(1) 雨宿りから1

文字数 1,448文字

 小さな公園の滑り台の下から、泣き始めた空を見上げた。
 濡れた肩に視線を落として、彼と初めて出会った日のことを思い出す。

 あの日も途中から雨だった——

 朝から、怪しげな雲行きなのは分かってた。なのに、傘を持って出かけなかったのは、どこか投げやりになっていたせいかもしれない。

 部長の、仕事に(かこつ)けた呼び出しの帰り道。自分の気持ちを映し出したような陰鬱(いんうつ)な雲が、とうとう(たくわ)え切れなくなった水分を零し始めた。

 コンビニの軒先を借りて雨宿りしながら、アスファルトを濃く染めていく雨粒を、見るともなく眺めていた。

 空はいい。(こら)え切れなくなったら、所構わず涙をまき散らして、あとはすっきりと晴れ上がる。人はそうはいかない。辛いからといって、どこでも泣けるわけじゃない。泣いたからといって、心が晴れるとも限らない。

 コンビニの軒先には、同じように雨宿りをしている人が何人かいた。
 恨めしそうに空を見上げている人。
 空模様なんて気にしている様子もなく、スマホを見ている人。
 右隣の人は、アプリで雨雲の様子を調べていた。
 左隣の人はゲームに夢中。
 雨に降られても、人それぞれだ。
 たまたま傘を持っていないという共通項で括られただけ。

 さほど強い雨ではなかった。
 止みそうで止まない雨。
 ただ、空が明るくなりそうな気配はなかった。

 そのうちに諦めて雨の中へ駆け出して行く人がいて、コンビニで傘を買って行く人がいて。
 そうして雨宿りの参加者は徐々に減っていった。

 会社までは五分くらいだろうか。
 多少は濡れるのを覚悟したうえで、軒先をはしごしながら走って行けないこともない。
 でも、出来ればクリーニングから返ってきたばかりのスーツを濡らしたくはない。
 観念して傘を買おうか。

 とりあえずコンビニの店内に入ってみることにした。
 入ってすぐのところに並べられていたビニール傘を一旦はやり過ごし、雑誌の売り場に立った。雑誌に手をのばすわけでもなく、傘の方を見ていた。
 
 職場に戻れば折りたたみ傘がある。同じような状況で前に買ったビニール傘も置きっ放しだ。
 たかが数百円とはいえ、もったいない。
 すぐ返しに来るから、ちょっとだけ貸してもらえないだろうか。
 そんなあり得ないことを考えてしまう。

 そういう商売は成り立たないだろうか。
 言ってしまえば、傘のレンタルだ。
 傘の代金を預かって、返しに来たらその何割かを返金するとか。
 まあ真面目に考えるまでもなく、商売にするには効率が悪過ぎるのは明らかだ。

 そんなくだらないことを考えて時間を潰していると、入店してきた学生風の男性が、躊躇(ちゅうちょ)なくビニール傘を一本手に取った。

「あ」
 
 思わず声が出てしまった。
 慌てて視線を逸らし、身体の向きも変えて、目の前にあった雑誌を適当に手に取った。
 男が近づいて来るのが分かる。
 いわゆる因縁をつけられるというやつだろうか。
 相手にしてみれば、こっちが因縁をつけたということなのかもしれない。

 いやいやいや。
 ただ、あ、と口から漏れただけじゃないか。
 確かに余計なひと言ではあったかもしれないけれど、そんな心に留めていただくような言葉でもない。ひと言ですらない。一音だ。

——おい。ねえちゃん。今、あって言うたやろ。なんか文句あるんか?

 関西弁とは限らないが、そのような趣旨のことを言われちゃったりするのだろうか。
 (うつむ)いて雑誌に顔を向けたまま、左目の目尻に全視神経を集中させた。
 人間やろうと思えばたいていのことはできてしまうものだ。我ながら感心した。
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