第2章

文字数 9,842文字

 二時間ほど後、炉から出てきた一郎は、ただの白い骨と化していた。葬儀社の担当者によると、持病がなかったせいか、ほとんどの骨がしっかりと残っているとのことだった。
 それぞれが形の残っている骨を骨壷に入れていくと、後は刷毛で丁寧に欠片や灰をかき集められる。まだこれが父だという実感は、持てなかった。
「これって、ちょっと貰ったりできるのかな」
「できるんじゃないの?」
 良太の独り言に、恭子が言ってきた。炉前の別れでは号泣していた姉だが、今はしっかりとしている。
「何だったら、これに包んで帰れば?」
 洋子はそう言うと、真っ白いハンカチを出してきた。早くに親を亡くした友達が、ロケット型のペンダントに遺骨を入れていたなと思い出し、良太はハンカチに大きめの欠片を挟んで、持ち帰ることにした。
 両手に抱えられるほどの大きさの骨壷に収められた一郎を連れて、自宅へと戻る。葬儀社がリビングに簡単な祭壇を作ってくれて、そこに遺骨と遺影、そして花を飾った。
「あっと言う間だったな」
 喜一郎がソファーに座りながら呟いた言葉は、皆が思っていたことだった。ひどく短い時間で、ドッと疲れた気がする。
 恭子と和夫も疲れが溜まっていたのであろう、お茶だけするとすぐに自宅へと戻り、洋子と喜一郎と良太の三人になる。店屋物で夕飯を済ませたが、まだリビングにある祭壇に違和感を拭えない。そしてまだ一人、足りないような気になる。
 これが、家族を失うということか。ようやく実感として一郎の死が、日常に浸食してくるのを、良太は感じていた。
 いつになったら、一郎の不在に慣れるのだろう。その日はそう思っていたが、告別式の翌々日から仕事に復帰し、二週間も過ぎると、それが当たり前のようになっていた。
 一郎が倒れた時はあれだけ支え合っていたように見えた喜一郎と洋子も、以前のように話さなくなったし、心配して電話を頻繁に掛けてきていた恭子も、最近は身体の調子が悪いと言って、メールすら送ってこなくなった。
 良太はネット通販で、遺骨を納められるペンダントを購入していた。火葬場から持ち帰った欠片をそこに入れ、風呂に入る時以外は身に着けるようになった。しかし事あるごとにペンダントに触れて父を思い出していたのは最初だけで、今ではただの装飾品の一つとなっている。
 ふわりふわりと、一郎の存在感が日常から消えていく。祭壇にはあの笑顔の遺影があって、忘れることは決してないが、思い出すことは減っていった。
 そんなある日、コンビニバイトが休みだった良太は、昼前からパソコンでネットサーフィンをしていた。平日だったこともあり、遊ぶ友達が掴まらず、二階の自室で暇を持て余していたからだ。洋子は仕事で、喜一郎はデイサービスに出掛けており、誰に邪魔されることも、文句を言われることもなく、自由を満喫していた。
 二時間ほど経った頃だろうか、腹が減って一階に降りた。リビングでテレビを見ながらカップラーメンで腹を満たしていると、ふと一郎の遺影が目に入った。
『どうせ死ぬなら、ユカちゃんに、会いたかったなあ』
 スープを啜っている時、一郎の声がふと頭の中で甦った。覚えていたはずなのに、すっかり忘却していた。
「ユカちゃん」という呼び方から女性だと推測されるが、その人は会葬者の中にいたのであろうか。最期に漏らしたその人に、父は会えたのだろうか。
 急に気になってきた良太は、食べたものの後片付けをしてから、二階の自室に戻る。葬儀の打ち合わせの時、CDからデータを移していたと思い出したからだ。
 パソコンを再び開いて、父が遺していた会葬者リストのファイルを開く。主に仕事や組合関連の人名がズラリと並んでいるのは、見つけた当初から分かっていた。ただ実際に連絡を入れたのは洋子であり、良太自身が確認したことは今までなかった。
