鎮守の森・Ⅰ
文字数 3,051文字
***
短編です
『蒼と赤』の一年後
『続・あなざぁ すとぉりぃ』の十一年前
***
風の末裔の長はそんなに暇を持て余している訳ではない。
こう見えても結構忙しいのだ。
ここ数ヵ月所用が重なり、あの人間に預けていた赤子の様子すら見に行けていない。
そんな時に今度は妹が、危急の手紙を寄越して来た。
まったく…………
馬を駆って草原を抜け、王都を眼下に飛び越える。また人口が増えたようだ。あの獅子王の勢力は広がっているのだろう。
まだ子供だった妹が、一人の人間の少年の元へ行ってしまったのは、幾星霜の昔だったか。
少年はたちまち草原の部族を平定し、気が付くと大陸を塗り潰すように覇権を広げていた。
遠征ばかりしているので、妹にぜんぜん会う機会が無かったのだが、先日久し振りに接触を持って来た。
すっかり成長した姿に沁々(しみじみ)したのも束の間、心臓が止まるような報告をされた。
ヒュッと喉が鳴り意識が遠くなったが、はにかみながら腹を撫でる妹の前で、気合いで踏ん張って平静を保った。
そも、蒼の妖精は、滅多な事では人間に近寄らない。
術を使えて寿命も長く何百年も先を見据えて生きる妖精と、出来る事が少なくて寿命も短く目の前の事に全力で取り組まねばならない人間は、生きる基準が違う。関わってもろくな事にならない。
数の多い人間が地上の基盤を築いている事は確かで、人間界が荒れると人外界にも悪影響が出る。
だから代々の蒼の長は人間のトップと親交を持ち、最小限の関わりを細く保っていた。極端に悪い方向へ行くのを防ぐ為だ。
しかし当代の長……自分が引き継いだ時、戦乱の真っ只中で、人間側の『後継者』の行方を見失ってしまった。
やっと見付けた獅子髪の少年は、過酷な運命を生き抜き過ぎて、素直に長の手を取らなかった。
欲望の赤い魔性と契約して、人間界の制覇に踏み出してしまったのだ。
その時、貴重な長の血を分けた妹が、妖精の立場を捨てて少年の元へ行ってしまった。
『人間の男などに懸想(けそう)して』などと詰(なじ)る声もあったが、長は彼女の気持ちを尊重した。
自分で納得しているとはいえ長の責務から逃れられない身からして、あの子にだけは自由に生きて欲しいという願望が働いたのかもしれない。
そうして、何年も何年もしてから、彼女の行動の本当の意味に気付いた。
魔性と契約した人間と蒼の妖精は、交流を持てない。
だが『里を出奔して何者でもない身』ならば関係ない。
彼女は、兄の力届かぬ場所へ身を投じ、人間との繋がりが切れるのを防ぐ為に行ったのだ。
多分、彼女に聞いたら、『え? そんなの考えていなかったよ』と、キョトンとするだろう。
妹は、蒼の長としての資質は何一つ継承していなかった。
故に里でもまったく期待されていなかったのだが。
(実は継承していたのだなぁ、一番大切な事を……)
それに気付いてから長は、なるべく彼女に口出しはせず、見守る事にしていた。
だけれど、今回の件は…………
王都の外、西の外れに、丸くこんもりとした森がある。
王が近隣住民の立ち入りを禁じている『鎮守の森』。
道なき森の中心に少しの広場があり、木陰に小さなパォが建つ。
長は樹々をかすめながらその前に下り立った。
広場では妹の馬が遊んでいる。
入り口に座り込んでいた獅子髪の男性が、長を見て立ち上がった。
「やぁ……」
