せまい湯船で、ひとりだからさ

文字数 4,999文字

防水仕様の小さなBluetoothスピーカーから流れる音楽が、浴室中に響く。
深夜2時の東新宿のマンションの一室。私は、狭い浴槽のなかで膝を抱えるようにして、番組名のわからないラジオを聞いている。

洋楽だ。
テレビCMに使われているのかも知れない。サビだけは、聞き覚えがある。
部屋と違って浴室では、ベースの音がズズーンとやけに重たく響く。


なんか、あの日のライブハウスみたいだ。

どっかのPVで見た失恋中の女の子の真似をして、湯船に鼻ギリギリまで浸かりながら、1年前の春を思い起こす。



「今度ライブやるからさ、加奈子ちゃんに特等席用意するからさ」
林拓人はそう言って、合コンで出会ったばかりの私に手書きのチケットを渡してきた。
3800yen/+1drink。

「ありがとう。拓人くんって、バンドやってるんだ」
笑って答えた私を見つめたまま、林拓人は頷く代わりに口角を上げた。で、斜め上を向いてタバコの煙を吐いた。


「〜からさ」というのは、林拓人の口癖だ。なぜか、その先を言葉にしない。
尻切れとんぼみたいな感じで、慣れるまでは、結局何が言いたいのか察するのに苦労した。
例えばよくあるのが、
「ねえ加奈子ちゃん、こないだ良い焼き鳥屋見つけたからさ」
みたいなやつ。私はいつも頭の中でその続きを考える。
「(良い焼き鳥屋見つけたからさ)、今度一緒に行こうよ」
多分そういうことだよね?と自分の中で納得してから、答える。
「いいね、一緒に行こう、日曜空いてるよ?」



ラジオは「今夜のフィーチャーナンバー」を流し始めた。ボーカルの声は、浴室の壁に一旦ぶつかってボリュームを増して、頭から降りかかってくる。このアーティストは誰だろう。
ちょっと、声が似ているかも。林拓人と。



特等席が用意されていたそのライブハウスで、私は林拓人に恋をした。歌声にも、ギターを引くときの腰つきにも、そして、曲の合間の真剣な眼差しにも。だけど、ただ合コンで会ったから集客要員として誘われただけだ、と自分に言い聞かせた。

帰り道、電車でちょっとうとうとしていると携帯が震えた。
「来てくれてありがとう。
加奈子ちゃんに聴かせたい曲、もっともっとあるからさ」

もっともっとあるから…またライブに来てよってことかな?どうやったら付き合えるのかな、ファンで終わってしまうのかな。そんなことをまどろむ頭の中で考えた。
だけど、林拓人のそばにいられるなら恋人じゃなくてもなんでもいいや、と思った。
ほんのりと幸せな気持ちで、電車のシートにもっと身を沈めた。




手持ち無沙汰な湯船で、両手のネイルがほどんどハゲていることに気づく。
まあ、いいや。誰も見てないし。そんなことを思えば、自分がここにいる意味がわからなくなる。
そういえば、林拓人は、誰も客がいないライブハウスで歌ったことがあると言っていた。誰も聴いていないのに、歌う。俺何やってんだろって思ったと言っていた。
ああ、やっとわかる。そんな感じかも知れない。今の私は。誰も、誰も見ていない。





「シモキタの家、もうすぐ更新なんだけどさ、更新するの辞めようと思って」
出会って1ヶ月。2人で飲みに行くようになってすぐの頃に、林拓人は言った。
シモキタの家には、行ったことはなかった。その時はまだ、そういう関係ではなかった。
「更新しないの?どうするの?」
そう聞くと、林拓人は煙草を灰皿に擦り付けながら言った。
「加奈子ちゃんにもっと会いたいからさ」

私は咄嗟に考える。
「(加奈子ちゃんにもっと会いたいからさ)、近くに引っ越そうと思うんだ」かな。
え、もしかして、
「(加奈子ちゃんにもっと会いたいからさ)、一緒に住もうよ」なのかな。
考えたけれどわからない。まだ林拓人初心者だった私は「会いたいから、なに?」と聞いた。
すると林拓人は、ちょっと困ったような顔で、
「だから…一緒に住まない?」と、その先に隠されていた言葉を明かした。
それが告白みたいなものになって、私たちは家を探して、一緒に暮らし始めた。