 一つ一つ丁寧に確かめてみたが、まず大半が男性の名前だった。女性の名前だけチェックしたものの、ユカという名前、もしくは似た名前はそこにはなかった。念の為に男性で響きが似た名前がないか調べ直してみたが、やはり該当するものは見当たらなかった。
 しかしこれはあくまで、一郎が生前に準備していたリストでしかない。このリストに載っていたよりも、弔問客は実際多かったと聞いている。芳名帳を見れば分かるかもしれないと考え、良太は再び一階に降りた。
 葬儀の翌日、忌明けに香典返しをするから、香典袋と芳名帳は絶対に失くしてはならないと、洋子が一つの紙袋に纏めて祭壇の隣に置いていたはずだ。
 誰もいないと分かっているリビングで、何故か良太は人目を気にしながら、紙袋の中から芳名帳を取り出した。
 人によって字が綺麗だったり汚かったりと様々で、見落とさないようにと一頁ずつゆっくり調べたが、ここにも「ユカ」という名前の人物はなかった。
 ここまで来ると、逆に知りたくてたまらなくなってくる。死を目前にして、呟くほどに一郎が会いたかった人。どんな人物なのか、気になって気になって、仕方なくなった。
 良太は一郎の遺影をじっと見つめた。
 そして芳名帳を袋に元通りにしまうと、立ち上がった。そして忍び足でリビングから出ると、一郎の書斎へと向かう。
「父さん、ごめん」
 小さく呟きながら、書斎の扉を開いた。手掛かりがあるとしたら、残るは父の自室以外にはないような気がしたからだ。
 遺品の整理は一切されておらず、一郎が亡くなってすぐこの部屋に入ってから、何一つ風景は変わっていなかった。そっと扉を閉めてから、電気を点ける。母も祖父も帰ってくるのは夕方を過ぎてからだから、家探しする時間は充分にあった。以前と同じように、床に散らばった服や本を跨ぎながら、机から調べることに決めた。
 椅子に座った良太は、部屋をグルリと見渡した。机の両サイドには本棚があり、雑然と、かつギッシリと漫画や小説が並んでいる。本棚の手前の空いているスペースには箱も置かれたりしているので、もしも机にヒントがなければ、時間がかなりかかるだろうと思った。
 改めて机に向かい、引き出しを順番に開けていった。引き出しの中も整理がされておらず、小物が乱雑にしまわれている。全部で四段あるうちの、一番下にある最も底の深い引き出しを見てみると、そこには古い携帯やパソコンの周辺機器が適当に放り込まれていた。
 携帯ならば、何らかの情報があるかもしれない。そう考えた良太は、携帯だけを取り出した。しかし当然のように、電源すら入らなかった。古い型のフィーチャーフォンなので、専用の充電器がなければどうしようもなかった。その回りを探してみたものの、充電器は見つからない。
 その時、ふと気付いた。
 機械だけに関して言えば一郎は新しい物が好きで、割と早い段階でスマートフォンに乗り換えていた。しかしスマートフォンは、一つもない。死ぬ直前まで持っていたスマートフォンは、洋子が先日解約するために持っていたが、それまでに最低でも三台は買い替えていたと思う。一台もここにないのは、明らかにおかしかった。
 良太はもう一度、椅子を回転させてグルリと部屋を見回す。絶対にこの部屋に隠されているはずだと、本棚の上から順番に目で追っていった。
 すると机のすぐ脇の位置に、一つだけ目立つ箱があった。本棚の手前に置いてある他の箱は、古い段ボール箱がほとんどだったが、それだけは頑丈そうな厚紙で出来た、わざわざどこかで買ったとしか思えないデザインの、蓋が付いている小さい収納ボックスだった。
 それをそっと手に取り机の上に置いた良太は、ゆっくりと箱を開けた。箱の中には、スマートフォンが三台に充電器、そして茶封筒が収められている。
 何となく嫌な予感がして、封筒を手に取ったものの、最初に開けるのは躊躇われた。迷った末に、先にスマートフォンを三台とも取り出し、机の上に並べる。それぞれの機種名で、どの順番で使っていたのか分かった。