「久し振りですね、王君。あの子は?」
長はそっけなく言った。
「中だけれど、今入ったら怒られるよ」
「私は兄ですよ」
「小狼(シャオラ)じゃない、あの婆さんが怒るの! 俺だって思いきり蹴り出されたんだ」
「ああ、オタネお婆さんならそうでしょうね」
「トンでもない産婆さん寄越したな。俺、怒鳴られっ放しだったぞ。その癖、人を顎でコキ使うんだ!」
大切な一族の娘をかどわかし、あまつさえ身籠らせるなんて、オタネお婆さんにしたら怒りは果てしなかったろう。
ふてくされる王を見て、長はホンのちょっとだけ気の毒に思った。
「仕方がないでしょう。人間に妖精のお産は扱えませんから。まったく、私が気を回さねば、あの子をどうするつもりだったのですか」
「俺が取り上げるさ」
「・・!」
長は険しい顔で王を見た。そんな子供じみた意地で妹を危険に晒されては堪らない。
「あ、バカにしてる。俺の末の弟は俺が取り上げたんだぞ!」
「……」
そうだった。この王は泥水をすする少年時代を送ったのだった。
「あの子がそれで良かったのなら、貴方に文句は言いません。でも私にとっても大切な妹だという事を忘れないで下さい」
「……ああ、悪かったよ」
王は素直に謝った。
一族に頼りたくないのは妹の希望だったのだろう。
だがそれでも彼女の身を一番に案じて欲しい物だと、長は不満を拭えなかった。
パォの入り口が細く開いて、小さな老婆が出て来た。
わら半紙を丸めたような顔を更にクシャリと歪ませて、いきなり長の両手を掴む。
「おお、長様、長様……」
「オタネさん、ご苦労様でした。出奔した妹の為に労して頂いた事を感謝します。しかし今朝がたの鷹の手紙、緊急を要する事とは……何があったのです?」
「申し訳ありません、申し訳ありません、私(わたくし)が付いていながら……」
老婆の両目から涙がぶわっと溢れ、長は空より青くなった。
「あ、あ、あの子に何か!?」
「心配しなくていいよ。その婆さんずっとその調子なんだ。大袈裟なんだから」
王が呑気な声で言って、どさくさに紛れてパォの入り口に近付いた。
「黙れ小悪童(わっぱ)! お嬢の取り成しが無ければ貴様などイタチに変えてくれた物を!」
「トンビの方がいいな、飛べるし」
王が婆さんの振り回す杖を避けて逃げ回っている間に、長はパォを伺った。
「兄様? 兄様、いらしているの?」
元気そうな声。長はとりあえず胸を撫で下ろした。
「入ってもいいですか」
薄いカンテラの灯りの中、妹は寝床に身体を起こして兄を出迎えた。
懐妊の報告を受けて以来数ヵ月振りだが、頬はふっくらして顔色も良い。
腕の中に真っ白な産着のかたまり。小さな指が贅沢な絹の間から覗いている。
「ありがとうございます、オタネお婆さんを寄越してくれて。久し振りに怒鳴られて、懐かしかったわ」
「加減はどうですか?」
「大丈夫よ、私もこの子も。そう、男の子だったの。とても元気で」
妹に抱かれた生まれたての命が可愛い声を上げ、長の複雑な思いは怒涛の如く流れ去った。
「抱かせて下さい、この子に祝福を」
妹が差し出した赤子を長が慎重に受け取った時、入り口に王が現れた。
杖の先を掴んで高々と掲げ、ジタバタするオタネ婆さんごとぶら下げている。
「落っことすんじゃないぞ!」
まさか、王のような粗忽者じゃあるまいし、と赤子を抱き直して顔を覗いて…………!!?
