結局、あの夜はずいぶん遅くなってしまったため、
菅原ひとみがニーチェ版の『
この人を見よ』を読むのは次回にまわしましょう。ということになり、記念すべき最初の秘密の読書会はお開きになった。
なった、のだ。
……のでは、あるのだが、それから、まるまる一週間「次回」の招集がかからない。
(いえいえ、一年と違って先輩方はお忙しいのよ……)
なんて、自分を慰めてみたり。
図書室で小早川栞理先輩にお会いして、はっと笑顔を向けても、先輩たちは以前と変わらない態度のまま。
いつも通りの指定席にいつものように座って、いつものように読書されて、そのままお帰りになってしまう。
喉元まで言葉は出てくるのだが、図書室のカウンターの奥から出から出ようとすると、ちょうど他の生徒がやってきたりしてタイミングがなかなかつかめない。やっぱり下級生と仲良くしているところを見られるのも変かな、と、その都度思いとどまる日々だ。
(もしかしてあの夜の出来事はわたしの夢? 妄想だったのかなあ?)
なんて、不安になってくるひとみだった。
それでも、カウンターの裏側、手元に隠した○禁マーク付きのニーチェ版『この人を見よ』は夢ではない。栞理先輩が挟んでくれた「しおり」もそのまま、読書会の時に開けようと、本を開かずに大切に取ってある。
(もしかして、嫌われてしまったのかも。あの時、本の内容にあんまり捕われていたから……。呆れられてしまったかもしれない)
(いえいえ、わたしはあの栞理先輩とものすっごく仲良くなって、先輩の隠れた一面まで知っちゃったのよ、ナイショだけど!)
なんて思ってニヤニヤしたり、顔色をくるくるとかえていた。そんな時、同級生の柏野ようこさんから声をかけられたのだ。
と。
この時の顛末は、『プロローグ1』 にあるとおり。
いろいろあって、天然ラウドネス・スピーカーのようこが図書室から走り去り、代わってカウンターに近づいてきた栞理先輩から
「三人揃ったところで、今夜、あれ、やりましょうか」
と言われた時、へなへなと全身の力が抜け、安堵するひとみだった。
そのままカウンターにへたり込んでしまう。
「え、えぅ、よ、よがったぁ……。夢じゃなかった~。えぅぅっえ~ん」
「えっ? ちょっと、どうしたの? 泣いちゃったわ彼女」
「あらあら……。もー、栞理ったら乙女心わかんないんだから」
「憧れの先輩とやっと仲良くなれたって思ってたのに、急に無視されてやっぱり嫌われちゃったのかもって心配になっちゃったのよね」
「ごめんなさいね、無視するつもりはなかったのだけれど、人目もあったし、なかなかこの話題だせなかったからね」
「ひとみ君。君は僕たちのかけがえのない仲間だ。嫌ったりもしないし、仲間はずれになんて決してしないから、安心してくれたまえ」
「えぶうゎああああーーー! 嫌われてなかったぁぁーーー!! えーーん!!」
それはさておき。
数時間後、夜の図書館、秘密の地下室。
栞理の親友であり、どうやら乙女心の理解者、早乙女れいか先輩がいれてくれたハーブティーで改めて秘密の会発足の乾杯を終えたところである。
「さすがにもう大丈夫です。昼間はすいませんでした」
「まったくだ。一週間も時間があるなら、先に読んでおけば良かったのだ」
「こら! 栞理ったらまたそんなことを言う!
ひとみちゃん、この会で読もうとして楽しみに取っておいたのよね?」
「そ、そうです! 早乙女先輩の言うとおりですっ!!」
これには栞理先輩以外の乙女陣営からはブーイングの嵐であった。
もっとも、冷たい言動をしていても優しいところのある先輩である。こうした態度は照れ隠しかもしれないな、と思うひとみであった。
「とにかく、夜は長いと言えど時間は有限だ。もう落ち着いたのならば、入れ替えた『この人を見よ』を読んでくれたまえ。僕は待つ間先にすすんでいるぞ」
と言って、今日も閉架から取り出してきた数冊の本を目の前に積み上げている栞理先輩である。
(栞理先輩の手元の本、全部ニーチェだわ。あれが、次回の読書候補かも……)
どうやらこの会は当分終わらなさそうだ。今はそれが嬉しいひとみだった。
ひとみが開いたニーチェ著『この人を見よ』は岩波文庫版、手塚富雄訳。1969年に初版が発行されたものだ。
長い間閉架に保管されていたのだろう、古い本特有の乾いて軽くなったページに、いかめしい小さめの書体が踊る。
丁寧にページをめくると、栞理先輩の手によるメモが「しおり」として挟まれていた。
「序言とつづく1、2、3章、それから最終章を読むといいだろう」
とメモには書かれている。
目次に章の数字は書かれていなかったが、目次名をみてどうやらコレが章っぽい、と当たりをつけたひとみ。まずはいきなり並ぶその三つの章題に目が釘付けになった。
その章題は、
・なぜわたしはこんなに賢明なのか
・なぜわたしはこんなに利発なのか
・なぜわたしはこんなに良い本を書くのか
と書かれていたのだ。
(なに、これ!?)
