白く凝る声
文字数 2,698文字
白い天井。白い壁。
身を起こしてみれば、白いパイプベッド。白いシーツに白い布団。
なんとはなしに手を目の前に持ってくる。やはり白い、その衣服の袖から覗くそれはかろうじて肌色だった。ただ、周囲に漂白されてしまったかのように、血の気が無い。青白い。
その手をさらに頭にやってゆっくりとさすった。自身の髪の毛を感じるはずが、代わりにメッシュ状の何かを感じた。これは包帯だろうか。とすれば、これもまた真っ白なはずだ。
まったく白さに囲まれる状況を認識して、自分が入院していて病室のベッドにいることに気づいた。何か入院するようなことがあっただろうか。頭を包帯で巻くようなことがあっただろうか。思い返してみようと試みるのだが、思い返そうとすればするほどに、頭の中が白いもやがかったような感じがする。
寒い。上半身を布団から出してしまったせいだ。
頭が働かない。身体もとにかく重い。状況は分からないが、安静にしておいた方がよさそうだ。布団を身に引き寄せて横向きにくるまって、ふたたび重い眠りの中に落ちていった。何か夢をみたような気もするし、何も見なかったような気もする。それすらも曖昧模糊な意識の陥穽にずぶずぶと沈んでいった。
まっしろな意識空間で誰かの声がする。何度も繰り返し呼ぶ声がする。億劫に思って無視したかったが、執拗に呼ぶ声に根負けして、目を開ける。壁と床の境目が見えた。やはり真っ白だった。
「ああ、やっと気づきましたね」
低い男の声がする。落ち着いた優しげな声で、安堵の息を漏らす。
頭を声のする方に向けた。
ベッドの横に、スキンヘッドに口髭を生やした白衣の男が椅子に座っていた。マスクに隠されてはいるが、目元からほほえんでいることがわかる。あきらかに医者だ。
「さて、テストの時間です。ちょっと辛いかもしれませんが、自分自身のためでもあります。がんばってください」
医者は椅子の下からスケッチブックを取り出した。何枚かページをぺらぺらとめくってのぞき込んで、何かを確認している。しばらくそうしていたが、何かに納得したようにうんうんとうなずくと、スケッチブックを見開いて、見せてきた。
「答えてください。これはなんですか」
見せられたページには、クレヨンでカエルが描かれていた。こどもが描いたような素朴なタッチ。しかし、その割にはしっかりと特徴をとらえて描かれている。端的に行って、上手な絵だった。
問いの答えは明快だった。なんでこんな簡単なことを聞くのだろうと訝しんで、医者の問いに答えた。
答えようとした。
しかし、そこで気づく。
声が出ない。出そうと思っても出ない。
口は開いた。言葉を発しようとする。頭には明確に”カエル”の三文字が浮かんでいる。しかし、出ない。なにかが胸のところでつっかえている。発しようとしたその声が、信じられないぐらいの重さをもって、胸のあたりでとどまってしまっている。必死になって出そうとした。喉や胸に力を込めた。でも、どうやってもその塊は声となって出てこない。とてつもなく重い。何度も何度も声を発しようと試みるうちに、身体は熱く熱を発して、疲れを感じてきた。
口をパクパクとさせながら、目を白黒させる姿を見て、医師は残念そうに首を振った。
「では、これはどうでしょう」
次に見せられたのは、鯉の絵だった。
すぐに答えようとする。しかし、やはり声は出ない。
医師はさらに続けて、何枚もの絵を見せた。
「では、これを」
答えられない。
「これは、だめですか」
答えられない。
「これは?」
出ない。
「……なるほど」
声が出ない。
「一文字、それを答えるだけです。これも難しいですか」
答えられない。
「ふむ。これはどうですか」
無理だ。
「………頑張ってください。これはあなたもよく知っているはずです」
知ってはいる。知ってはいるんだ。
「………では、これは?」
スケッチブックをめくって、見せてくる絵。蜂、家、ガンジー、蚊、あ、肉じゃが、自分の名前………。どれも答えを知っている。知っているはずだった。しかし、どう試みても頭の中で浮かぶ文字を声にすることができない。声になる直前で、それが喉へと至ろうとするその直前で、観念が異常に重い質量を伴って、胸の底から放つことができない。声に枷をはめられているようだ。なんどもなんども放とうと決意するたびに、なけなしの力で打ち出されたその声は、枷の重さに負けて、なんどもなんども胸の底へと落ちて戻ってくる。
