文字数 2,557文字

 五日目の朝は、あいにくの雨模様だった。
 ベッドの中で伸びをして、もそもそと着替えを済ませ、部屋の外に出る。
 廊下の窓から空を見上げ、雲の色、空気の匂いを確かめる。
 どんよりとした重苦しい灰色と、鼻の内部がベトつきそうな湿っぽさ。一日中外にいる身としては、忌々しさを禁じ得ない。
 洗面所で歯を磨きつつ、何とはなしに考えてみた。

 トーノは雨の日は、どうしているんだろうか。
 記憶にある限り、あそこに屋根はない。

 あの病院の――ネットで見た、とにかくゴージャスでホテルみたいな病室に場所を移し、読めもしない洋書に目を落とすんだろうか。
 ……でも、ネットの口コミに書いてたな。
『つばき産婦人科』は三年先まで予約が埋まっていて――なんか文脈がおかしい気がするが――常に満室だって。
 あいつ、どこで寝泊まりしてるんだ?
 そもそも親は? 「お世話になってる」ってどういう意味だ?
 何故今まで思い至らなかったのか不思議なほどの、今更すぎる疑問。
 考えを巡らせるのに夢中で、だから洗面所のドアが開いたことに気づかなかった。

「びっくりした。お兄ちゃん、いたのね」

 エプロン姿の母さんが、胸に手を当てて言った。長男、つまりオレを『お兄ちゃん』と呼ぶ母親の姿を見て、舌打ちしたくなった。
 しまった。ちんたらしていたら鉢合わせしてしまった。
(まぁ父さんよりマシか)
 思い直して、無言で洗面所を出る。まだ顔を洗ってないけど後でいい。
 うちの洗面所は広くて、ふたりくらいなら余裕で並んで使える。でも、オレは一刻も早く母さんから離れたかった。
「お兄ちゃん、待って」
 なのに呼び止められた。
「ねぇ。少し話をしない? あれ以来、お兄ちゃん……お母さんたちを避けてるでしょ?」
 おずおずと、だが強めの口調で母さんがオレを(とど)めようとする。留めて、話をしようとする。
 ……勘弁してくれ。
 オレの心の声を神様が拾ってくれたのか、ナイスなタイミングで邪魔が入った。
 赤ん坊の弟がぐずり出したのだ。
 母さんは一瞬だけためらったが、優先すべき方を選んだ。オレの横をすり抜け、弟の部屋に急ぐ。
 ベビーベッドが置いてある部屋の隣は、もう一人の幼稚園児の弟の部屋だ。小学生のふたりの妹も、それぞれ自分の部屋で、ぬいぐるみと一緒に夢の中にいるんだろう。
 五人きょうだいの長男としては、その様子を想像すると、自然に笑みが出る。でもそれは、すぐに消えた。
 それなりに広い玄関に向かい、壁一面の収納棚から靴を出し、履く。
 いってきますも言わずに家を出た。いってらっしゃいは当然なかった。
 外に出て、空を見上げる。太陽の出番は終日なさそうだ。傘の出番もないことを祈ろう。
 そんなふうに考えつつ、右にコンビニの袋、左に学生鞄を持って、おなじみの裏道を歩み進む。
 靴の裏に伝わる草の感触がいつもより柔らかい。湿度が上がっている証拠だ。
 けれどトーノは変わらず、そこにいた。昨日までと同じように。

「やぁ千風。今日は早いね」

 出発が通常より三十分ほど早かったので、到着も然りだった。
「早くちゃ悪いかよ」
 わざと憎まれ口を叩く。
「ううん。昨日より長く一緒にいられるんだろ。嬉しいよ」
 トーノは意に介さず、笑顔を返した。
 時間が早まった理由を聞かず、ただ「嬉しい」の気持ちを伝えてくるトーノが、有難かった。
 干渉されないのにひとりじゃない。居心地のよさの原因はこれだ。

(この状況、あれに似てる……)
 脳裏に浮かんだのは、悪名高い『人間を駄目にするソファ』だ。
 巨大なクッションとも言えるそれは、体重を預けるとまったく反発せずにズブズブと沈んでゆく。
 ありのままを受け入れて、包み込んで、「ああもういーや」と人から思考を奪う。

 ここはトーノが造り出した、ひたすら居心地のいい隠れ家。

 誰にも(家族や友達や学校や、……他の大人)見つからず、

 何にも(自分が今置かれてる状況、……現実)考えなくていい、

 ふたりきりの、逃げ場所なんだ。


「――それで千風。今日の口止め料は?」

 まぁ有料なんだけど。

 人がせっかく小難しい、文学っぽいことを考えていたのに、花より団子で色気より食い気。トーノは期待だらけの瞳で催促した。
「今日はコンビニのおでん。あと駄菓子」
 魅惑のダブルコンビニ袋に、トーノが「おで――ん、だがしかし、おで――ん」ともはや意味を成さない発言をする。
 ヤツは今この時だけ『残念なイケメン』に成り下がるのだ。
「朝からよく食うなー……」
 あっという間におでんを平らげ、器に口をつけて出汁も飲むトーノに、呆れ返って言った。
「病院食がマズくて、食べる気しないんだ。味が薄くて素材も悪くて、見た目はきれいに整ってるけど中身は最悪なんだよ」
 弧を描いた眉を寄せて、悪し様に吐き捨てた。
「口コミじゃ、『病院食とは思えないほど美味』って評判だけど」
「ヤラセか味覚音痴かだね。――おでんの出汁うまい。数年ぶりに食べたけど、コンビニおでんも進化してるんだ。感心した」
 一滴も残さず飲み干し、トーノがうっとりと余韻に浸る。完全にグルメ漫画のリアクションだ。
 トーノは几帳面にも使用済みの割り箸を袋に戻した。その手元を見ると、袖のボタンがひとつ取れかかっていることに気づいた。
 次にワイシャツの襟元に目をやる。ほんの少しだが汚れが濃くなっていた。
 ……いま自分が着てる、母さんが洗濯した清潔なワイシャツと比べて、なんだか切なかった。
 デザートの駄菓子に手を伸ばすトーノが、こちらを振り向く。

「千風、なんか俺に訊きたいことあるんじゃないの」
 麦チョコの小袋をシャカシャカ振って、ズバリと言い当てる。
「や、そんなことは……」
「嘘。昨日から俺の身の上気にしてる。別にいいよ、好奇心に物を言わせて詮索してくれて」

 まるっとお見通しだ。
 確かに気にならないわけじゃない。けど無理に聞き出すのは自制していた。
 トーノがオレに何も訊かないのに、オレだけ詮索するのはマナー違反だと思っていた。

「千風なら、いいよ。何でも答えてあげる」
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