第96話 一休み

文字数 801文字

 やがて、山々を白く覆っていた雪は徐々に溶け、木々が芽吹き始め、季節が移り替わった。相変わらず、藍と増永の行方はわからず、新しい情報もない。
 翔は一度、一人で藍の部屋に入ってみた。主がいない今も、久美が毎日掃除をしている部屋のテーブルには、たった今、藍が席を立ったばかりのように、刺しかけの刺繍がほどこされた布が置いてあった。
 それは、いつか、藍が翔のために作ってくれると言った、青い空に鳥が飛んでいる図柄で、すでに三分の二ほどが出来ている。それを見て、翔は泣いた。
 
 
 再び、基樹とともに勉強を始め、写真と絵も、少しずつ再開した。最初に始めたときは、基樹に見てもらいたいと思ったものだったが、今度は、藍が戻って来たときに見せるために。
 藍がまだ見ていない景色の移り変わりを、写真や絵に留めておくのだ。藍が元気に戻って来る日を信じて待ちながら……。
 
 
 さらに季節が進み、山々は新緑に萌え、日ごとに日差しも温かくなったある日、翔と基樹は、勉強室でパソコンに向かっていた。
 翔は、英文の和訳に取り組んでいるところだ。古文とは違い、辞書なしでは、なかなか先に進めない。
 パソコンに入っている辞書ソフトで、単語のスペルをチェックしていると、隣で、基樹が声を上げた。
「あー……」

「どうかした?」
 基樹は、両手でデスクを押すようにして、キャスター付きの椅子ごとデスクから離れた。
「わかんねぇ。化学式とか、いくら説明を読んでもさっぱりわからないし、そもそも文章が頭に入って来ねぇよ」
 翔は、首と肩をぐるぐる回している基樹を見て言った。
「一休みしようか」
 そのとたん、うれしそうな顔になって、基樹が言う。
「そうしよう」

 基樹が、椅子ごと近づいて来て、翔の椅子をくるりと回し、自分のほうに向けた。
「翔」
「え……何?」
「だから、一休みだよ」
 そう言って、翔の肩を引き寄せながら、顔を近づけて来る。
「駄目だよ。久美が来る」
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