(なんて、豪胆で、神をも恐れぬ無敵で無邪気で……子供っぽい発言なのかしら。こんなことをいまSNSで書いたら炎上どころじゃないわ。すごいことになっちゃいそう……)
さらに内容を読み進めてみて、このニーチェという人は本気で、真剣にそう思っていた、いや、信じて、信じようとして書いたのだ。と言うことが解ってくる。
(ホントに本気で、ニーチェさん自身が、なんでこんなに賢明で利発で、そしてこんな良い本を書くのかをものすごい勢いで綴っているんだわ……)
そして、キリスト教を始め、あらゆる宗教への呪詛ともとれる絶対的な否定と暴言の数々。
最終章、
・なぜわたしは一個の運命であるのか
で、ひとみは「ぎゃー」と叫んで突っ伏してしまった。
そこには、「宗教とは賎民の関心事である」と書かれ、さらに「わたしは、宗教的な人間と接触した後では手を洗わずにはいられない」と続いている。
「この人……、なんだか……、けなげ、というと違うかな、うーんと、可愛らしい感じがします。本人に言ったら超絶怒り出しそうなんですけど」
ひとみがつい口に出して感想を述べると、
読んでいた本を置き、栞理先輩が応える。
「100年以上前の人なのよね。そのセンスすごいとおもうわ」
「当時の人々に与えたインパクトは相当だっただろうな」
早乙女先輩も既にムアコック版を読み終えていたようだ。そのまま感想を伝え合い、「すごい」「めっちゃすごい」「ほんとすごい」と、とにかくすごいを連発する乙女達であった。
「ここの乙女達は語彙すくなすぎないか? 他の言葉を知らないのか」
「す、すいません……。
でも、やっぱり先にSFのほう読んで良かったと思います。いきなりコレだったら、わたし、ほんとどうにかなっちゃってたかも」
「100年前の人たちとおんなじリアクションだったかもね」
「凝り固まった観念や常識をひっくり返すのがサイエンス・フィクションの得意技だ。センス・オブ・ワンダーがSFの醍醐味だな」
「で、頭を柔らかくしたら、ようやくニーチェが理解できるかも、って思ったのね」
「わたくし、いきなりニーチェのほう読まされましたけど?」
「僕と付き合っているんだ、その程度の非常識、問題なかっただろう?」
(うわ、のろけ!? 早乙女先輩もほっぺピンクにしてるし! もー!)
軽くジェラシーを感じつつも、自分のこともそこまで考えていてくれたのだ。と、やっぱり栞理先輩は素敵だなあと素直におもってしまうひとみだった。
「初めてニーチェを読んでみて、どうだったかね、乏しい語彙の許す限りの表現でまとめてくれたまえ」
「乏しい…って、……えーと、あ、はい……、ええと……、うーん、『すごい』。はもう言っちゃったしダメですよね。
うーんと、ものすごく毒舌で、本当にヒドイことばっかり書いてありますけど、この人は、宗教も人間も、あらゆるものを疑って否定して、でも、『疑ったり否定したりすること』を根っから信じていて、いえ、ひたすら信じようとしていたんじゃないかと思います。
そういう姿っていうか、姿勢がけなげというかつい可愛らしく見えてしまったのかなって、そう思います」
「母性本能くすぐられちゃった? ちょっと早すぎじゃありません?」
「わたくし? わたくしは一言、『ツァラトゥストラ』が気になる、ですわね」
「そう、ニーチェ曰く、『歴史始まって以来、人類に与えられた最高のプレゼント』と言う本のことだな」
「ええ、この『この人を見よ』はニーチェ自身を見よ。と言っていて、そのニーチェ自身は、この本の中で『ツァラトゥストラ』を読め。と言っているように解釈しましたの。とても大雑把ですけど」
「はい、そして、『ツァラトゥストラ』にすべてが書かれている。というようなことも書いてありました。この『この人を見よ』って、ニーチェさんの自伝でありつつ『ツァラトゥストラ』の宣伝というか解説文のような気がします」
「さすがだね、二人とも。僕もまったく同じ感想をもった。
で、実を言ってしまうと、君たちがそう言ってくれるだろうと僕は既に予期していた」
と言って、栞理先輩がテーブルに置いたのは、五冊の別の翻訳による『ツァラトゥストラ』だった。
「次回以降の当秘密の読書会では、この中から三冊を選び、三人で回し読みしたいとおもうのだが、異論はないだろうか?」
「ふふ、たのもしいね。だけれども、これはニーチェの残した、最高の彼の思想のエッセンスだ。毒舌も、我らがキリスト教への攻撃も、きっと『この人を見よ』以上のものがあるはず。二人とも、乙女心が傷ついても知らないよ?」
「えー、傷ついちゃうのー?」「優しくしないと傷つきますよー」「繊細だもんねー☆」等など、乙女達のおしゃべりはつづき、夜は更けていくのだった。
〈つづく〉