文字数 1,373文字

 とある有名人の一人が自殺をした。そのニュースが速報でテレビの画面から流れてきた。ソファに座って、家事の一息をついていた私には衝撃的な内容であった。それでも、深く私に侵食してくることは無かった。近所での世間話の一つ。それくらい、心情に訴えられることは無かった。洗濯が終わったかの方が大切であった。けれど、一握りの秘匿的な不安だけが心に残った。
 窓からは陽光が差し込まれず、部屋は正午だというのに薄暗かった。そんな、酷く大きな雲に覆われた日である。
 訃報のニュースは最も人の注目を集める。
 賑やかだった外も、夕闇に染まり、閑散とした頃。部活帰りの娘が帰ってきた。彼女も、やはり訃報を耳にしている。
「おかえり」
 その私の声に、娘は頷くだけであった。不安を杞憂に昇華することはできなかったみたいだ。心の中でため息を漏らす。厄介なことになったと、そう呟きながら。
 娘のことは何でも知っているつもりである。何が好きで、何が嫌いか。そのどれもが、胸中にしまっていると自覚している。娘は、亡くなった俳優に岡惚れしていた。やはり、間違っていなかったのだ。
 キッチンに立って夕食の準備を進めている間、チラリと娘のことを一瞥する。彼女はソファに座って、呆然とテレビを見ていた。お笑い芸人がワアワアと騒ぐチープな番組だ。それをただ、見つめている。笑いのツボが浅い娘が、破願することなく、目を開いているだけ。
 物憂げな顔になった。同情心すら湧いている。だが、何かしようとは思わなかった。いや、正確には出来なかった。愛溺している人の自殺に対しての慰め方なんて、誰が知っているのだろうか。他の人に花心を開いてくれたら、楽に収まるだろうに。だって、依存を止めたいなら、別の物に依存するのが一番楽じゃない。
 口に出すことは無い。全部、頭の中での愚痴である。
 心ここにあらず。そんな娘に声をかけるなんて。

 夫の帰宅は常に遅い。夕食を終えて、自堕落になってきた時でも、三和土の玄関から夫の声は絶無であった。
「由紀は主婦をやってくれたらいいよ。その分、おれが何倍も働くから」
 それが夫の口癖であった。口癖というより、私が働きたいと懇願したときの典型の返事だった。仕事が終わって、すぐに迫ってくる日常の家事。それによって、疲労と倦怠が私に影を落とすことを熟慮した結果からの優しさだろう。私のために、遅くまで働いて生計を立てようなんて、バカげている。だったら、私も働くのに。一緒に働いて、同じ時間に帰りましょう。今より早い時間に。そっちの方が、何倍も幸せだ。
「働くより、待つ方が苦痛なんですよ?」
 その小言は空気の中に消えていった。溶けていったのだろう。群青で茫洋な海に向かって、インクを一滴だけ落とすようなものだった。決して染まることない無意味な挑戦だ。自分は楽に依存しているのだろう。
 娘は自室にこもっている。リビングを生活の主としているわけでなく、基本は自室にいる。だが、直感と呼ぶべきだろうか。いくつかの要因からの推理だろうか。見えていなくても、ドアから漏れる些細な声や物の音。そっから、娘の状態が露骨に表れる。
「お風呂、沸いたわよ」
 ドアを数回ノックして口に出す。反応はない。もう一度だけノックをするも何も変化は起こらない。踵を返し、わざと大きな足音を残して、リビングに戻った。
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