第1話

文字数 3,764文字

 今日もあいつはやって来た。顔も見たくないやつだが、会わなくてはならない人間だ。
 勝手に部屋に入るとやつはいつも通り机上にテープレコーダーを置くと再生ボタンを押す。
“兄さん元気ですか、私は党の配慮のお陰で中央病院での治療を続けています‥”
スピーカーから弱々しい女性の声が流れる。聴きながら彼は改めて涙を流した。
 スピーカーからの声が終わると男はレコーダーをしまいこみ代わりに薬包を置いた。
「お前のとこに壮健な若い奴がいたな、今度はあいつだ」
男は有無を言わせぬ口調で言った。
「もう、これで最期にしてくれ」
彼は悲痛な面持ちで吐き出すように応じた。
「ああ、これで終いだ。金本社長」
彼の肩を叩きながら男はこう言い捨てると部屋を出て行った。
「なんで、こんなことになってしまったのだろう」
男の後姿を見送ると彼は頭を抱えるのだった。

 1960年春、新潟港。
 前年末から始まった在日朝鮮人の祖国(北朝鮮)へ帰還事業は順調に進んでいた。
 この日も港には多くの人々で溢れていた。船に乗って発って行く人々とそれを見送りに来た人々がそれぞれ別れの挨拶を交わしていた。
 金本一家もその中にいた。
「兄ちゃんも早く来てね」
「うん」
 妹の言葉にこう応じたものの彼は今回の帰国事業に疑念を抱いていた。
“かの地では家賃も病院も無料、希望者は皆大学まで進学出来てモスクワ大学への留学も夢ではない”
と文字通り地上の楽園のような話がある一方、
“(朝鮮)戦争が終わって未だ年月がさほど経っていないのだから、生活は楽ではないだろう”という否定的な噂もあった。
 彼はもう少し様子を見た方がよいのではないかと思ったが父親がすっかりその気になってしまったのである。
彼自身は、その時、夜間だが工業高校に入学したので、それを口実に取り敢えず学校を卒業してから帰国することにした。
「向こうにだって学校はいくらでもあるのに」と言う父親を説得して。
 出発時間が近付き、人々は船に乗り込んで行った。
「じゃぁな」
父親はこう言いながら他の家族を連れて金本の側から離れて行った。
「バイバイ」
 妹が振り向いて手を振ったので彼も手を上げた。
 出港時間となった。船上から多くの人々が陸上に向かってテープを投げて別れを惜しんでいた。金本は密集する見送人に混じって船上の家族を探した。
すぐに見つけ出すと大きく手を振った。両親と弟妹たちも応じた。この時、これが永遠の別れになるとは彼も家族も予想さえしなかった。
 その後、暫くの間、家族からは何の音沙汰もなかった。便りの無いのは元気な証拠とよく言われるが、彼はそんな気持ちにはなれなかった。彼の周囲での北からの便りは芳しいものではなかったからだ。
 表面では「幸せに暮らしています」となっているが、内実は悲惨なものだった。“帰国”した人々の中には予め暗号や手段を決めて北の状況を知らせる方法を講じていた。ある人は状況が良ければ黒インク、悪い場合は青インクで手紙を書く、またある人は本当のことは切手の裏側に書くというように。
 このような方法で北の実情が次々と判明してきた。そのため、当初、山のようにあった“帰国”希望者は数年後は激減した。
 “帰国”から数年たったある日、ようやく金本のもとに弟から手紙が来た。時候の挨拶と物品送付の要求のみが書かれていた。彼は食糧でも衣服でも雑貨でも薬品でも記されている量の数倍を送ってやった。だが、その返事はなかった。
 歳月は流れ、彼は高校を卒業、就職し、そして独り立ちして工場を経営するようになった。世間的に見れば順風満帆の人生だろう。
 だが、家族の消息が分からぬまま暮らしている金本の気持ちは晴れることはなかった。

