第1話

文字数 1,789文字

佛跳牆
Saven Satow
May, 26, 2023

「迷ったら 渡るな走るな 次を待て」。
全日本交通安全協会『平成11年度交通安全標語』

 世界には、道路にほとんど横断歩道が設置されていない国も少なくない。途上国のみならず、新興国でもそうしたところが見受けられる。それは橋のない川を水の代わりに自動車が激しく流れているようにも見える。交通ルールがあるのかさえ疑わしい。

 確かに、江戸時代の日本では橋の設置は限定的である。武士が為政者であるため、安全保障に翻訳してすべての政策を実施していたからだ。橋があっては、敵の侵入を容易にしてしまう。しかし、渡し船や歩渡しが橋の代替機能を果たし、人々の交通を可能にしている。

 ところが、横断歩道のほとんどない国の道路には、その代わりが見当たらない。4車線以上であっても、歩道橋や地下道などはまずお目にかからない。

 道路の両側には人が溜まり、彼らは自動車の流れを眺めている。頃合いを見計らって、誰ともなく一人が歩き出し、道を渡り始める。大河への入水のようにも見える。しかし、危険が迫っていると焦った様子もなく、穏やかな表情でゆっくりと歩き続ける。駆け出すことはない。若者でも高齢者でも同じである。

 すると、自動車はその動きに合わせて、減速していく。対向車も同様である。その歩行者の前に向こう側まで一本の道が出現する。それはモーセの海割りのようだ。その人が渡り終えると、道路はまた自動車の激しく流れる川に戻る。

 これが横断歩道のほとんど用意されていない国での道路の渡り方である。自動車の流れる量が減ってきたのを確かめて、ゆっくりと道路に歩き出す。決して駆け出してはならない。早歩きしたり、走ったりすると、運転者がそれを見て慌ててしまい、かえって危ない。横断歩道がなくても、『アビイ・ロード』のビートルズのようにゆっくりと歩いて道路を渡らなければならない。

 日本では事故防止のため、子どもに道路に飛び出さないようにと指導する。クルマは急に止まれないからだ。一方、ドイツは普段から子どもに走らないようにすることを教育する。概して、子どもは何かと駆け出してしまう。交通に限らず、それは危険なので、歩くようにと大人たちは教える。「廊下を走るな」ではなく、どこでも走るなというわけだ。

 確かに、日本でも、日常生活上は駆け出すことがよいとは見られていない。電車の駆け込み乗車やエスカレーターの駆け上がりなどは危険だと運用関係者が啓蒙活動している。また、都内の歩道を猛スピードで疾走する通勤自転車にヒヤリとしたことのある人も多いだろう。実社会は歩くことを前提に設計されている。走ることはスポーツを始め何らかの目的に限定された行為と捉えられている。

 それは近代に限らない。平安時代の貴族や江戸時代の武士の服装が走ることを想定しているとは思えない。

 そういう人たちが駆け出さなければならないとしたら、それは戦争や天災、火事など非日常的な状況である。生命が脅かされる差し迫った危険が人を走らせる。

 走ることには危険臭がまとわりつく。言わば、駆け出すことは、原則的に、禁断の行為である。

 中華料理の「佛跳牆(ぶっちょうしょう)」はそれをよく物語っている。これは乾物を主体とするさまざまな食材を数日かけて調理するスープで、福建料理の伝統的な高級料理である。

 中華料理は名称を見ただけで、どのようなものなのか分かるようになっている。例を挙げると、青椒肉絲はピーマンと肉の細切りの料理、麻婆豆腐はお婆さんの豆腐の料理という意味である。

 佛跳牆も名は体を表す。佛は仏教僧、跳はジャンプ、牆は塀のことだ。それは、あまりの美味しそうな香りに修行中の僧侶でさえ駆け出し、寺の塀を跳び越えて食べに来るスープという意味である。修行僧は我欲を捨て去らなければならない。そんな彼らですらこのスープの魅力には抗えず、寺から跳び上がって抜け出し、それに吸い寄せられてしまう。つまり、佛跳牆は禁断の味をしたスープである。

 実社会は人に歩くことを求め、駆け出すことを好ましからざる行為と見なしている。しかし、だからこそ、禁断の魔力に襲われた時、人は落ち着かなくなる。佛跳牆に限らず、もしそんなものの香りがしたら、思わずそこへ向かって駆け出してしまう。確かに、それは日常的な体験ではない。待ちわびたものの到来だ。
〈了〉

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