第4話 虹と葡萄
文字数 1,501文字
「本当にミステリアスだよな、お前の同居人、いい加減挨拶くらいさせてくれよ」
「それは無理だよ」
電話先で中間の声が聞こえ、応対した。同じアパートの住人として、扉越しに話をしたことはあるものの、ほとんど実体を掴めない私の同居人を不思議に感じているようだった。
「家出気味なの、その同居人」
思えば、私の悩みに彼はいつも耳を貸してくれた。お互いに程良く距離を保ちながら、関係を築いている。
「また仲直りできるよ、お互いが一緒にいたいと思えば」
「でも、相手がなにを考えているのかも、どこへ行ってるのかも、私にはさっぱり分からないの」
実際、千影の人間性や生い立ちについて、私が理解していることは少ない。連日の外出についても、もしかすると、誰か気になる人間の様子を見に行っているのかもしれない。
同居人の私にとっても、彼女はまたミステリアスな存在だった。
「聞けばいいだろ、別に」
「私がそこに踏み込むことによって、関係が一変するかもしれないでしょ、だから怖いの」
「相手の心に踏み込む勇気がないのか?」
彼は言って、更に続けた。
「いい言葉がある、『勇気は筋肉と同じで使うことによって鍛えられる』」
私が外出先から帰宅すると、なぜか、千影は玄関で待っていた。正確には土間と一体化していた。気まずくなって視線を上げる。靴箱の上に五円玉を編んで作った飾り物がある。
コミュニケーションで大切なのは相手の気持ちになることだ。私は彼女の立場になって考えてみた。
「私に踏まれたかったんだ? 早く言ってくれたらよかったのに」
「そんなわけないでしょう」
刺々しい口調で言って、すぐに彼女は壁に移動した。とは言え、返事があるだけよかった。私は電気を付け、部屋に明かりをもたらした。明かりがないと、自分の存在が本当に消えたように感じると語る彼女は、だから暗所が嫌いだった。
そういう時、私は彼女になにもすることができなかった。手を握ることも、抱擁することも。触れることさえ叶わない。
「仲直りしましょう」上着を脱ぎながら、私は言う。
「別に喧嘩じゃない」
そう漏らすようにしてから、彼女は悲しそうに言った。
「対等じゃないと、喧嘩もできないから」
それが彼女の心の引っ掛かりか、と哀れにも、私はようやく気が付いた。
「私は、あなたに傘を届けることもできない」
先日の、雨降りの日のことを思い出す。
おそらく彼女は私のために外に出ていたのだろう。傘を届けようとして。だけど、そんな当たり前のことができないことに、彼女は改めて気が付いた。
そして、自分達が対等な同居人でないのではないか、と思うようになった。
「それにね、この前、私のことを近所の人が噂している声が聞こえたの、得体が知れなくて気味が悪いって」
私は、それを、黙って聞いていた。
「私がいると、あなたに迷惑なんじゃないかって、私はあなたと一緒にいたいのに」
ようやくデレた、と私は密かに思う。だけど、それより先に彼女に掛けるべき言葉があった。それもたくさん——。
「迷惑なんかじゃないよ」
千影の目から涙が零れる。
確か、路地裏で彼女を見つけた時、丁度、雨が晴れて、空には虹が出ていた。だからじゃないけど、思うことがある。
「『虹と葡萄』っていう話があるでしょう」
「宮沢賢治の?」
「葡萄は物理的に人の力になる、でも虹は人に直接影響を与えないけど、その心に温かみや希望をもたらす」
「私もあなたの力になれてるってこと?」
涙ぐんだ声に、私は力強く返事をした。「うん」
木漏れ日が差す。隣合った彼女の肩が触れたような気がした。気のせいだろう。だけど、この胸の温かみは、確かに彼女から伝わったものだった。
「それは無理だよ」
電話先で中間の声が聞こえ、応対した。同じアパートの住人として、扉越しに話をしたことはあるものの、ほとんど実体を掴めない私の同居人を不思議に感じているようだった。
「家出気味なの、その同居人」
思えば、私の悩みに彼はいつも耳を貸してくれた。お互いに程良く距離を保ちながら、関係を築いている。
「また仲直りできるよ、お互いが一緒にいたいと思えば」
「でも、相手がなにを考えているのかも、どこへ行ってるのかも、私にはさっぱり分からないの」
実際、千影の人間性や生い立ちについて、私が理解していることは少ない。連日の外出についても、もしかすると、誰か気になる人間の様子を見に行っているのかもしれない。
同居人の私にとっても、彼女はまたミステリアスな存在だった。
「聞けばいいだろ、別に」
「私がそこに踏み込むことによって、関係が一変するかもしれないでしょ、だから怖いの」
「相手の心に踏み込む勇気がないのか?」
彼は言って、更に続けた。
「いい言葉がある、『勇気は筋肉と同じで使うことによって鍛えられる』」
私が外出先から帰宅すると、なぜか、千影は玄関で待っていた。正確には土間と一体化していた。気まずくなって視線を上げる。靴箱の上に五円玉を編んで作った飾り物がある。
コミュニケーションで大切なのは相手の気持ちになることだ。私は彼女の立場になって考えてみた。
「私に踏まれたかったんだ? 早く言ってくれたらよかったのに」
「そんなわけないでしょう」
刺々しい口調で言って、すぐに彼女は壁に移動した。とは言え、返事があるだけよかった。私は電気を付け、部屋に明かりをもたらした。明かりがないと、自分の存在が本当に消えたように感じると語る彼女は、だから暗所が嫌いだった。
そういう時、私は彼女になにもすることができなかった。手を握ることも、抱擁することも。触れることさえ叶わない。
「仲直りしましょう」上着を脱ぎながら、私は言う。
「別に喧嘩じゃない」
そう漏らすようにしてから、彼女は悲しそうに言った。
「対等じゃないと、喧嘩もできないから」
それが彼女の心の引っ掛かりか、と哀れにも、私はようやく気が付いた。
「私は、あなたに傘を届けることもできない」
先日の、雨降りの日のことを思い出す。
おそらく彼女は私のために外に出ていたのだろう。傘を届けようとして。だけど、そんな当たり前のことができないことに、彼女は改めて気が付いた。
そして、自分達が対等な同居人でないのではないか、と思うようになった。
「それにね、この前、私のことを近所の人が噂している声が聞こえたの、得体が知れなくて気味が悪いって」
私は、それを、黙って聞いていた。
「私がいると、あなたに迷惑なんじゃないかって、私はあなたと一緒にいたいのに」
ようやくデレた、と私は密かに思う。だけど、それより先に彼女に掛けるべき言葉があった。それもたくさん——。
「迷惑なんかじゃないよ」
千影の目から涙が零れる。
確か、路地裏で彼女を見つけた時、丁度、雨が晴れて、空には虹が出ていた。だからじゃないけど、思うことがある。
「『虹と葡萄』っていう話があるでしょう」
「宮沢賢治の?」
「葡萄は物理的に人の力になる、でも虹は人に直接影響を与えないけど、その心に温かみや希望をもたらす」
「私もあなたの力になれてるってこと?」
涙ぐんだ声に、私は力強く返事をした。「うん」
木漏れ日が差す。隣合った彼女の肩が触れたような気がした。気のせいだろう。だけど、この胸の温かみは、確かに彼女から伝わったものだった。