第1話 ガスト

文字数 4,031文字

 その日、男はウキウキしていた。なんとも気味の悪い光景である。

 ノートパソコンを厚めの生地のエコバッグに入れた上で、リュックにしまう。今日は休日。いよいよ外出先での執筆活動が始まる。

 本当なら、パソコン用のバッグかリュックを買うべきだとは思っているが、そのあたりのことは追々でという、男が時折見せる勢い任せな性格のために、後回しにされている。

 さて、男が記念すべき第一回目に選択したのは「ガスト」であった。

 理由は単純だ。自宅から丁度良い距離にあるというだけである。家から歩いて行ける距離にはココスやマクドナルドがあるが、あまりに近いと知り合いに会うような気がして嫌なのだ。とはいえ、最初から遠くの店舗に行って、移動が大変と感じてしまうと、次が続かないような気もする。

 そのガストは、国道沿いに昔からある店で、家からは車で十五分ほどの距離である。数年前に一度入ったことがあるような気がするが、別の店舗だったような気もする。

 ガストは大学生時代に良く利用していた。値段が安いためだ。友人と昼食に行く時はたいていは学食だったが、たまにガストに行って贅沢をした。ドリンクバーと何か安い料理を注文し、夜中まで話していた。

 卒業して社会人になると、店はココスに格上げされ、ガストにはめっきり行かなくなった。安いから、味もそれなり、というイメージがあったのだ。

 そう、ただのイメージである。四年間で何度も通ったのに、全く味を覚えていないという失礼な話だ。正直な話、今回も期待はしていなかった。男の目的は、居心地が良く、筆が進む空間を探すことで、味は二の次だった。

 男がファミリーレストランに一人で入店するのは、初めてではない。初回はさすがに緊張したが、どうということはない。一人客はざらにいるし、数名のグループだったとしても、学生時代の男と同じく、友人関係であろう客ばかりだ。

 なんだ「ファミリー」なんてほとんどいないじゃないか。

 ファミリーレストランの「ファミリー」に抵抗感を覚えていた男は、なんだか馬鹿らしくなった。ファミリーレストランは、何でもない、ただのレストランだったのだ。

 それはそうだ。ファミレス側は、自らを「ファミリーレストラン」と名乗っていない。ガストは「あったカフェレストラン」だし、ココスは「ココスレストラン」である。厳密に言えば、ココスは公式サイトではファミリーレストランをうたっているが、表には出していない。当たり前だが、ファミリーでなければ利用してはいけないというわけではないのだ。



 九時前にガストに到着した男は「お好きな席にどうぞ」という案内を受けたが、少し緊張していたため、執筆に適しているかどうかをよく考えもせず、人が少ないエリアの席に座ってしまった。角が良いのは分かっていたが、最初に視界に入った角の席は六名掛けの大きなテーブルだったので、さすがに一人では座れない。男が座ったのは、その角の一つ北側の四人掛けの席だった。

 テーブルにはモーニングメニューが置かれていた。学生時代は昼食か夕食から深夜の利用が多かったため、ガストのモーニングは初めてだ。

 男は驚いた。思っていたよりもメニューが豊富だったのだ。洋食・和食を合わせて、選択可能なモーニングセットはなんと十種類以上もある。しかも、全てドリンクバーとスープバーが付いている。値段も、最も安くて税込み三百円強という流石の低価格である。

 男は迷った。計画では、迷わないように事前に調査して、注文する品を決めておくはずだったが、店を決めるのが精いっぱいで、注文するのは何でもいいやと思っていたからである。それが、意外にも多数の選択肢を提示されてしまったため、慌ててしまったのである。

 なんとか決定したメニューは、パンケーキ&ゆで卵セットであった。理由と呼べるほどのものはないが、なんとなく、温かくて甘いものを食べたかったのだ。トーストに餡が乗ったセットもあったが、なんとなく、いずれ訪れるであろうコメダ珈琲を彷彿とさせたため、避けた。

 注文直後、ドリンクバーが解禁される。季節は春、今日は良く晴れていたが、今は朝。まだ少し寒い。普段はコーヒーなど飲まないくせに、男は格好つけてホットコーヒーを飲むことにした。

 スタイリッシュなふりをしながら、熱いコーヒーを席に運び、一口飲む。無論、男にコーヒーの良し悪しなどわからない。酸っぱいか酸っぱくないかだけが重要で、男は酸っぱくないコーヒーであれば良かった。

 ほどなくして、モーニングが運ばれてくる。パンケーキは真円に近い形状で、厚さも一センチ以上ある。表面がカリカリで、なんとも美味そうだ。

 大きめのバターが溶けながら、早くお食べなさいと言っている。別添のメープルシロップを無遠慮に流しかけ、ナイフを入れた。サクッとした触感が伝わる。口に運ぶと、食感も期待通りだった。サクサクの、ふわふわである。