 一番古いものを手にし、試しに電源ボタンを押してみると、すぐに起動した。もう使っていないはずのスマートフォンの電源が入ったことに驚いていると、しばらくするとロック画面が表示される。
 無頓着な一郎は、カードの暗証番号はともかく、こういったパスワードはいつも「1234」に設定しているのを、良太は知っていた。今更怖気づいてきたものの、何とかパスワードを入力する。
 そして一番に、電話帳を調べた。頭から順番に探していると、最後の方にあの名前が出てきた。
『ユカちゃん』
 やはり一郎が呟いた名前は、ユカで合っていたのだ。何か遣り取りが残っていないだろうかと、メールアプリを起動する。
 ドクリドクリと、心臓が激しく脈打つ感覚に、良太はフーッと大きい溜息を吐いて、自分を落ち着かせた。同じことを三度繰り返してから画面を見つめ、敢えて一番古いメールから見ていくことにした。
 半ばを過ぎた頃に「ユカちゃん」という名前が表示されたメールが出てきた。メールを開くと自動的に前後の遣り取りが表示される形のアプリで、後はそれを見ていくだけで良くなった。
『さっき遊んでもらった、朽木です。今日は楽しかったです、ありがとう。またお店に遊びに行くので、宜しくです』
『朽木さん、今日は私も楽しかったです。ありがとうございました。また遊びに来てくれると、嬉しいです』
 店? 遊ぶ?
 その単語から連想されるのは、水商売の店ぐらいだ。古いメールから新しいメールへとどんどん読み進めていったが、最初は同じような文面ばかりだった。やはりユカという女性は、接客業に就いており、一郎はその客の一人だったらしい。
 日付が新しくなるにつれ、メールの頻度は多くなっていき、内容も変わっていった。お互いに仕事の愚痴を零し合い、相手を慰めたり励ましたりするようになっていく。一台目のスマートフォンの最後のメールは、また翌週遊びに行くという文面で終わっていた。
 良太は電源を落としながら、どんどん怖くなっていった。嫌な予感だけが、胸中を過ぎっていく。ユカがホステスだかキャバ嬢だかは知らないが、ただの客の一人だとしたら、最期の最後に会いたいと願うであろうか。
 真実を受け止めるのが嫌で、二台目のスマートフォンに触れるのが躊躇われた。良太は遺骨の入ったペンダントに触れながら、幾度も迷いに揺れた。しかし決心をして、そっと二台目のスマートフォンを手にした。
 一台目と同じ手順で、メールをチェックしていく。内容はどんどん、親密なものへと変わっていっていた。
『仕事終わったよ、迎えに行っていい?』
『もうちょっと待って』
『ユカちゃんおはよう、仕事の時間だよ』
『眠い。まだ無理』
『ちゃんと起きて、会社に行きなさい』
『はい』
 文面と送受信の時間帯で推測できたのは、この辺りでユカは昼の仕事に就いたらしいということだった。新しい仕事に慣れないという悩みが記されてあったし、一郎と仕事帰りに待ち合わせをしていた形跡も見られた。
「お泊り」や「旅行」といった単語も、頻繁に出てくるようになった辺りで、認めざるを得なくなる。
 どう見ても、もうホステスとその客の遣り取りではない。立派な不倫だった。
 あの真面目そうな父が……と思い、良太は大きな衝撃を受けた。家では全く、そんな素振りを見せた記憶がない。確かに一郎は市役所勤めの割に帰りが遅かったり、何日か帰って来ない時期があったが、元々一人で行動するのが好きな父のことを、誰も咎めはしなかった。浮気をしていたなんて、当時は想像もしていなかった。
「マジかよ……」
 独り言は溜息と共に、吐き出すしかなかった。自然と前のめりになり、頭を抱える。どんなタイミングで知っていたとしても混乱していただろうが、亡くなった直後に知った父の秘密に、良太は複雑すぎる思いを抱くしかなかった。
『どうせ死ぬなら、ユカちゃんに、会いたかったなあ』
 その言葉さえ聞いてなければ、例え死後に不倫の事実を知っても、単純な怒りしか感じなかったのかもしれない。そう考えると、一郎のことが憎くなってたまらない。
