第1話

文字数 2,011文字

 この本は昭和五年に発表された、九〇年程前の短編集なのだが、名作というのは古今東西、月日を経ても色褪せないという特長を持っている。この短編集のなかで特に有名なのは「山椒魚」。国語の教科書には必ずと言ってよいほど掲載されていて、小説を読まない人であっても、一度は通読しているはず。私にしても今回再読して、懐かしい気持ちで甘酸っぱくなったと同時に、新たな発見があったり、文章の流麗さを味わったりと、様々な角度から読むことが可能な小説であることに驚かされた。
 高校生のときは思春期せいか、閉じ込められた山椒魚の思考の流れを、哲学的な解釈だけを求めてしまったが、読み返すと、緻密な描写のなかに上質なユーモアが散りばめられていることに気がつかされる。たとえば山椒魚が岩場の出入り口から、目高の群れを羨ましそうに眺めている場面。

《多くの目高達は、藻の茎の間を泳ぎぬけることを好んだらしく、彼等は茎の林のなかに群れをつくって、お互いに流れに押し流されまいと努力した。(中略)若し或る一ぴきが藻の茎に邪魔されて右によろめかなければならなかったとすれば、他の多くの小魚達はことごとく、ここを先途と右によろめいた。ほかの多くの仲間から自由に遁走して行くことは甚だ困難であるらしかった》
 と綴ったあとに、自由に泳ぎまわる目高と対照的な山椒魚に、こんな自棄とも思える台詞を吐かせるのである。

《なんという自由千万な奴等であろう!》

 目高が泳いでいる描写は生き生きとしていて、藻の茎の間を泳ぎまわるのを楽しんでいる様子が手にとるように見えるし、目高が先頭の泳ぎに合わせて、群れをつくることは初耳である。その目高の繊細な描写のあとに、山椒魚の大仰な台詞が添えられるから面白いのである。目高の描写が貧相な筆で綴られたものであれば、この台詞は生きてはこないで、面白味のないものに変わっていただろう。著者の自然描写のきめ細かさと正確さを基にしたユーモアは、ほかにも幾つかある。

《まったく蝦くらい濁った水のなかでよく笑う生物はいないのである》
《諸君は発狂した山椒魚は見たことはないであろうが、この山椒魚に幾らかその傾向がなかったと誰がいへよう》
 
 山椒魚を擬人化して問題定義をすることに、独特のユーモアが醸し出される。たぶん発狂した山椒魚を目の当たりしたのは、世界広しといえども、井伏鱒二ぐらいではなかろうか。
 さてこの小説に哲学的な解釈を求める一因として、結末の山椒魚と蛙の会話があげられる。山椒魚の嫌がらせとして、二年間も岩屋に一緒に閉じ込められてしまった蛙が、始めのうちは山椒魚を罵倒し口喧嘩が絶えないのだが、やがて口をきくことさえ億劫になり、黙ってしまう仲になってしまう。寂しさのあまり溜息を洩らさないように、それを相手に聞かれないように注意しながら過ごしている。しかし或る日、不覚にも蛙は溜息を漏らしてしまい、山椒魚に問い詰められる。そのとき既に蛙は、自分の身体が憔悴しきって動かなくなり、自分の先行きが長くないことを告げる。その時の会話である。

《よほど暫くしてから、山椒魚はたづねた。
「おまえ今、どういうことを考えているのだらうか?」
相手は極めて遠慮がちに答へた。
「今でもべつに、お前のことをおこっていないんだ」》

 この台詞で小説は終わるのである。
 この蛙の「今でもべつに」の台詞が、いかなる心境によるものか、解釈の分かれるところである。「今ではべつに」ならば、死期が近いのを悟って、この二年間を思い返せば、当初は憤りで打ち震えていたけれども、長い時間を経ると、不自由なりに楽しかったという心境で漏らした言葉ということで、ある程度は理解できる。
 しかし「今でもべつに」である以上、岩屋で山椒魚に出入り口を塞がれた時点から、それほど憤りを感じていなかったことになる。口喧嘩も罵り合いも、心の内では憎んでいなかったのだから、骨肉を争うほどの仇同士というより、内輪の言い争い程度と理解できる。
 私なりの結論は、蛙の深層心理には山椒魚に対する同胞意識があって、長期に渡る監禁状態も、山椒魚がやったことだから仕方ないと、半ば連れ添うのを認めていたのではないだろうか。例えるならば、家族関係のようなもので、表向きは怒りを抱きながらも、根底ではそれを容認してしまう意識。罪を弾劾する前に、心の底では相手は許してしまう心理。憤りの感情も相手を全面否定するようなものではない。心のどこかで暖かい眼差しで、相手を見つめているのである。
 そう解釈することで「今でもべつに」の言葉の意味が、いくらかでも明らかになると思うのだが、いかがであろうか。助詞ひとつの違いで、まったく解釈が異なってしまう面白さ。ただし数年後に読み直したら、今回とはまったく別の角度から解釈しているかもしれない。
 良い小説は様々な角度から読んでも、解釈が可能であり、それが読者の愉しみでもある。

(了)
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