目覚まし時計の証明③

文字数 4,059文字


   ☆★☆★☆

「……」
「……」
「……」
「……はあ、やっぱ難しいな。ていうか、何書いたらいいかわかんねえよ」
「……」
「君はどう? ……って、君もほとんど進んでないじゃんか」
「うん」
「どうしような。哲学。哲学ねえ……」
「……木があるとするわね?」
「へ?」
「木があるとするの」
「いや、突然、何?」
「哲学の、有名な話なんだけど」
「へえ。何か思いついたの?」
「誰もいない、何もないところに、木が立ってるの」
「はあ」
「それで、その木には一つだけ林檎の実がなってるのね」
「林檎」
「林檎」
「椎名」
「林檎」
「ふむ」
「それで、その実がぽとりと落ちるの。林檎は地面に当たるよね」
「うん」
「そのとき、音がするでしょ?」
「……はあ」
「その音は、存在したと言えるかしら」
「……は?」
「そういう話があるの」
「へえ……。いや、存在してるだろ、って。わけわかんねぇ話だね」
「存在してると思う?」
「は?」
「本当に存在してるのかしら」
「……いや、だってさ、地面に落ちたわけだろ? 林檎が。そしたら音が鳴るだろ。地面がよっぽど柔らかかったら別だけどさ」
「ええ。でも、それで音が存在すると言っていいのかしら」
「何言ってんのさ、わけわかんねぇなぁ。だって、音が鳴ったんだから音が存在すんだろ? 空気の振動? そんなもんが発生するわけだからさ」
「でも、誰もいないのよ」
「……へ?」
「誰も、その音を聞いてないの」
「はあ」
「そしたらその音が存在すると、言っていいのかしら」
「いや、ちょっと待ってよ、なんなのさ。聞いてなければ存在しないとでも言うワケ?」
「違う?」
「いや、あのさ、何? なんなのさ、わけわかんねぇよ」
「真実とか事実って、なんだと思う?」
「……は?」
「真実と事実」
「いや、急にそこまで飛躍されても困っちゃうんだけど」
「このストーブがここにあるのは、真実よね? 私達の神経が正常で、幻覚とかじゃなければ」
「はあ」
「私とあなたが話しているのも、真実よね。あなたが私の作り出した妄想じゃなければ」
「君の作り出した妄想だったら、オレって君の理想のタイプってことなのかな」
「……それはいいとして。ともかく、とりあえず五感で感じたものは真実だと認めることにしましょうか」
「はあ」
「何かの存在を認知するくらい、まあ、真実といっていいくらい確度の高い情報って、これだけだと思うの。つまり、自分の五感で確認した情報。これなら、まあ自分が狂っているんじゃない限り、信じられるわね」
「うーん……」
「他人から聞いた情報っていうのは、もう少し確度が落ちるわ。たとえば、そうね、あなた、浮気してる?」
「いきなりななんだよ。してないよ」
「今のどもりが怪しい」
「してないったら。するわけないだろ? こんな綺麗な――ちょっと時々ついてけなくなるけど――彼女がいんのにさ」
「今の情報も、私が浮気をしていない、という真実に比べたら確度が低いわ。ていうかもう、格段に」
「ひでぇ。ホントしてないってば。ていうか、ずるいよ、君だって浮気してないとはわかんないじゃんか」
「実はしてるの」
「……」
「冗談よ」
「……いじめっこめ」
「まあ、あなたの言う通りよ。私が浮気をしてないかどうかは、あなたにはわからないわ。私から聞いただけの、確度の低い情報だものね」
「……」
「よく推理小説とかであるじゃない? 間違いなくこの中に犯人がいる、ってことになって、『一体誰なのよ! 白状しなさいよ! 私はやってないんだから、あなた達のうちの誰かってことよ!』とか言う人」
「いるね」
「その人は、自分がやってないという真実を知っているのね。でも、他の人がそれを聞いて、なるほどそうだ、なんて納得していたら、犯人は誰もいなくなっちゃう。つまり自分が犯人でないという真実は自分だけのもので、他の人には通用しない」
「……」
「でも、自分が五感で得たこと以外を信用しなかったら、私たちは生きていけない。私はアメリカへ行ったことがないけど、アメリカって本当に実在するのかしら、とかいちいち考えていたら、多分今ごろ発狂してるわ」
「……」
「だからそこは、アメリカはあるんだっていう、他人の情報に頼るわけ。ただその情報は私にとって絶対的なものではなくて、ただ認めた方が都合がいいから事実としてるだけで、確証ってないわけよ。例えばね、旧石器捏造の人知ってる? 自分で埋めて自分で掘り起こして大発見、とかやってた人」
「ああ、例のゴッドハンド? 自作自演の奴だろ?」
「そう。彼のした事が暴かれなかったら、日本の歴史は違った解釈をされて、それが事実として認識されていたわけよね」
「……同じように、アメリカが実はドイツだった、とでもいうの?」
「まあ、似たようなことよ。一人じゃなくて、たくさんの人が証言してるから、可能性はずーっと低くなって、ほとんどゼロに近いけど」