林拓人は、細身で足が長くて、いつも黒のチノパンを綺麗に履いている。だいたいモノクロの服を着ていて、変わり映えのないファッション。
ユニクロの白いTシャツ(1990円)を愛用していて、だけど、林拓人が着るとすごくシルエットが綺麗だった。どっかのブランドの、白Tのくせに2万円とかする代物みたいに見えた。

だけれどそれはやっぱり1990円。で、林拓人は洗濯ネットにも入れずにそれを洗濯カゴに放る。傷みそうだから、私が洗濯機を回すときはいつもネットに入れる。洗濯カゴから取り上げるそれは、フワンと、林拓人の匂いを放つ。
私は、林拓人がギターやらテレビやらに夢中なのをちらっと確認して、上を向いてその1990円を顔に乗せて、深呼吸をする。匂いまで大好きだった。



ふやけそうだ。
長風呂は昔から得意じゃない。温泉に行っても、すぐに出たくなってしまう。だから、今日は温度を結構低くしてお湯を張ったのに、10分も入っていられない。
林拓人と似た声の「今夜のフィーチャーナンバー」は、「いつかどこかであなたが泣いていても〜」と歌っている。とても心地いいリズムだ。



何かが違ってきたのに気付いたのは、こないだのクリスマスだった。
サンシャインシティーでプラネタリウムを見て、手を繋いで池袋を歩いた。
「最近好きなバンド」
そう言って渡された片方のイヤホンを耳にはめる。だけど、街中のクリスマスソングが邪魔で集中して聞けなかった。

そのあとスターバックス池袋店に入った。
クリスマス仕様の赤いノルディック柄の紙カップを撫でながら、
「クリスマスは、逆にスタバは空いてるんだね。みんなご飯かな」
と言った私に、林拓人は謝った。
「ごめんな、ディナーとか予約できる男じゃなくて」
そんな非難みたいなこと全然思ってなかったし、ディナーとかどうでもいいし、林拓人がそばに居てくれるだけで何でもいいし。
だけど、突然そんな返答をした林拓人にびっくりしてしまって、私は新作のピスタチオラテをちびっと飲んだ。

何かを思いつめるように、外を見る林拓人。
クリスマス仕様に着飾った人々と、木々の電飾を見る林拓人。
そして、そんな林拓人を見つめる私。
「ねね、さっきの曲、もう一回聞かせてよ。ここならちゃんと聞こえるし」
私の言葉に、謎の緊張感が消えて、イヤホンが差し出される。
何があったのか、きっかけなんて知らない。だけれど、急に、私たちの時間に初めて終わりの気配が漂った。



湯船が狭いから自ずと体育座りみたいな体勢になっているのだが、なんだか居心地が悪くて、腰をもっと落として足を投げ出す。
「今夜のフィーチャーナンバー」は、その時聴かせてもらった曲に似ているのかもしれない。林拓人の歌声に似てるんじゃなくて、それなのか…どっちだ。散々聞いたはずのあの歌声は、もうパッとは脳内再生できなくなったみたい。
林拓人は、二週間前に出て行った。




「年末、帰省するからさ」
クリスマスが終わって、年末年始セールが街を賑わせだした頃、林拓人はそう言った。

頭に浮かんだ私の選択肢。
「(年末、帰省するからさ)、加奈子ちゃんもうちの実家においでよ」
「(年末、帰省するからさ)、年越しの瞬間は会えないよ」
うーん。今の関係性は、親に紹介してもらえるような感じではない。
隠されている言葉は後者だ、と思った。

「わかった。寂しいけど、仕方ないね」
私は、そう言ったんだった。
それが、受諾の意味になるとは思いもせず。

私はまだ林拓人初心者だったみたい。

隠されている言葉は、そういうんじゃなかった。
「(年末、帰省するからさ)、もう一緒には住めないよ」

そういう意味だったと気付いたのは、彼がやけに荷物を纏め始めてからだった。
同棲は辞めて、年末から実家に帰る、と言いたかったらしい。






年明けのお正月ムードが恨めしいほどに、私はすっからかんだ。
一緒に選んだはずの部屋は、がらんどうになった。

林拓人の持ち物は何一つ残されてなくて、去り際に渡された茶封筒だけが机に残っている。

「俺が勝手に決めちゃったからさ」

林拓人はそう言って、数ヶ月分のこの部屋の家賃に値する札束が入った茶封筒を差し出した。
私の顔なんて一回も見ないまま、つっかえるほどのおっきな荷物を抱えて、そして、部屋のドアはぱたっと閉まった。



