第1話
文字数 1,967文字
黒いクリームソーダ
Saven Satow
May, 09, 2024
「ビール好きの僕、相変わらず毎日ビールを飲んでいますが、日本を離れていちばんうまかったのは、ニューヨークのロシア料理店で出された「チュボルク」というデンマークのビールでした。このビールはコクがあって、日本のどのビールよりもうまいのはもちろん、アメリカ、イギリス、ドイツ、チェコスロバキア、フランスのビールよりもうまい。アメリカのシュリッツというビールも、日本のキリンよりうまい」。
北大路魯山人『デンマークのビール』
ビールは風呂上りに限る。晩酌には向かない。油のついた唇で飲むと、せっかくの泡が消えてしまう。また、食事が中心になり、おいしく飲むタイミングを逃しかねない。
風呂上がりのビールのために、晩酌はしない。しかし、すきっ腹で飲むこともしない。健康を損ねては、将来的に味わう機会を失ってしまう。食事によってはワインが欲しくなる時がある。ステーキには赤ワイン、生ガキには白ワインが欠かせない。そういう場合にはビールをあきらめる。
ビールなら何でもいいということはない。黒ビールが好みだ。「エビスプレミアムブラックしか自宅では飲まない。ただし、ダークラガーやドゥンケルが手に入った場合は別である。プレミアムブラックは重厚なコクと苦甘い味がいい。ただ、この銘柄の前身「エビス〈ザ・ブラック〉」の方が気に入っていたが、残念ながら、製造中止になっている。
入浴の際には磨きを済ませておく。口の中の汚れはビールの味を台無しにする。なお、ビールを飲み終え、眠る前に口を水でゆすぐことにしている。
風呂から上がったら、冷蔵庫にあるプレミアムブラックの350ml缶を一つ取り出す。飴色の革製コースターを2枚テーブルの上に置く。その1枚に缶を乗せたら、食器棚から350mlビール・グラスを一つ取り出す。それをコースターの上において、ビールが飲み頃の温度になるまで待つ。
ビールには最もおいしい温度がある。プレミアムブラックなどのエール・タイプの冷やしすぎは禁物だ。
待ち時間は季節や気候によって変わる。それは缶の中のビールの温度変化だけではない。グラスは常温補完なので、室温によって温度が異なる。室温が高ければ、注いだ際のビールの温度も上がりやすい。そういうことも考慮しなければならない。
缶を握って、熱がある時に金属に触れた際に感じる冷たさなら、まだ早い。さりとて、夏の水道水のようなぬるさなら、もう遅い。缶が軽く汗をかき、さわやかな温度の時がいい塩梅だ。
コップでは泡が立ちにくい。しかし、ジョッキでは飲むのに時間がかかるので、泡が消えてしまう。素焼きの陶器のビール・グラスが最適だが、残念ながら、今は手元にない。「GUINESS」と印字されたビール・グラスを愛用している。
缶を開け、グラスの口元に添える。缶をゆっくりと持ち上げ、ビールが泡立つように注ぐ。グラスの半分くらいまで泡が立ったら、缶をゆっくり下げながら、注ぎ続ける。グラスの3分の2くらいに黒いビールが見えるようになると、泡は口元の上にせり出す。さらに泡が親指の第一関節くらいまで高くなったら、Jの文字を描くように缶の注ぎ口を上に向ける。
それは黒いクリームソーダのようだ。グラスの口につけると、きめ細やかな泡が唇を包む。顔を挙げ、黒い液体を一気に飲み干す。それは舌や喉を刺激しながら、胃に流れて行く。
飲み終えたグラスをコースターの上に戻し、まぶたを固く閉じて余韻を味わう。全身に流れる血液が黒くなったような気がする。血圧が急激に下がり、閉じた目に涙がジワリとわいてくる。軽くため息をついて、思わずつぶやく。
「うまい」。
グラスの3分の1程度に残った阿波の上に、残りのビールを缶から注ぐ。すでに泡があるので、高い位置から注ぐ必要はない。缶が空になると、口元いっぱいくらいまで泡が達する。
これも一気に飲み干す。1杯目のような全身に走る恍惚感はないが、もう1杯飲めたという満足感はある。
缶を開けてから飲み終わるまでおそらく3分もかかっていない。この黒ビールにはつまみなど要らない。また、飲むことに集中し、誰とも会話をしない。
余韻が薄らいだら、使ったグラスを洗い、キッチンの水切り台に置く。缶には水を入れて、流しにひっくり返して立てる。
少し間をおいて、冷蔵庫からビールを取り出し、同じ作業を繰り返す。1日に飲むビールの量は2〜3缶だ。それ以上は酔いを感じ始め、舌の感覚が鈍くなるので、もったいない。酔うためだけに飲むことはしない。ビールは飲むものであって、飲まれるものではない。
飲み終えてコースターに戻されたグラスの底に残った泡が落ちるのを見て、1日の終わりを感じる。黒ビールと共に、1日も過ぎて行く。
