第2話 海辺のあばらや 2

文字数 1,765文字

 道路の向こうに娘がいた。久作はあばらやの前で体を拭いていた。娘は道路を渡り近づいた。
 台風が来る。
 ひどい家だ。住んでいるのか? こんな家に。アロエが狭い歩道をふさいでいる。自転車のタイヤが、壊れた傘が、ゴミが……家の中はゴミの山。
「ここに住んでるの? 台風が来るのよ」
「……」
「超大型台風なのよ。早めに避難しないと」

 娘の父親が道路を横断してきた。久作はあばらやに入ろうとした。
「君に、頼みがあるんだ」
 俺に? 頼み?
 驚いて父親の顔を見た。娘とよく似ていた。見るからに立派な成功者。
「墓を掃除してくれないか? 私はしょっちゅうは来られないんだ」
 父親は話し続けた。
「前妻の、墓なんだ。妻は溺れている子供を助けて死んだ」
 久作の反応を見ながら父親は話し続けた。
「さっきの墓だ。いつもきれいにしてやっててほしい」
 父親は財布から札を出し、渡そうとした。久作は受け取らなかった。
「月命日に花を備えてやってくれないか?」
「……」
「17年経つ。助けた娘は二十歳だ。強く育った。頭の良い子だ。なにをやっても負けていない」
 父親は久作の汚れた手に札を握らせた。強い力だ。
「私が父親代わりだ」
 一瞬ふたりは見つめ合った。
「行こう、(あや)
 父娘は道路を渡っていった。
「早めに避難しなさいよ」


 久作の頭の中にはモヤがかかっていた。話したこともすぐ忘れる。台風がくる。サイレンが鳴っている。学校へ避難するようにと。風があばらやを打ちつけた。その中で久作は別の生き方を想像してみた。

 逃げなかった。いや、1度は逃げたが……放浪して妻のところへ戻った。娘は死んでいた。いや、あれはドラマの中だ。妻と抱き合って泣いた……あれはドラマの中の話か?

 誰かがドアを叩いた。しつこく来る市の職員か? 台風の中で死なれでもしたら非難されると。死んでもいい。死にたいんだ。

「おじさん、避難するのよ」
 初めて声を出した。不明瞭で聞き取れなかっただろうが。
「ノ……」
 背の高い若い男が、有無を言わさず久作を背負った。娘の傘は役にたたない。車に乗せられ娘に手を握られ、久作は避難場所のホテルに連れて行かれた。

 これは、現実なのか? 豪華なホテルの部屋。風呂で若い男に体を洗われた。誰だ? 抵抗しても無駄だった。いやではないのか? こんな汚い男にさわって? 

 素晴らしい食事が目の前にあった。勧められたが、喉を通らなかった。女が来た。若い男の母親らしい。あの、お節介な娘と一緒に来た。母娘なのか? 女は体温計と血圧計を出し、バイタルを測った。2度測ると脈診をした。医者か? 娘が心配そうに見ていた。
「病院には?」
 10年以上行ってない。おかしいのか?
「大丈夫よ。安心して休んでね」

 若い男がしばらくそばにいた。寝具で眠るのは久々だ。
「……はが……おちる」
「なに? 歯が痛いの?」
 歯は数本しか残っていない。もはや痛みも感じない。 
 葉が落ちる。寒い外で必死に耐えていた植物を妻は部屋の中に入れてやった。暖かい部屋に入れると、葉が落ちた。毎日数枚ずつ落ちていった。
 久作は死を悟った。

 翌朝、浴衣のまま外に出た。台風の去った海岸はまだ波が荒かった。風も強かった。日の出前なのにすでに暑かった。久作は幻を見た。娘の顔を見た。消し去りたかった自分の娘……

「母は溺れている子供を助けて死んだ。心臓が悪かったんだ」
 若い男の声がした。いや、父親のほうか? 
 心臓が? ああ、確かそんなことを言われた。不整脈だ。薬を飲まないと脳に……血管が詰まると。
「ノ……」
 倒れる久作を若い男が支えた。
「のぞみは元気だよ。見なかったか? サングラスをしていた娘。強い子だ。父親とは大違いだ」
「ノ……」
「僕の母が助けた。僕の父が育てた。強く強く……誰にも負けない」 

 救急車のサイレンが近づいた。

 久作は入院したのち施設に入れられた。ゴミの山の中に通帳があった。久作は金を貯めていた。10年前までは記帳していた。切れた健康保健証も免許証も持っていた。汚い鞄にひとまとめにしてあった。
 片付けと手続きは彩がした。父親に施設に入れるよう頼んだ。優しい彩は放っておけなかった。何度も通い世話を焼き、(のぞみ)に呆れられた。望は冷ややかだった。
 久作は彩を時々、ノ……と呼ぶ。彩は返事をする。久作は幸せそうだった。





 
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