 店の、プロの味なのだから当然と言えば当然だが、他人が焼いたパンケーキの美味さに、男は感動した。家で焼いても、なんだかしっかりしてみっちりして、後半はもっそりして冷めると全く美味くないものしかできない。

 あっという間に食べてしまった。ゆで卵を剥くのに少し手が濡れたので、一度トイレに行くことにした。理想の執筆空間には、トイレも重要だ。パソコンの入った重いリュックを背負い、席を立った。

 トイレは良くも悪くも普通と言ったところだ。問題はないが、快適でもない。比較的古い店舗なので、仕方ないだろう。

 席に戻った男は再びドリンクバーに向かい、今度は野菜ジュースを選んだ。
まだ半分しか飲んでいないコーヒーをまた一口飲み、野菜ジュースも飲む。そして、ようやくパソコンを取り出した。

 なにぶん初めてなので動きはぎこちなく、男自身も、自らが不審な行動をとっているような気がしてならない。

 書くのは、家で途中まで書いていた小説の続きだ。自分に似た四十過ぎの主人公が、うまくいかない人生を想いながら、レトロゲームに耽る話である。

 以外にも筆は進んだ。

 書き始めてしまえば、ほとんど回りは気にならなくなる。それどころか、適度な喧騒が、むしろ良いBGMとなっているような気さえする。気が付けば、一時間近くも集中して書いていた。飲み物も全く進んでいない。ドリンクバーの意味がなかった。

 一度文章を保存して、男はドリンクを取りに行くことにした。

 パソコンをそのままにしておくのが心配だったので、一度リュックにしまい、背負って行った。実際に席を離れるのはほんの数十秒だが、不慣れな男は何事も慎重になってしまう。実際、トイレに行くなど数分の単位で席を離れるのでなければ、置いて行っても問題はないだろう。

 アイスウーロン茶を手に男が席に戻ったと同時に、男の席の斜め後ろ、つまり、角脇の席が埋まった。すぐ背中越しの角席は、三十分ほど前にすでに埋まっている。

 時刻は十一時を回っていた。新しい客は男性の三人組で、服装から、技術職のようだった。午前の仕事を終え、早めのランチを挟んで、午後の現場に向かうのだろうか。

 男は席に戻り、またいそいそとパソコンを取り出し、執筆にかかった。

 しかし、今度はそううまく集中できなかった。

 三人組の男性は、四人掛けのテーブルに座っている。そのうちソファ席に座った二人から、男の席は丸見えだった。無論パソコンの画面も見えるだろう。もし彼らがマサイ族なら、書いている内容も見えるかもしれない。

 見られても別に問題はない。そう思いつつも、男は少しだけ、座る位置を内側にずらした。全く気の弱い男である。そして、ここにきて、位置取りの失敗に気づいた。もっと良く吟味するべきだったのだ。最悪でも、背中が壁に面している席を選択するのが望ましかった。

 途端に居心地が悪くなってしまった男だったが、それから三十分ほどは、なんとか執筆を続けた。だが、もう集中力はなかった。普通に話している技術職トリオの話声が、異常に大きく聞こえてしまう。

 ようやくキリの良いところまで漕ぎつけた男は、パソコンを閉じた。今日はこのくらいにしておいてやろう……、というセリフを心の中で呟く。

 パソコンをリュックにしまい、改めてグランドメニューを見る。もう注文できる時間だったので、ついでに昼食も取っていこうと思ったのだ。意外にも集中を与えてくれたガストへの、お礼の気持ちもある。

 豊富なメニューの中から、男は「青じそ和風ハンバーグセット」を選択した。洋食レストランの王道と言えば王道のハンバーグだが、和風にするあたり、ひねくれた男の性格がよく表れている。

 スマホを見ながら、男はハンバーグの到着を待った。ガストの後に、どこに行こうかを検討する。何気なくブックオフのアプリを起動すると、ゴールデンウイークセールの情報が飛び込んできた。本が全品二割引とのこと。これは行かない手はない。

 和風ハンバーグが運ばれてきた。意外とボリュームがある。大根おろしと青じそがたっぷりのったハンバーグは、きのこと茄子、そしてネギが遊泳する琥珀色のソースの中央に鎮座している。立ち昇る湯気が食欲をそそった。

 早速一口食べてみる。予想以上に美味いことに、男は驚愕した。ガストは安い、安いはマズ……いや、あまり期待できない、というイメージを、見事に打ち砕いてくれたのだ。

 何とも気分よく昼食は進んだが、一方で、家にいる両親のことがよぎる。

 二人は、今日の昼は何を食べるのだろう。一人で外食しているのは、少し申し訳ないような気もする。

 だが、それはそれとして、美味しい食事は男のテンションを上げた。しかも、食べ終わって店を後にしても、まだ正午過ぎ。朝から執筆し、美味しいものを食べ、午後の時間もこれからたっぷりある。なんと素晴らしいことだろう。

 男のウキウキ加減は、朝よりも強くなっていた。なんとも気味の悪い光景である。
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