後に理解した聖書の教え
文字数 1,200文字
大学生の頃、実習で病院に行った。精神科の病院で、うつ病、適応障害、薬物依存、統合失調症など様々な患者さんが入院していた。院長は物腰は柔らかくユーモアもあり、いつも笑みを湛えて学生に応対してくれた。
ある日、夕方に救急車が来たので、興味を持った私は実習時間を延長させてもらった。家族に付き添われた患者は激怒していた。それを院長たちが宥め、投薬し、それでも患者の怒りが収まらず、救急外来は怒鳴り声で修羅場のようになった。
学生には危険だからと退室を指示された私は、院長を待って医局という部屋でレポートをまとめていた。
やがて、院長は戻って来た。疲れ切った様子で、ぼそっと呟いた。
「人はね、恨みつらみが一番心にダメージを与えるものなのですよ」
聞けば、先ほどの患者さんはアルコール依存症で、それまでの人生で色々な苦労を重ねて病気を発症し、何度も入退院しているらしい。
その言葉は自分にも刺さっていた。母との確執、姉との不仲、小中と教師や同級生から浴びせられた心無い言葉、それらの傷は時折自分の記憶に蘇っては心を苛んでいた。
先生は、黙り込んだ私の心を見透かしたかのように、テーブルにある一冊の聖書を手にした。
「悩んだ時には聖書を読むと、心が落ち着きますよ。特にここ」
そう言って、開いたページには
「明日を思い悩むな」「過去を悔やむな」といった言葉がイエスのたとえ話と共に書いてあった。なるほどいい事が書いてある、そう思い、私は早速自分で小さな聖書を買い求めていたが、実習が終わると、あまり読まずに、本棚の肥やしになっていた。
社会人になって、私は何もできない自分に不安を覚えた。先輩には怒られてばかりで一向に進歩せず焦っていた。仕事のやり方が悪いのでは、そう思って、ビジネス書を買い漁り、読書会、先輩との食事、ランニング仕事の能力向上に役立ちそうなものは何でもチャレンジしていた。
その一環で、座禅会にも参加してみた。お寺のお堂に緊張しながら入ると、丸顔の住職がにこやかに出迎えてくれた。
「座って、目を半眼にして、頭の中を空っぽにして下さい」
目を半分閉じて、お香の香りを嗅いでいると、仕事や今日の夕食、先輩の説教などが気になって数秒も頭を空っぽにできなかった。次々と雑念が浮かんでくる。座禅を終えてそれを住職に伝えた。
「心を過去でも未来でもなく、今、ここにいる自分にだけ向けて下さい」
すると私の頭の中で、住職の言葉と、あの時の院長の言葉、学生の頃読んだ聖書の一句が一瞬で繋がった。未来や過去に捕らわれないというのは、このことかと。同時に、自分はいかに先のことを心配し、過去を恨んでいたのかということに気づいた。
教えを理解したことで聖書が身近になったような気がした。今では寝る前に気になる部分だけでも読むようにしている。するとそれは、魔法のように焦りも不安も溶かし、優しい眠りの世界へと誘ってくれる。
ある日、夕方に救急車が来たので、興味を持った私は実習時間を延長させてもらった。家族に付き添われた患者は激怒していた。それを院長たちが宥め、投薬し、それでも患者の怒りが収まらず、救急外来は怒鳴り声で修羅場のようになった。
学生には危険だからと退室を指示された私は、院長を待って医局という部屋でレポートをまとめていた。
やがて、院長は戻って来た。疲れ切った様子で、ぼそっと呟いた。
「人はね、恨みつらみが一番心にダメージを与えるものなのですよ」
聞けば、先ほどの患者さんはアルコール依存症で、それまでの人生で色々な苦労を重ねて病気を発症し、何度も入退院しているらしい。
その言葉は自分にも刺さっていた。母との確執、姉との不仲、小中と教師や同級生から浴びせられた心無い言葉、それらの傷は時折自分の記憶に蘇っては心を苛んでいた。
先生は、黙り込んだ私の心を見透かしたかのように、テーブルにある一冊の聖書を手にした。
「悩んだ時には聖書を読むと、心が落ち着きますよ。特にここ」
そう言って、開いたページには
「明日を思い悩むな」「過去を悔やむな」といった言葉がイエスのたとえ話と共に書いてあった。なるほどいい事が書いてある、そう思い、私は早速自分で小さな聖書を買い求めていたが、実習が終わると、あまり読まずに、本棚の肥やしになっていた。
社会人になって、私は何もできない自分に不安を覚えた。先輩には怒られてばかりで一向に進歩せず焦っていた。仕事のやり方が悪いのでは、そう思って、ビジネス書を買い漁り、読書会、先輩との食事、ランニング仕事の能力向上に役立ちそうなものは何でもチャレンジしていた。
その一環で、座禅会にも参加してみた。お寺のお堂に緊張しながら入ると、丸顔の住職がにこやかに出迎えてくれた。
「座って、目を半眼にして、頭の中を空っぽにして下さい」
目を半分閉じて、お香の香りを嗅いでいると、仕事や今日の夕食、先輩の説教などが気になって数秒も頭を空っぽにできなかった。次々と雑念が浮かんでくる。座禅を終えてそれを住職に伝えた。
「心を過去でも未来でもなく、今、ここにいる自分にだけ向けて下さい」
すると私の頭の中で、住職の言葉と、あの時の院長の言葉、学生の頃読んだ聖書の一句が一瞬で繋がった。未来や過去に捕らわれないというのは、このことかと。同時に、自分はいかに先のことを心配し、過去を恨んでいたのかということに気づいた。
教えを理解したことで聖書が身近になったような気がした。今では寝る前に気になる部分だけでも読むようにしている。するとそれは、魔法のように焦りも不安も溶かし、優しい眠りの世界へと誘ってくれる。