 しかもその思いを知っているのは、自分だけだ。母も姉も、当然祖父も、聞いていない。
 延々と続くメールの遣り取りを横目でスクロールしながら、良太は溜息ばかりを零していた。一応最後まで見たが、事実の後押しをしているだけの内容だった。
 憂鬱な思いのまま、三台目を手にする。一郎が最後に持っていたスマートフォンの、一つ前の機種だった。これ以上見ても無駄な気もしたが、念の為に電源を入れる。
 三台目も相変わらず、二人が逢瀬を繰り返しているとしか考えられないメールが続いたが、四分の三ほど見た辺りで様子が変わってきた。
『本当にもう会わないの?』
『もう会わない方がいいよ』
『僕はユカちゃんに会いたいよ』
『駄目だよ』
 どうやら別れ話が何らかの形で、ユカの方から持ち出されたらしい。日付を見ると、二年ほど前になっている。思い返してみると、恭子が結婚をした時期だったが、家族の前で憂いを見せたことは、決してなかったと思う。
 ユカからの最後のメールは、ただ一言『さようなら』で終わっていた。その一方で、一郎のメールは続いていた。
 続いていた、というのは語弊があるのかもしれない。未送信メールが、溜まっていた。
『ユカちゃん、元気ですか。寒くなってきましたが、体が心配です』
『ユカちゃん、会いたいよ』
『ユカちゃん、生活に困ったりしていませんか? 病気の具合はどうですか?』
『ユカちゃん、暑い季節になりましたね。脱水症状には気を付けてね』
 幾度も心から呼び掛けるように、名前から始まる未送信メールは延々と、一郎が亡くなる三日前まで繰り返されていた。
 だからかと、良太は合点がいった。古いスマートフォンがすぐに電源が入ったのは、恐らく一郎が頻繁に充電していたからだ。不倫関係を解消して二年が過ぎた最近まで、ユカとの思い出を振り返っていたのだ。
 そんな結論に達した時点で、良太の精神は疲弊していた。悲しいだとか苦しいだとか表現するよりは、気持ちが擦り切れたという言葉の方が、合っている気がした。
 今まで平凡ではあるものの、気楽に生きていける環境にいた良太にとっては、亡き一郎の浮気発覚は、驚き以上の衝撃をもたらした。
 最後に箱の中に残されているのは、充電器と一通の封筒だけになった。見なくてもいいものなのかもしれないが、ここまで来たら見るしかない。そう自分を奮い立たせて、茶封筒を手にする。
 縦長の封筒は封がされておらず、その代わりに開け閉めを繰り返したのであろう、封の部分が縒れていた。
 良太は封筒から、慎重に中に入っているものを取り出す。直接触れただけで、それが写真だと分かった。ゆっくりと取り出し、一枚の写真を見た途端、目を見開く。
 そこには一郎と、見知らぬ中年女性が写っていた。今までのメールでの遣り取りを見ていたおかげで、ユカらしき女性が写っていたことそのものには、大した衝撃はない。
 驚いたのは、一郎が事前に用意し、なおかつ自分たちが遺影として選んだ、あの笑顔の写真の全体像だったということだ。女性の腕に掴まっている鸚鵡がいるせいか、二人の距離は少し離れていたが、それでも同じように楽しげに笑い合う姿が、そこにはあった。
 今までにない苦い感情が、心の奥底から溢れてくる。メールを見た時以上のショックに、思わず胸にあるペンダントを引きちぎりそうになる。それが沸々とした怒りだと気付いたのは、自分が荒い呼吸を繰り返していたからだった。
 写真を幾度となく見返し、そして指でなぞっていたのだろう。ほんのり四隅が丸まっていて、二人の笑顔の周りが擦れている。
 死ぬ間際まで思い出すほどの思い人を、家族以外に作っていた一郎。それを現実として目の当たりにした今、父を信じられなくなった。今までの父との記憶が全て、汚されたような気分になった。