心地いいメロディーだったのに、「今夜のフィーチャーナンバー」は終わってしまった。
ラジオDJは、また洋楽を流し始める。

軽快なイントロ。
しわがれた声の男性ヴォーカルの声が響きだしたタイミングで、
ブチっという音とともに、スピーカーのバッテリーが切れた。
しんとする浴室。自分の立てるチャプチャプという水音がやたらに響く、深夜の東新宿のマンション。


いつかどこかであなたが泣いていても〜♪

私は、寂しくならないように歌う。
さっき聴いたこのフレーズしか出てこない。

いつかどこかであなたが〜♪

繰り返す。


曲名もアーティスト名も聞き忘れた。けど、多分好きな感じの曲だ。あとでググらなきゃ。




ピーピーピー。

林拓人ではなくて洗濯機が「終わったよー」と言っている。
反射的に、湯船から立ち上がる。
危ない。のぼせてちょっとクラクラしている。

ガラッと半透明の扉を引いて空気を取り込めば、かすかに洗剤の匂いの混ざった冷たい空気が入ってきて、私は登頂か何かをした人みたいに両手をあげて伸びをする。

空気が、冷たくて美味しい。

軽く髪の水を絞ってから、洗面台の前に敷いているバスマットにゆっくり移動する。
綺麗に積み上げられた薄水色のバスタオルの、一番上のものに手を伸ばす。そのとき、あるものが視界に入る。

ん?

洗濯機と壁の間に、白い布が落ちている。
無造作に置かれたそれに手を伸ばす。
それは、1990円のTシャツだった。




バスタオルも、Tシャツも、おんなじ布だ。

全身になすりつける。
細いくせに、結構背中が大きいんだよね、林拓人は。
濡れたことで、Tシャツに染みていた匂いが生き生きと蘇り出す。

ゴシゴシ。

身体中に滴っていた水分をTシャツはほとんど吸い取った。
でも、1990円。
林拓人が着てないと、やっぱりクタクタのただの布だった。

だけど、魔法みたいに、自分から林拓人の匂いがした。
私の腕も、髪も、林拓人だった。
崩れそうになった。

もう水を吸ってくれないその布を握りしめて、
林拓人が恋しくて、
裸でバスマットに座って、そのまま、泣いた。


なんだよ、急にいなくなんなよ。




「いつかどこかで〜あなたが泣いていても〜」
頭の中に、さっきのフレーズが流れてきて、泣き声のまま口ずさむ。


泣いているのは私だ。

林拓人は今頃、どっかの居酒屋で飲んでいるか、どっかで細いいびきをかいて寝てる。
もう二度と、今何してるのかなんてわからないのかも知れない。
だけど、とにかく林拓人はどっかで生活をしている。



そうだ。
私もそうしなくては。

洗濯を回さなきゃ着る服がなくなるし、回したら乾かなさないと臭くなるし。


生活は続いて行く〜♪

突然、口をついて出るフレーズ。
何の曲だっけ、これ。林拓人の作った曲だっけ。



なんだっけ。でも、その通りだ。生活は続いてく。
生活しないと進めない。
誰も客がいないライブハウスで歌う、みたいな人生だとしても、やっぱり生活は続けなきゃならない。



ああ、そうだよ、洗濯物を干さなくては。
びっしょりクタクタの1990円を床に置いて、私は立ち上がる。



「洗濯干さなきゃだからさ」

あの独特な口癖を真似して苦笑しながら、洗濯機のフタを開ける。
洗剤の香りがブワッと漂ってくる。

自分からする林拓人の匂いに、その香りが混じる。
ひどく、ひどく懐かしい、こないだまで当たり前にあった「生活」の香りがした。


ああ。
林拓人のこと、まだ、まだ、大好きだけどさ。

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