医として、私はメスを握る日々を繰り返す。
 この城環越医科大学病院、高度救命センターで勤務を始めてからもうすでに3年の月日が流れている。
 3年前、私はある大学病院の外科を辞め、この救命センターに移籍した。
 実務と言っては何だが、臨床症例の数はそこらの外科医には負けない自信がある。この手に、この体に、そしてこの頭の中にその経験が染み込まれている。

 そう、私のこのグローブをはめた手は、常に人の赤い血にまみれている。

 今日朝9時から始められたオペ。症例は「原発性肝癌」患者は40代女性。検査で肝臓に異常がある事が解り、精密検査をした結果右葉に原発性の癌がある事が解った。癌の大きさもMRI上では、さほど大きなものではなかった。
 患者の負担と効率を考慮し、腹腔鏡でも適応範囲でもあった為、腹腔鏡でのオペが開始された。
 いつも通り、麻酔科医からバイタルが告げられる。
「心拍70、血圧110の65でサイナス」
 患者は全身麻酔で眠っている様に静かに術台の上にいる。
 何時もの通りだ。
「それではこれから開始します。宜しくお願いいたします」
 オペの開始時、緊張? そんな事を思い出すのは研修医の頃の事だろうか? あの頃は何もせず、ただオペの経過を見ているだけで緊張していた。
 その頃の自分をふと思い出すと笑みがこぼれる。
 いまや、そんな緊張と言うものは自分では感じていなくなっている。
 すでにやるべきことがこの手に、そして頭に染み込んでいる。
 メスを握る前からその構図と経過はもう映像の様に脳内に映し出され、私の手はその通りに動き出す。
 予定通り腹腔鏡が体内に設置され、モニターを見ながら患部の切除に取り掛かる。
 切除した肝臓の部位をモニターで再確認をする。綺麗なものだった。
 しかし……モニターに映し出されたある一部に目が留まる。
「なんだこれは? MRIではなかったはずだが……」
 切除した肝臓の断面、胆管の裏に沿う様に小さな病巣の様な部分を目にした。
 第一助手の中岡庸寿(なかおかやすかず)が私のその表情を読み取ったのか
「如何かなされましたか?」と声をかける。
「いや、気になるところが目に入ってな。この部分どう診る?」
「どこですか?」とモニターを食い入るように見るが彼はその部分に気が付かなかったようだ。
「胆管の裏側だ」
 その言葉に反応するように彼はまたモニターを見続けた。そして
「あ、」と声を上げ
「よく見つけましたね。こんなに小さいの! でもよく見ると多分ちょっと散らばっていませんか?」
「そうなんだ、変異部位は本当に小さいがその部分が幾分散らばっている様にも見える」
 ほんの1ミリにも及ばない点の様なものだ。
「どうしますか?」その言葉に迷わず
「術式変更、開腹する。腹腔鏡では位置が悪すぎる。それに直接肝臓の状態を目にした方がいいだろう」
「わかりました」
 その指示に側近の看護師が即座に対応するように体を動かした。
 想定される器具を準備し、麻酔科医が再度麻酔の調整を行う。
 腹腔鏡を患者から離し、麻酔科医が私の方を見て頷く。
 準備が整ったという合図だ
「メス」迷わずメスを握り、腹部に刃を滑らす様にメスを入れる。
 すでに電極は大腿部に張り付けている。
「モノポーラ」僅かな白い蒸気の様なものが患部から出る。
 切開した部分を広げ術野を確保しつつ肝臓の出血具合を確認する。
 先に切除した部分に変化はない。
 モニターで見た変異部位をじかに見る。確かに小さいが癌として確認できる。その点が、ある程度の範囲で点在していた。
「まだ肝臓切除の限界総量には余裕がある、この部分は切除します」
「わかりました。ペアン、サンゼロ」
 第一助手の中岡は切除時の出血に備え血管の結紮に入る。
 まるで絵を描く様に術野の中は作業が行われた。
 新たに切除した肝臓を病理へ持ち、切除できる部分を切除し処置を施した後、ステープラーでとじ無事オペは完了した。
 予定より大幅に時間はかかってしまったが、再発のリスクはこれでかなりカバーできた。
「ふぅ、終了」
 ようやくこの血まみれのグローブを外す事が出来る。
 グローブを外す瞬間、私はいつも終わったという事をこの頭に言い聞かせる。
 今のオペは終わったんだと言う事を……

 もう後には戻れない。
 もう一度……それはあってはならない事だ。私の中ではいつもそうだ。

 それはあいつの口癖。
「または……ありえない。今の事は今しかできない」
 自分の腕を信じ、おごる事なかれ
 今できる事を全力で、そして最大の権威を持ちその手を動かせ
 私が愛した、あいつがよく言っていた言葉。
 その言葉を私は、忘れない。そしてあいつと共に磨いたこの手技を、私は大切な宝物として今も尚磨いている。

 生まれた環境が医者としての環境であったから、私は医療のこの外科医の道を選んだのではない。

 私には追うべき人がいたから……その人に追いつきたくて、少しでも近くにいたいから……だから、私は外科医になった。

 今までずっと私は、あいつの背中を追っていた。それはこれからも……

 私が愛するたった一人のあいつの……背中を

 私は永遠に追い続ける。終わりのないかけっこの様に……

 胸ポケットに入れたピッチが鳴りだす。
「笹山先生、エマージェンシー・コールです」
「わかった、今行く」

 あいつは……今、何をしているんだろうか? そんな事を想いつつ

 私はERへと向けて動き出した。
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