 良太は写真を封筒に入れ直すと、三台のスマートフォンと共に、箱の中へ戻した。そして箱ごと抱え父の書斎から出ると、洋子と喜一郎がまだ戻っていないのを確かめてから、二階の自室へと戻った。あそこに置いたままだと、いずれ他の家族が見つけてしまうだろう。持っているのも嫌だったが、自分の部屋に隠すことぐらいしか、思いつかなかった。
 念の為に部屋の鍵を掛け、部屋の真ん中にドンと音を立てて座り込む。足の間に箱を置いて、ひとしきり考えた。これは処分をするにしても、モヤモヤしたこの思いの行き場を、どうすればいいのか分からなかった。
 とてもじゃないが洋子には、言えることではない。幾ら強い母と言えど、隠されていた真実を知って傷付かないはずはない。息子を亡くしたばかりで気落ちしている喜一郎にも、話せる内容だとは思えなかった。
 普段つるんでいる友人や仕事仲間にも、余りにディープすぎる話題ゆえに、打ち明ける勇気が出なかった。逆に自分が持ち掛けられていたとしたら、困るだけで終わるだろう。
 そうなると、残るは恭子だ。年の離れた姉は幼い頃こそ鬱陶しい存在だったが、今は物理的に距離が出来たせいか、フランクな付き合いができていた。
 気の強い恭子が、不倫の過去を知れば騒ぐのではと一抹の不安を抱えつつ、良太はパンツのポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリを起動した。
『姉ちゃん、仕事終わったら電話して』
 さすがにメールではちゃんと説明をする自信がなく、迷った挙句に一番して欲しいことだけを書いた。送信できたことを確認し、スマートフォンを床に置いたとほぼ同時に、電話がかかってくる。驚いて画面を見ると、仕事中のはずの恭子からだった。
「もしもし、姉ちゃん?」
『良太、何よ』
 外にいるのか、後ろが騒がしかった。風もきついらしく、ヒュルリと音を立てている。
「姉ちゃん、仕事じゃねえの?」
『具合悪くて、病院行った帰りなのよ』
 確かに近頃調子が悪いと聞いていたが、病院に行くほど辛いのだろうか。一郎が急死した直後ということもあり、良太は不安になる。
「そんなに具合悪いの? 大丈夫かよ」
『……それがね、違ったのよ』
 恭子は含みを持たせた言い方をして、少し間を空けた。どういう意味だか分からず、良太は余計に心配になってくる。
「じゃあ何だよ」
『妊娠、してたの』
「……はっ?」
『だから! お腹に! 子供がいるの!』
 恭子は嬉しそうに、かつ恥ずかしそうに大声で言ってきた。突然の告白に、良太は思わずスマートフォンを落としそうになった。
「……マジで?」
『マジよ』
 結婚して二年、早めに子供が欲しいと言っていた姉が、とうとう妊娠した。自分が叔父になると思うとくすぐったい思いになるし、まだ実感もないが、嬉しかった。
「姉ちゃん、おめでとう」
『ありがと。母さんやおじいちゃんには直接言いに行くから、まだ言わないでね』
「はいはい、分かったよ」
『ところであんた、電話しろって、何か用があったんじゃないの?』
 そう尋ねられて、一瞬忘れていた一郎の秘密を思い出した。しかし姉の身体を考えると、今のタイミングでは言えない。騒がれて何か起こっては、取り返しがつかなくなる。
 良太は仕方なく、とぼけてみせた。
「や……暇だったから」
『あんた何それ』
 ごめんごめんと謝ってから、寒い日が続くので身体には気を付けるように伝えてから、電話を切る。しかしいよいよ、頼れる相手はいなくなった。この苦しさを、誰かと共有したい。少しでも、分かち合ってほしかった。
 辛さが甦ってきて、良太は再び混乱に襲われながら、箱の中から三台目のスマートフォンを取り出した。改めて一郎が遺していた未送信のメールを読み返しながら、ふと思ったことがあった。
 ユカという女性は、一郎の死を知っているのであろうか。最期まで思われていたことを、知らないのではないだろうか。
 教えてやる義理なんてないと考えながらも、良太には父に対して深く後悔していることがあり、また悩み始めた。