〈了〉
Saven Satow
May, 09, 2024
「ビール好きの僕、相変わらず毎日ビールを飲んでいますが、日本を離れていちばんうまかったのは、ニューヨークのロシア料理店で出された「チュボルク」というデンマークのビールでした。このビールはコクがあって、日本のどのビールよりもうまいのはもちろん、アメリカ、イギリス、ドイツ、チェコスロバキア、フランスのビールよりもうまい。アメリカのシュリッツというビールも、日本のキリンよりうまい」。
北大路魯山人『デンマークのビール』
ビールは風呂上りに限る。晩酌には向かない。油のついた唇で飲むと、せっかくの泡が消えてしまう。また、食事が中心になり、おいしく飲むタイミングを逃しかねない。
風呂上がりのビールのために、晩酌はしない。しかし、すきっ腹で飲むこともしない。健康を損ねては、将来的に味わう機会を失ってしまう。食事によってはワインが欲しくなる時がある。ステーキには赤ワイン、生ガキには白ワインが欠かせない。そういう場合にはビールをあきらめる。
ビールなら何でもいいということはない。黒ビールが好みだ。「エビスプレミアムブラックしか自宅では飲まない。ただし、ダークラガーやドゥンケルが手に入った場合は別である。プレミアムブラックは重厚なコクと苦甘い味がいい。ただ、この銘柄の前身「エビス〈ザ・ブラック〉」の方が気に入っていたが、残念ながら、製造中止になっている。
入浴の際には磨きを済ませておく。口の中の汚れはビールの味を台無しにする。なお、ビールを飲み終え、眠る前に口を水でゆすぐことにしている。
風呂から上がったら、冷蔵庫にあるプレミアムブラックの350ml缶を一つ取り出す。飴色の革製コースターを2枚テーブルの上に置く。その1枚に缶を乗せたら、食器棚から350mlビール・グラスを一つ取り出す。それをコースターの上において、ビールが飲み頃の温度になるまで待つ。
ビールには最もおいしい温度がある。プレミアムブラックなどのエール・タイプの冷やしすぎは禁物だ。
待ち時間は季節や気候によって変わる。それは缶の中のビールの温度変化だけではない。グラスは常温補完なので、室温によって温度が異なる。室温が高ければ、注いだ際のビールの温度も上がりやすい。そういうことも考慮しなければならない。
缶を握って、熱がある時に金属に触れた際に感じる冷たさなら、まだ早い。さりとて、夏の水道水のようなぬるさなら、もう遅い。缶が軽く汗をかき、さわやかな温度の時がいい塩梅だ。
コップでは泡が立ちにくい。しかし、ジョッキでは飲むのに時間がかかるので、泡が消えてしまう。素焼きの陶器のビール・グラスが最適だが、残念ながら、今は手元にない。「GUINESS」と印字されたビール・グラスを愛用している。
缶を開け、グラスの口元に添える。缶をゆっくりと持ち上げ、ビールが泡立つように注ぐ。グラスの半分くらいまで泡が立ったら、缶をゆっくり下げながら、注ぎ続ける。グラスの3分の2くらいに黒いビールが見えるようになると、泡は口元の上にせり出す。さらに泡が親指の第一関節くらいまで高くなったら、Jの文字を描くように缶の注ぎ口を上に向ける。
それは黒いクリームソーダのようだ。グラスの口につけると、きめ細やかな泡が唇を包む。顔を挙げ、黒い液体を一気に飲み干す。それは舌や喉を刺激しながら、胃に流れて行く。
飲み終えたグラスをコースターの上に戻し、まぶたを固く閉じて余韻を味わう。全身に流れる血液が黒くなったような気がする。血圧が急激に下がり、閉じた目に涙がジワリとわいてくる。軽くため息をついて、思わずつぶやく。
「うまい」。
グラスの3分の1程度に残った阿波の上に、残りのビールを缶から注ぐ。すでに泡があるので、高い位置から注ぐ必要はない。缶が空になると、口元いっぱいくらいまで泡が達する。
これも一気に飲み干す。1杯目のような全身に走る恍惚感はないが、もう1杯飲めたという満足感はある。
缶を開けてから飲み終わるまでおそらく3分もかかっていない。この黒ビールにはつまみなど要らない。また、飲むことに集中し、誰とも会話をしない。
余韻が薄らいだら、使ったグラスを洗い、キッチンの水切り台に置く。缶には水を入れて、流しにひっくり返して立てる。
少し間をおいて、冷蔵庫からビールを取り出し、同じ作業を繰り返す。1日に飲むビールの量は2〜3缶だ。それ以上は酔いを感じ始め、舌の感覚が鈍くなるので、もったいない。酔うためだけに飲むことはしない。ビールは飲むものであって、飲まれるものではない。
飲み終えてコースターに戻されたグラスの底に残った泡が落ちるのを見て、1日の終わりを感じる。黒ビールと共に、1日も過ぎて行く。
〈了〉