電気に打たれたみたいに身体中が震えた。
取り落としそうになるのを慌てて受け止める。危な……
見ると、妹は予測していたように、下に手を伸ばして構えている。
「心配すんなって。俺も一番始め、落っことしそうになった」
王がオタネ婆さんを引きずったまま、長の横へ来て赤子を覗き込んだ。
「心配するなって、心配するなって……心配じゃないのですかぁああっっ!!」
速攻妹の手に赤子を返し、長は王の胸ぐらを掴んだ。
母は困った顔で赤子の耳を塞ぐ。
赤子の髪は生まれたてなのにフサフサで、血のように真っ赤。
既にパッチリ開いている瞳は銀にランランと光り、瞳孔は動物のように縦に割れていた。
短編です
『蒼と赤』の一年後
『続・あなざぁ すとぉりぃ』の十一年前
***
風の末裔の長はそんなに暇を持て余している訳ではない。
こう見えても結構忙しいのだ。
ここ数ヵ月所用が重なり、あの人間に預けていた赤子の様子すら見に行けていない。
そんな時に今度は妹が、危急の手紙を寄越して来た。
まったく…………
馬を駆って草原を抜け、王都を眼下に飛び越える。また人口が増えたようだ。あの獅子王の勢力は広がっているのだろう。
まだ子供だった妹が、一人の人間の少年の元へ行ってしまったのは、幾星霜の昔だったか。
少年はたちまち草原の部族を平定し、気が付くと大陸を塗り潰すように覇権を広げていた。
遠征ばかりしているので、妹にぜんぜん会う機会が無かったのだが、先日久し振りに接触を持って来た。
すっかり成長した姿に沁々(しみじみ)したのも束の間、心臓が止まるような報告をされた。
ヒュッと喉が鳴り意識が遠くなったが、はにかみながら腹を撫でる妹の前で、気合いで踏ん張って平静を保った。
そも、蒼の妖精は、滅多な事では人間に近寄らない。
術を使えて寿命も長く何百年も先を見据えて生きる妖精と、出来る事が少なくて寿命も短く目の前の事に全力で取り組まねばならない人間は、生きる基準が違う。関わってもろくな事にならない。
数の多い人間が地上の基盤を築いている事は確かで、人間界が荒れると人外界にも悪影響が出る。
だから代々の蒼の長は人間のトップと親交を持ち、最小限の関わりを細く保っていた。極端に悪い方向へ行くのを防ぐ為だ。
しかし当代の長……自分が引き継いだ時、戦乱の真っ只中で、人間側の『後継者』の行方を見失ってしまった。
やっと見付けた獅子髪の少年は、過酷な運命を生き抜き過ぎて、素直に長の手を取らなかった。
欲望の赤い魔性と契約して、人間界の制覇に踏み出してしまったのだ。
その時、貴重な長の血を分けた妹が、妖精の立場を捨てて少年の元へ行ってしまった。
『人間の男などに懸想(けそう)して』などと詰(なじ)る声もあったが、長は彼女の気持ちを尊重した。
自分で納得しているとはいえ長の責務から逃れられない身からして、あの子にだけは自由に生きて欲しいという願望が働いたのかもしれない。
そうして、何年も何年もしてから、彼女の行動の本当の意味に気付いた。
魔性と契約した人間と蒼の妖精は、交流を持てない。
だが『里を出奔して何者でもない身』ならば関係ない。
彼女は、兄の力届かぬ場所へ身を投じ、人間との繋がりが切れるのを防ぐ為に行ったのだ。
多分、彼女に聞いたら、『え? そんなの考えていなかったよ』と、キョトンとするだろう。
妹は、蒼の長としての資質は何一つ継承していなかった。
故に里でもまったく期待されていなかったのだが。
(実は継承していたのだなぁ、一番大切な事を……)
それに気付いてから長は、なるべく彼女に口出しはせず、見守る事にしていた。
だけれど、今回の件は…………
王都の外、西の外れに、丸くこんもりとした森がある。
王が近隣住民の立ち入りを禁じている『鎮守の森』。
道なき森の中心に少しの広場があり、木陰に小さなパォが建つ。
長は樹々をかすめながらその前に下り立った。
広場では妹の馬が遊んでいる。
入り口に座り込んでいた獅子髪の男性が、長を見て立ち上がった。
「やぁ……」
「久し振りですね、王君。あの子は?」
長はそっけなく言った。