 父は自分が死ぬことに気付かなければ、あんなことを口にしなかったかもしれない。箱に収めてこっそりと隠していたスマートフォンや写真のように、本当の意味で墓場まで持っていくつもりだったのではないだろうか。
 一郎に死を自覚させたのは、自分だった。
「どうすりゃいいんだよ……」
 情けない声が、自分の口から漏れる。そのたびに、一郎の言葉が脳内をこだまする。
『どうせ死ぬなら、ユカちゃんに、会いたかったなあ』
 自分だけが知っている、一郎の最後の願いを叶えてやるのも、もしかしたら親孝行になるのかもしれない。
 それにユカという女性に会って、一言言ってやりたい気持ちもあった。こんな事態を引き起こした責任の一端をユカにも担ってもらいたいと思った。一つ間違えれば家庭を壊していたことを、無関係であるはずの良太がこうして苦しんでいることを、当の本人が自覚していないのが納得いかなかった。
 どうしてくれようか。
 良太は悩んだ末に、一郎のスマートフォンに残されていた連絡先に、電話を掛けると決めた。もしこれで駄目ならば諦めるつもりで、電話帳からユカの番号を調べた。
 ゼロ、キュー、ゼロ……と読み上げながら、自分のスマートフォンの画面を操作する。心臓がバクバクと音を立てているのが、すぐに分かった。
 繋がらないでほしい。心のどこかでそう願いつつ発信ボタンを押してみたら、数秒後に呼び出し音が流れ始めた。一つ二つと数えるたびに、早く留守番電話に切り替わってくれと、祈り続けていた。
 しかし五コール目で、呼び出し音が切れる。
『もしもし、キリヤマですが』
 応答があったことに良太はたじろぎつつ、ユカの苗字を知らなかったことに初めて気付く。何と呼び掛けていいか分からず戸惑っていると、向こうから再度話し掛けてきた。
『もしもし、キリヤマですが?』
「あの、すみません。ユカさんの携帯電話ですか?」
 尋ねた途端、電話が切れたのかと思うほど、しばらく無言が続いた。番号を間違えたのか、もしくは今の持ち主は無関係だったのかもしれないと焦っていると、キリヤマと名乗った女性が口を開いた。
『……どういったご用件でしょうか』
 低くなった声に動揺しながらも、良太は懸命に話す言葉を考えた。
「あの、俺、朽木良太と言います」
『朽木……』
「朽木一郎の、息子です。父のことは、ご存知、ですよね?」
 焦れば焦るほどに、手汗が滲んで舌が上手く回らなくなってきた。それでも何と伝えると、相手には心当たりがあるらしく、キリヤマは再び黙り込んだ。
「あの、父が、亡くなったことは」
『えっ』
 最後まで言い切る前に、キリヤマはこちらが逆にびっくりするほど、驚いてみせた。
『いつですか』
「二週間ほど前なんですけど、あの、キリヤマさん」
『はい』
「キリヤマさんは、ユカさんなんですよね?」
 念の為に確認すると、キリヤマは小さく溜息を吐いてから、返事をしてきた。
『……はい、そうです』
「一度、僕と、会って、もらえませんか」
 ほとんど勢いだけで電話を掛けたせいで、今残っているのはなけなしの勇気だけだ。ただでさえ相手は父の元不倫相手で、しかもどんな人間か分からないのに、危険だとも思った。それでも一度口にしてしまえば、もう翻すことはできなかった。
 キリヤマは、すぐには答えなかった。何かをひとしきり考えるような静寂が続き、良太はそれに耐えられず、思わず続けた。
「他の家族は知らないので、行くのは僕だけです」
 そう言うと少しは警戒を解いたのか、キリヤマは今までとは違う色の溜息を吐いた。
『分かりました。お時間は合わせます』
 その返事の後、お互いの都合を確認しあったところ、今日これからでしか、しばらく時間が合わないと分かった。話しているうちにキリヤマが同じ市内に住んでいると分かり、ちょうど中間点となる繁華街の喫茶店で、待ち合わせをすることになった。
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