 そんなある日、金本の会社に突然、目付きの鋭い男が訪ねて来た。応接室に通されると男はテーブル上に写真とテープレコーダーを置いた。写真には見覚えのある若い女性が写っていた。
「お前の妹だ」
 別れる時小学生だった妹も既に年頃の娘に成長していた。金本は写真を手に取りじっと見つめていた。
 男はテープレコーダーの再生ボタンを押した。
「兄さん、久しぶりです。元気でしたか……」
 少し大人びた声になっていたが、確かに妹だった。
 テープの声が終わると男はおもむろに話し始めた。
「お前の妹、結核らしい」
「ええっ!」
 言われてみれば、確かに声に元気がなかった。
「俺の仕事を手伝えば、平壌の病院で治療出来るようにしてやれるが…」
 男の言葉に金本は反射的に
「入院しているんじゃないのか! 共和国は誰でも無料で病院で治療出来るっていっているじゃないか」
と声を荒らげた。
「あんたもそのあたりの事情は先刻承知のはずだ。かの地で一般庶民が病院に行けるわけがない」
 男の冷たい言葉に彼は「ああ」と力なく頷くだけだった。
「だが、あんたが俺の仕事を手伝ってさえくれれば、妹を平壌の病院に入院させ最新の治療を受けさせてやれる」
 金本は申し出を受け入れるほかなかった。
「分かった。何をすればいいんだ」
「簡単なことだ。あんたの名義でアパートを借りて欲しい」
 男の言う通りにアパートを借りてやると、男は再び金本の元にテープレコーダーを持ってやってきた。
「兄さん、元気ですか。党の配慮により私は平壌にある中央病院に入院治療出来るようになりました…」
 男は約束を守ったようだ。
「さて次の頼みだ。妹にこのまま治療を続けされたいだろう?」
 彼が断われる訳がなかった。
 こうして、金本は男の言うがままになった。
 それでも当初は、金の工面、男の手下の生活の世話をする程度だったので、さほど気にすることはなかった。
 だが、道案内程度だったことが、いつしか“人さらい”の片棒を担がされるようになってしまい、金本の心を苦しめた。
“辞めてしまいたい”
 金本は何度も思ったが、それは出来なかった。自分の行動が妹の生命を左右するといっても過言ではないのだから。

 夕方、配達から戻った小森に金本は
「話があるので休憩室で待っていてくれないか」
と声を掛けた。
「分かりました」
 いつものように元気な声で応じた小森を金本は正視できなかった。
 意を決した金本は休憩室に行き、流し台で湯を沸かし小森の好きなコーヒーを淹れた。その際、件の薬包を解き震える手で中身をカップに入れた。
「社長、話って何ですか?」
 話し出した小森の前に金本はカップを置きながら
「まず、これを飲みなさい」
と勧めた。
「はい、いただきます」
 小森はカップを取り、飲み始めた。金本はその様子をじっと見ていた。
 小森はすぐに意識を失いその場に伏した。と同時に男とその手下が入ってきて小森を担ぎ上げた。そして、車に運んだ。金本は彼らの後に付いて行った。
 乗用車の後席に小森と手下二人が座り、助手席には男が座った。運転は金本の役目だった。
 金本は、車をとある病院に向かって走らせた。在日の大物の医師が経営している病院で何度も行ったことがあった。
 病室のベットの上で小森は意識を取り戻した。手足はしっかりと縛られていた。彼は苦痛に歪んだ顔で金本を睨んだ。金本はそれを受け止めた。
 男たちは再度、小森を担ぎ上げて部屋から運び出した。金本の“仕事”はここで終わった。

 その後、男は二度と金本の前に現われなかった。
 ホッとすると同時に妹のことが心配になった。伝手を頼って入院している病院に金品を送ってみたが返事はなかった。
 それから一年ほどしたある日、北から二通手紙が届いた。弟と妹の夫からだった。内容は同じだった。
 妹は既に亡くなっていたのだ。それも小森を拉致する一ヶ月も前に。
「あいつ、騙しやがって!」
 腹が立った金本は全てを日本の警察にぶちまけようかと思った。だが、それは出来なかった。北には、まだ妹の家族とそして弟の一家がいる。自分の軽はずみな行動が彼らにどのような災いをもたらすか分からなかったからだ。

 それから更に歳月が流れた。
 高齢になった金本のところに日本人のジャーナリストが訪ねて来た。
「辛元春を御存知ですか」
 どこかで聞いた名前だなと少し考えていると
「工作員の辛ですよ」
とジャーナリストは言葉を続けた。
「ああ、あいつか。そういえば辛何とかという名前だったなぁ。まぁ本名ではないだろうけどな」
 金本はようやくジャーナリストの問いに応えた。
「あなたと辛との関係を教えて下さい」
 壮年の男はいきなり本題に入った。
「ふふ、会ったばかりの人間に何を話すんだね」
 金本は軽くかわした。
「それはそうですね」
 男も軽く応じた。そして、その後は雑談をしてそのまま帰って行った。
 ジャーナリストは元坂といい、朝鮮半島情勢を中心に取材しているといった。
 その後も、元坂は時々、金本を訪ねたが特に聞き出すことはしなかった。
 こうしたなか、金本は身体の不調を感じ、病院に行った。診断は癌で既に末期だということだ。
 金本には家族はなく、北に行った親兄弟も既に亡くなり、思い残すことはなかった――いや、一つだけあった。
 その日から彼は、ペンをとり書き始めた。これまで彼のしてきたこと全てを。
 数日間かけて書き上げた原稿を彼は元坂に渡すことにした。自分が死んだら世に出すよう頼むつもりである。彼なら聞いてくれるだろう。元坂はそういう人間だと確信したのだから。

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