「……」
「昔の人は、天動説を信じてたじゃない? それも今では覆ってる。結構、事実って不安定なのよ。そんな地動説だって、否定される日がくるかもしれない」
「でも、天動説と違って、観測されてるだろ。根拠があるんだからさ」
「そのへんはあまり問題じゃないと思うわ。ゴッドハンドの件だって、物証という根拠が否定されたわけだし。昔の天動説の根拠は、もっと根本的なものよ。教会の教え、ね。当時の人々にとって、それは絶対的な根拠だったはず。それを、昔の人は馬鹿だった、なんて笑っても、いつか私達が笑われる日がくるかもしれない。科学という根拠が崩れ去る日が、無いとは限らないわ」
「科学が崩れる? ……待ってよ。そりゃ、科学で証明できないことはたくさんありますよ。つうか、今の科学ではね。未来はどうか、しんないよ。でも、既に証明されたことが崩れたりはしないだろ?」
「宗教も、信じる人にとっては同じことだわ。全世界レベルで洗脳されてしまえば、宗教の教えが科学よりも絶対なものになるもの」
「でも、宗教は理論的じゃない」
「理論は問題にならないの。世界すべての人々が、地球は宇宙の中心だ、って言ってみなさいよ。いくら観測で結果を出して否定しても、ああ、面白いストーリーだね、って言われるだけだから。地球は宇宙の中心であり続けるわ」
「……でも、事実は違うじゃない」
「どうやって証明するの? 科学という証明の道具そのものが否定されたら、証明できないわ」
「うーん……」
「価値観の問題よ。一足す一が二だということと、神様はいる、っていうことの、どちらに絶対的な確信を持っているか、ってこと」
「なんだか納得いかん」
「それは現代人が科学に絶対的な価値を置いてるからよね。古代人は同じように宗教に絶対的な価値を置いていたかもしれない。事実も単なる時代の流れ。唯一無二の絶対、なんて存在しないと思うの」
「でもなぁ……」
「それに、あなたも前に言ってたじゃない? 誰か凄い数学者が、『数学の証明が正しいということは証明できない』ということを証明しちゃったって」
「ああ……誰だったっけ」
「忘れたけどね。だから、世界中の数学者は、いつ矛盾が生じるか怯えながら研究しなければならない、とか言ってたじゃない?」
「いや、言ったけどさ……」
「つまり、根本的なところに、ただ信じるしかない、というものがあるわけよ。数学の崩壊はそのまま科学の崩壊を意味するし、科学の崩壊は真実の崩壊を意味する。何もかもが、引っ繰り返る可能性を秘めているの」
「なんかヤだなあ」
「アメリカが存在しているかどうかってことも、同じことなの。絶対的なものじゃなくて、ただ、その情報を真実と認識している人の数があまりに多いから、自分も真実と認めても良い、っていうだけだわ。準真実ね」
「準真実……」
「自分が五感で得たものが真実で、他人から得たものが準真実。で、私たちの事実っていうのは、そういう、真実の寄せ集めにすぎないと思うのね。いろんな人々の持ってる真実の中で、重なり合いの多い部分が事実、っていうか」
「重なり合いの部分……」
「つまり事実って、真実の多数決に過ぎないのよ。事実も、そういう相対的なものなのよ。私が殺人の罪で指名手配されても、私が無実だということは私の中だけの真実であって、世界の人達がそれを真実だと認めなければ、私が人を殺したってことが事実にされてしまうのよ。証拠が事実を示すというより、証拠がいろんな人に真実を与えるの。それで、私がいくらやってないって言っても、嘘か、あるいは精神分裂でも起こしてるか、ってことになっちゃう。私の真実は、精神分裂という名のもとに排除されてしまうわけ。民主主義的ね」
「そうかなあ」
「それで話は林檎の木に戻るんだけど、真実も事実もそういう相対的なものだったら、誰も聞いていない林檎の音は、存在すらしていない、ということにならないかしら。誰の真実にもなりえないんだから、それは事実にならないわ。つまり、音は存在しない、ということになるわけ」
「……なんか、さっき君が言ってたことがわかった気がする」
「なに?」
「わかったようなわからないようなことを言って、最後をきちんと締めれば、それっぽい感じを味わえる、とか」
「でしょ?」
「まあ」
「それで、ここからが本題なんだけど」
「え、これが本題じゃなかったの?」
「違うの」
「……なにさ?」
「目覚まし時計が鳴ったと仮定するとね、音が出ているはずよね?」
「な……」
「でも、私は寝ていたわけだから、その音を聞いてないの。誰もその音を聞いてないの」
「……」
「そうすると、その音は存在しないわけ。音が存在しないってことは、そもそも目覚ましは鳴ってなかった、ってことになるの。鳴ったと仮定したのは間違いだった」
「……」
「だから、目覚まし時計は鳴ってなかったの」
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