「中だけれど、今入ったら怒られるよ」
「私は兄ですよ」
「小狼(シャオラ)じゃない、あの婆さんが怒るの! 俺だって思いきり蹴り出されたんだ」
「ああ、オタネお婆さんならそうでしょうね」
「トンでもない産婆さん寄越したな。俺、怒鳴られっ放しだったぞ。その癖、人を顎でコキ使うんだ!」
大切な一族の娘をかどわかし、あまつさえ身籠らせるなんて、オタネお婆さんにしたら怒りは果てしなかったろう。
ふてくされる王を見て、長はホンのちょっとだけ気の毒に思った。
「仕方がないでしょう。人間に妖精のお産は扱えませんから。まったく、私が気を回さねば、あの子をどうするつもりだったのですか」
「俺が取り上げるさ」
「・・!」
長は険しい顔で王を見た。そんな子供じみた意地で妹を危険に晒されては堪らない。
「あ、バカにしてる。俺の末の弟は俺が取り上げたんだぞ!」
「……」
そうだった。この王は泥水をすする少年時代を送ったのだった。
「あの子がそれで良かったのなら、貴方に文句は言いません。でも私にとっても大切な妹だという事を忘れないで下さい」
「……ああ、悪かったよ」
王は素直に謝った。
一族に頼りたくないのは妹の希望だったのだろう。
だがそれでも彼女の身を一番に案じて欲しい物だと、長は不満を拭えなかった。
パォの入り口が細く開いて、小さな老婆が出て来た。
わら半紙を丸めたような顔を更にクシャリと歪ませて、いきなり長の両手を掴む。
「おお、長様、長様……」
「オタネさん、ご苦労様でした。出奔した妹の為に労して頂いた事を感謝します。しかし今朝がたの鷹の手紙、緊急を要する事とは……何があったのです?」
「申し訳ありません、申し訳ありません、私(わたくし)が付いていながら……」
老婆の両目から涙がぶわっと溢れ、長は空より青くなった。
「あ、あ、あの子に何か!?」
「心配しなくていいよ。その婆さんずっとその調子なんだ。大袈裟なんだから」
王が呑気な声で言って、どさくさに紛れてパォの入り口に近付いた。
「黙れ小悪童(わっぱ)! お嬢の取り成しが無ければ貴様などイタチに変えてくれた物を!」
「トンビの方がいいな、飛べるし」
王が婆さんの振り回す杖を避けて逃げ回っている間に、長はパォを伺った。
「兄様? 兄様、いらしているの?」
元気そうな声。長はとりあえず胸を撫で下ろした。
「入ってもいいですか」
薄いカンテラの灯りの中、妹は寝床に身体を起こして兄を出迎えた。
懐妊の報告を受けて以来数ヵ月振りだが、頬はふっくらして顔色も良い。
腕の中に真っ白な産着のかたまり。小さな指が贅沢な絹の間から覗いている。
「ありがとうございます、オタネお婆さんを寄越してくれて。久し振りに怒鳴られて、懐かしかったわ」
「加減はどうですか?」
「大丈夫よ、私もこの子も。そう、男の子だったの。とても元気で」
妹に抱かれた生まれたての命が可愛い声を上げ、長の複雑な思いは怒涛の如く流れ去った。
「抱かせて下さい、この子に祝福を」
妹が差し出した赤子を長が慎重に受け取った時、入り口に王が現れた。
杖の先を掴んで高々と掲げ、ジタバタするオタネ婆さんごとぶら下げている。
「落っことすんじゃないぞ!」
まさか、王のような粗忽者じゃあるまいし、と赤子を抱き直して顔を覗いて…………!!?
電気に打たれたみたいに身体中が震えた。
取り落としそうになるのを慌てて受け止める。危な……
見ると、妹は予測していたように、下に手を伸ばして構えている。
「心配すんなって。俺も一番始め、落っことしそうになった」
王がオタネ婆さんを引きずったまま、長の横へ来て赤子を覗き込んだ。
「心配するなって、心配するなって……心配じゃないのですかぁああっっ!!」
速攻妹の手に赤子を返し、長は王の胸ぐらを掴んだ。
母は困った顔で赤子の耳を塞ぐ。
赤子の髪は生まれたてなのにフサフサで、血のように真っ赤。
既にパッチリ開いている瞳は銀にランランと光り、瞳孔は動物のように縦に割れていた。
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