胸が痛い。これ以上は苦しい。
胸に手を当てて、せき込んだ。苦しくてたまらない。
医師はそんな様子を少し観察した後、悲しそうな顔をして首を振った。
「…………もう、難しそうですね。今日はここまでにしておきましょう。ですが、諦めてはなりません。あなたはまだ、治る見込みがあります。リハビリが必要なだけです。絶望しないように。いつの日か、必ずもとの自分に戻れる日が来ます」
医師はそう言って、スケッチブックをぱたんと閉じた。椅子から立って、背を向ける。立ち去ろうとする。
痛い。胸が苦しい。
なんで、なんで声が出ないのか。
なんで、こんな苦しい目にあっているのか。
わけがわからない。まったくもって理解できない。
せき込みながら、目の端に涙がにじむのを感じた。
医師は、病室の扉に手を掛けた。しかし、手を掛けたまま動かない。何かを思案しているようだった。せき込みながら、その姿を見ていた。しばらく、頭を下げて立ち止まっていたが、何かを決心したように、うん、とうなずいた。そして、すぐ横に戻ってくる。
「…………これならば、言えますか」
医師は懐から一枚の紙を取り出した。それは写真だった。
その写真を、私、に見せてくる。
それは、私、の、母の写真だった。実家の軒先で撮った、私、も写っている写真。
つい最近、私、が旅立つ前に、記念として撮った一枚だった。経緯は良く知っている。
これは、答えねばならない。
答えなくては。答える義務がある。
答えなければ、とんでもない親不孝者だ。
答えなくては……!
必死に全身の力を振り絞った。両手のこぶしは固く握られ、脚部は硬直し、全身に汗が生じる。
答えなくては、答えなくては………!
胸からなにかがはがれるような感触がする。喉を熱い呼気がずるっと通る。最後の最後で声の重みに負けそうになるその思いを、なんとか必死にとどめた。
関門を越えた。あとは放つのみ。
私、は絶叫した。
「XXX——————っっっ!!!!!!」
力の限り叫んで、意識は暗転した。暗転する直前、驚いたような顔で涙する医師の顔が目に映った。
身を起こしてみれば、白いパイプベッド。白いシーツに白い布団。
なんとはなしに手を目の前に持ってくる。やはり白い、その衣服の袖から覗くそれはかろうじて肌色だった。ただ、周囲に漂白されてしまったかのように、血の気が無い。青白い。
その手をさらに頭にやってゆっくりとさすった。自身の髪の毛を感じるはずが、代わりにメッシュ状の何かを感じた。これは包帯だろうか。とすれば、これもまた真っ白なはずだ。
まったく白さに囲まれる状況を認識して、自分が入院していて病室のベッドにいることに気づいた。何か入院するようなことがあっただろうか。頭を包帯で巻くようなことがあっただろうか。思い返してみようと試みるのだが、思い返そうとすればするほどに、頭の中が白いもやがかったような感じがする。
寒い。上半身を布団から出してしまったせいだ。
頭が働かない。身体もとにかく重い。状況は分からないが、安静にしておいた方がよさそうだ。布団を身に引き寄せて横向きにくるまって、ふたたび重い眠りの中に落ちていった。何か夢をみたような気もするし、何も見なかったような気もする。それすらも曖昧模糊な意識の陥穽にずぶずぶと沈んでいった。
まっしろな意識空間で誰かの声がする。何度も繰り返し呼ぶ声がする。億劫に思って無視したかったが、執拗に呼ぶ声に根負けして、目を開ける。壁と床の境目が見えた。やはり真っ白だった。
「ああ、やっと気づきましたね」
低い男の声がする。落ち着いた優しげな声で、安堵の息を漏らす。
頭を声のする方に向けた。
ベッドの横に、スキンヘッドに口髭を生やした白衣の男が椅子に座っていた。マスクに隠されてはいるが、目元からほほえんでいることがわかる。あきらかに医者だ。
「さて、テストの時間です。ちょっと辛いかもしれませんが、自分自身のためでもあります。がんばってください」
医者は椅子の下からスケッチブックを取り出した。何枚かページをぺらぺらとめくってのぞき込んで、何かを確認している。しばらくそうしていたが、何かに納得したようにうんうんとうなずくと、スケッチブックを見開いて、見せてきた。
