第17話 接触

文字数 2,920文字

 神田竪大工町の長屋で山城さんと別れて、俺は坂崎さんと一緒にセンターに戻って来た。坂崎さんはセンターで充電した新しいタブレットを持って、寛政の始め頃に再転送して貰うのだ。そこで勝川春章に接触するか、「美人鑑賞図」のことを調べて成果があれば再びここに戻って来る手筈だった。本来の自分の幕末には差し迫った事もないので、その点では楽だった。
 俺は蔦屋さんのことを報告したあと、現代に戻り出光博物館の学芸員に接触しなくてはならない。五月雨さんに頼んで内密ならとの了解を取って貰ったので、その点では楽だった。
 センターの食堂で昼食を採りながらさきの講義が終わるのを待つことにする。坂崎さんも昼食を食べてから行くとのことなので一緒にすることにした。
 俺は好物の中華丼にした。野菜が多いので好きなのだ。坂崎さんはと見るとまた、とんかつ定食にしている。
「またカツですか、朝食べたばかりじゃないですか?」
 呆れる俺に坂崎さんは
「朝は脂肪の少ないヒレカツ。昼は脂の乗ったロースカツじゃ。ちゃんと考えておるわい」
 大した違いはないじゃないかと思ったが口には出さずにいた。剣の達人を怒らせたくはないからだ。
 坂崎さんは揚げたてでジュウジュウ言っているロースカツを箸で持ち上げると嬉しそうな顔をして口に運んだ。カリッと噛み切ると口の中に肉汁が溢れたのだろう。目尻を下げて左手で口を押さえた。
「この世の幸せじゃて」
 俺もトンカツは好きだがこれほどこの料理を嬉しそうにしかも旨そうに食べる人を俺は知らない。
 二人で夢中で食べていると、食堂の入り口からさきがやって来た。手には訓練センターのテキストを抱えている。先程は制服だったのだが、今はと鴇色と言うと後でさきに教えて貰ったのだが桃色を薄くして少し灰色を混ぜた感じの色の地の着物に支子色の名古屋帯をしていた。着物の柄は細かい花びらが全体に舞っている。近づくとその柄は桜の花びらを染め抜いたものだと判った。着物全体に鮮やかな桃色の花びらが舞っていたのだ。
「見事じゃのう。こうして見ると恋女房でも惚れ直すじゃろう」
 こちらに歩いて来るさきを見ながら坂崎さんが人を茶化す。
「そ、そんな……」
 実は俺も全く同じ思いで、綺麗だなと思っていたのだ。
「どうしました? 何か着いていますか?」
 ニヤニヤした坂崎さんとぼおっとして間抜け面している俺を見てさきは不思議だったのだろう。怪訝な顔をしている。
「いや、何でもないよ。綺麗な着物だと思ってさ」
 言った途端、着物という言葉は不要だと思った。
「そうでしょう! センター長が『江戸時代のことを講義するなら和装でした方が訓練生も判りやすいのじゃないか』と言うので着物を着てみたのです。似合っています?」
「おお、とても綺麗じゃて! 見ろ、お主の旦那の鼻の下を。伸びきっておるじゃろうて」
 坂崎さんに先を越されて俺は慌てて口を開く
「ああ、綺麗だよ。よく似合っているよ」
 俺がそう言うとさきは笑顔を見せて
「そう言って貰えると嬉しいです。何が良いか随分悩んだのです」
 二人のやり取りを見て坂崎さんはニヤついて眺めている。全く困ったものだ。早くこの人にも嫁さんを持たせねばと考えた。
 その後、さきも合流して一緒に食事をする。食べながら蔦屋さんの回復の見通しを話し、午前の講義でさきの受け持つ講義は一旦終了したと確認した。


 食べ終わるとさきと俺はスーツの制服に着替えて現代に戻った。坂崎さんは転送室で新しいタブレットを渡され、「美人鑑賞図」が制作され始めたであろう寛政二年に飛んだのだ。
 「大東興産」の転送室に戻った俺とさきは五月雨さんの所に向かう。尤も、さきは同期のエンジニアの娘と再会を喜んでいた。さきはセンターに通勤する場合は自分のタブレットで転送するので、ここまで来ることが無いからだ。
 五月雨さんがいる所長室に入ると早速、出光美術館の学芸員とのコンタクトが取れたのかをもう一度確認する。
「上手く行きましたか?」
「ああ、内密ならと条件はついたが、鑑定を下した状況や、その経緯は話してくれるそうだ」
「場所は、何処か指定されましたか?」
 そうなのだ。公に出来ない事柄なので誰にも聞かれない場所が望ましかった。
「美術館の閉館後の十八時にこちらから迎えの車を出す。ワンブロック離れた丸の内警察の前で拾い、ここに連れて来る手筈になっている」
「十八時に丸の内警察の前ですね?」
「ああ、そうだ。抜かりなくやってくれ。訊く場所はここの応接室だ。勿論録音を録らせて貰う」
「判りました。何だかワクワクしますね。どんなことが聞けるかと思うと」
「意外なことが判れば良いがな」
 五月雨さんは蔦屋さんのことに話題を切り替えた。
「蔦屋さんの症状はどうだ? 回復は早まりそうかな」
「まあ、昨日の今日ですからねえ……山城さんが毎日様子を伺いに行くことになっています。場合によっては薬の回数を増やしても構わないと思うのですが……どうせ多すぎれば尿に排出されてしまいますから」
 俺は一日二回というのが正直不満だった。最初は三回でも良いと思ったのだ。その後回数を減らせばより効果的だと思ったのだが、後で知ったが、いきなり三回だと弱った体には不向きなのだそうだ。二三日後から増やすのがより効果的なのだそうだ。素人の考えとは違うと思った。錠剤の入った紙袋にはそのへんの飲み方も書いた紙が入っているのだった。

 時計が十八時丁度を示した。辺りは薄墨を流したように暗くなり始めていた。朝から曇っていたのでこの時期にしては暗くなるのが早かった。余り暗くなり過ぎると相手の確認に手間取る。それだけは避けたかった。
 俺は黒塗りの乗用車を静かに丸の内警察の前に着ける。助手席のさきが降りて、こちらを確認して近づいて来る男に目が留まった。
「大東興産さんの方ですか?」
 男の言葉にさきが
「はい大東興産の光彩です」
 さきの言葉に男は
「私は、出光美術館の学芸員の浅田と申します」
 五月雨さんから訊いた名前と年格好も同じだった。歳は三十代後半で中肉中背。メガネをかけた感じがいかにも学芸員と言った風情を出していた。
「どうぞお乗り下さい」
 さきは静かに後ろの席のドアを開けると男が乗り込んで来た。ドアを閉め、さきが助手席に乗り込むと俺は静かに車を発車させる。バックミラーで後ろを確認すると、どうやら怪しい車は追跡して来ないことを確認した。
「大東興産のビルにお連れします。そこで事情を伺わせて戴きます」
 さきの説明に浅田学芸員は静かに頷いた。車は夜の帳が降り始めた東京を走って行き、東京駅の反対側にある大東興産に向う。
 およそ数分で車は大東興産ビルの地下の駐車場に停まった。さきが降りてドアを開け浅田学芸員を降ろす。案内をして地下の入口に入って行く。それを俺は後ろから付いて行くのだ。これは万が一の場合に備えてだ。
 エレベーターで三階に登り、この階にある応接室に招き入れた。ソファーに座って貰い、さきがコーヒー出す。そして聞き取りが始まった……。
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