第5話

文字数 2,425文字

 ルミ先生に引き出された私の右足は一日で元に戻ったけれど、体は意外と少しの事で変わる、と私は改めて思った。
 頭が過ぎ去った事に囚われる事はあっても、変わりやすい体は過去に留まりにくく、いつも現在形みたいだった。
 社交ダンス初級レッスンを受けるおばさまたちも、体の変化をおもしろがった。
 首が回るようになったとか、肩やひざが上がるようになったとか、中には六十代後半の人で、立位体前屈のカッコで床に手がつくようになった、といい、それをうれしそうフロアで披露する。
 私は、社交ダンス初級レッスンの宣伝広告を作った。
 人気のあるレッスンにわざわざ宣伝の必要はなさそうだったけれど、体を動かすおばさまたちや、自分の体が変わった実体験をカタチにしてみたくなったのである。
 ダンス情報誌『ドリームホール』に一頁の広告を作りたい、と、私は手書きのラフを作って門田さんにかけあった。「床に手がつくようになった」というフレーズを大きく書いた私のラフは社交ダンスよりルミ先生のウォームアップを大きく取り上げて、門田さんは少し首を傾げたけれど、私が食い下がるとOKしてくれた。
 私は笠野にレッスン風景の写真を頼んだ。
 交通費しか出せない、と、私は彼に話した。門田さんの趣味で作っている『ドリームホール』にまともな製作費などなく、カメラマンにギャラなど到底払えなかった。プロのカメラマンとして活動する笠野に無償の仕事を頼むのは申し訳なかったが、彼にはちょうど別な案件があった。
 金曜日のドリームホールは社交ダンス初級レッスンの後、あるダンスサークルの定例パーティがあった。そのサークルに松岡さんという五十代の女性がいて、彼女は普段、夙川で輸入雑貨店をしており、お店のホームページ用の店内写真を撮るカメラマンを探していた。
 私が松岡さんに笠野の事を話すと、松岡さんは一度笠野に会ってみたい、といった。その事を笠野に伝えたら、彼も松岡さんに会ってみるという。
 金曜の午後ならドリームホールで松岡さんと笠野の顔合わせができる。笠野には、その朝に来てもらい、松岡さんと会うついでに初級レッスンを撮影する段取りを提案した。
 私はそれとなく話したつもりだったが、笠野に私の魂胆はすっかりバレていた。松岡さんをダシにしたみたいで申し訳なかったけど背に腹は代えられず、どさくさまぎれに写真を撮らせようという思惑は笠野もわかっていたが、それでも彼は撮影引き受けてくれた。
 笠野をドリームホールに連れてきた日、若い男性カメラマンの登場におばさまたちのテンションは上がった。「あら、イケメンやないの」と、タンゴに凝っている辻さんは「昨日コラーゲン飲んだらよかったわ」といって、みんなを笑わせる。
 私がおばさまたちに撮影の主旨を説明し、プライバシーに配慮して顔は個人を特定できない程度に撮影します、というと、滝沢さんが「私、横顔くらい写りたいわよ」といった。
「なんなら脱ぎましょうか」
 と、藤井さんは笠野をからかう。藤井さんは夫婦で社交ダンスをして、ラテンの級を取る目標を持っていた。
「今日ちゃんのカレ誘惑したらあかんで」
 と、滝沢さんが突っ込み、
「旦那で辛抱しとくわ」
 と、藤井さんが返した。
 ドリームホールはどっと沸いた。
 大阪のおばちゃんパワーに圧倒された私は、「笠野は友だちです」といい、ルミ先生にウォームアップをはじめてもらった。
 笠野は壁伝いに移動しながらレッスンの風景をカメラにおさめた。その様子を門田さんは窓際で退屈そうに眺めていた。
 ルミ先生はいつものようにフロアを歩き、呼吸の合図をしながら、リモコンを持った手で頬を掻いたり、髪をいじったりする。彼女の手が、彼女の顔を遮るので笠野は顔を見せて欲しいと声をかけた。
 するとルミ先生はカメラに向かってピースサインをしてニッコリ笑う。記念写真みたいにカメラにおさまるとレッスン風景の画にならない。笠野も困ったように苦く笑うので、「普通に、いつものレッスンでいいですよ」と私はいった。
 撮影が終わった後、私はルミ先生にいった。
「ルミ先生、意外と、恥ずかしがり屋なんですか?」
「なんか、ちょっとね」
 ルミ先生はジャズスニーカーを脱いでダンスシューズに履き替える。「辻さんじゃないけどさ、私も昨日、美容院行って来たらよかった」
 ルミ先生は私に頭を向けた。金髪の彼女の頭は髪の延びた部分の根本が少し黒くなっていた。
「それくらい気にする事ないのに。ルミ先生、写真は白黒ですし」
 と、私はいった。
 ああ、そうやった、と、ルミ先生は笑った。
 ルミ先生は体の肌も白く、襟の広く空いた黒のレッスン用ユニフォームを着て首から胸元にかけてきれいな肌を見せていた。鎖骨のあたりに爪のひっかき傷のような小さな赤い筋があった。
 カメラマンにタダで撮らせる広告にデザインを発注する予算などなく、私はパソコンにフリーのデザインソフトをダウンロードして、自分でデザインをした。素人なりに作ったが、笠野が撮った写真と、自分で書いたコピーとリードを並べたらなんとか体裁は整った。
 私の作った社交ダンス初級レッスンの広告が『ドリームホール』の誌面になると、門田さんもルミ先生も喜んだ。おばさまたちにも好評だった。驚いた事にその頁を手にした体験レッスン希望者がドリームホールに訪れた。うれしかった。
 この事をきっかけに私はもういっぺん雑誌の仕事をやろうと思った。
 転職サイトで編集の仕事を探して編集プロダクションの求人に応募した。
 書類選考に通り、面接時に自己PR書類として社交ダンス初級レッスンの広告を載せた『ドリームホール』を持参した。それで採用されて、今現在、私はそこに勤めているのである。

 斎場に、ドリームホールの人たちがいた。
 背の高い滝沢さんがいた。タンゴが得意な辻さんがいた。藤井さんは旦那さんと一緒に来ていた。みんなと目が合うたび私は黙って頭を下げた。

(つづく)
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