「答えてください。これはなんですか」
見せられたページには、クレヨンでカエルが描かれていた。こどもが描いたような素朴なタッチ。しかし、その割にはしっかりと特徴をとらえて描かれている。端的に行って、上手な絵だった。
問いの答えは明快だった。なんでこんな簡単なことを聞くのだろうと訝しんで、医者の問いに答えた。
答えようとした。
しかし、そこで気づく。
声が出ない。出そうと思っても出ない。
口は開いた。言葉を発しようとする。頭には明確に”カエル”の三文字が浮かんでいる。しかし、出ない。なにかが胸のところでつっかえている。発しようとしたその声が、信じられないぐらいの重さをもって、胸のあたりでとどまってしまっている。必死になって出そうとした。喉や胸に力を込めた。でも、どうやってもその塊は声となって出てこない。とてつもなく重い。何度も何度も声を発しようと試みるうちに、身体は熱く熱を発して、疲れを感じてきた。
口をパクパクとさせながら、目を白黒させる姿を見て、医師は残念そうに首を振った。
「では、これはどうでしょう」
次に見せられたのは、鯉の絵だった。
すぐに答えようとする。しかし、やはり声は出ない。
医師はさらに続けて、何枚もの絵を見せた。
「では、これを」
答えられない。
「これは、だめですか」
答えられない。
「これは?」
出ない。
「……なるほど」
声が出ない。
「一文字、それを答えるだけです。これも難しいですか」
答えられない。
「ふむ。これはどうですか」
無理だ。
「………頑張ってください。これはあなたもよく知っているはずです」
知ってはいる。知ってはいるんだ。
「………では、これは?」
スケッチブックをめくって、見せてくる絵。蜂、家、ガンジー、蚊、あ、肉じゃが、自分の名前………。どれも答えを知っている。知っているはずだった。しかし、どう試みても頭の中で浮かぶ文字を声にすることができない。声になる直前で、それが喉へと至ろうとするその直前で、観念が異常に重い質量を伴って、胸の底から放つことができない。声に枷をはめられているようだ。なんどもなんども放とうと決意するたびに、なけなしの力で打ち出されたその声は、枷の重さに負けて、なんどもなんども胸の底へと落ちて戻ってくる。
胸が痛い。これ以上は苦しい。
胸に手を当てて、せき込んだ。苦しくてたまらない。
医師はそんな様子を少し観察した後、悲しそうな顔をして首を振った。
「…………もう、難しそうですね。今日はここまでにしておきましょう。ですが、諦めてはなりません。あなたはまだ、治る見込みがあります。リハビリが必要なだけです。絶望しないように。いつの日か、必ずもとの自分に戻れる日が来ます」
医師はそう言って、スケッチブックをぱたんと閉じた。椅子から立って、背を向ける。立ち去ろうとする。
痛い。胸が苦しい。
なんで、なんで声が出ないのか。
なんで、こんな苦しい目にあっているのか。
わけがわからない。まったくもって理解できない。
せき込みながら、目の端に涙がにじむのを感じた。
医師は、病室の扉に手を掛けた。しかし、手を掛けたまま動かない。何かを思案しているようだった。せき込みながら、その姿を見ていた。しばらく、頭を下げて立ち止まっていたが、何かを決心したように、うん、とうなずいた。そして、すぐ横に戻ってくる。
「…………これならば、言えますか」
医師は懐から一枚の紙を取り出した。それは写真だった。
その写真を、私、に見せてくる。
それは、私、の、母の写真だった。実家の軒先で撮った、私、も写っている写真。
つい最近、私、が旅立つ前に、記念として撮った一枚だった。経緯は良く知っている。
これは、答えねばならない。
答えなくては。答える義務がある。
答えなければ、とんでもない親不孝者だ。
答えなくては……!
必死に全身の力を振り絞った。両手のこぶしは固く握られ、脚部は硬直し、全身に汗が生じる。
答えなくては、答えなくては………!
胸からなにかがはがれるような感触がする。喉を熱い呼気がずるっと通る。最後の最後で声の重みに負けそうになるその思いを、なんとか必死にとどめた。
関門を越えた。あとは放つのみ。
私、は絶叫した。
「XXX——————っっっ!!!!!!」
力の限り叫んで、意識は暗転した。暗転する直前、驚いたような顔で涙する医師の顔が目に映った。