パニュキス その4
文字数 1,633文字
「パニュキスは、びっくりした目で、キュモンを見ました。
『キュモン、どうしてそんなにあたしにくっついてるの? ああ、そんなにきつくつかまないで。』と、パニュキスはたのみました。『いつもみたいに、海までかけっこしない?』
『だめ、ぼくからはなれて、かけてっちゃだめだ。』
『おにごっこしない?』
『ああ、だめだ! ぼくからにげていっちゃいけない。』
『湖にいって、ボートにのりましょう。』
『だめだよ、パニュキス、湖はふかいんだ。』
『ふちのところは、ふかくないわ。あたしに泳ぎをおしえてくれるっていったじゃないの。』
『いつか、べつのとき――きょうは、だめだ。』」
だめだ。
私がだめだ。笑
この後の展開を知っているからもありますけど。
このキュモンくんの苦悩が。辛すぎる。
ほんと、涙が。(メガネ拭いてます)
どうして、愛というものは、こんなふうにたやすく苦しみに変わるのでしょう。
相手の幸せを願っているのに、なぜ、こうして、相手を破壊していくのでしょう。
「身に覚えがない」という読者さまは、もうここで閉じちゃってください。笑
あなたも、ありませんか。キュモンだったことが。
そして、パニュキスだったことが。
あなたも。
「『どうしてだめなの? 先週、野ゼリで編んだ冠が、あの石の上にのってたわ(※湖の中ほどに突き出ている岩のこと)。あそこに、あれをおいたの、キュモン?』
『ちがう。ぼくは、あんなとこまで泳げやしないよ。』
『あたし、あそこまで泳げるといいな。だけど、あそこまでいったの、だれかしら。あれ、神さまにおそなえしたのよ。』
『なんの神さまだ?』」
キュモン怖い! この「なんの神さまだ?」、ぜったい鋭い。激しい。
「『なんの神さまだ?』
『知らないわ。でも、あたしも、その神さまにおそなえものしたい。』
『キュモン、もっとたのしそうにして!』
『ぼくは、きみのそばにいれば、たのしいんだ。
きみ、ぼくがすきかい?』
『ええ、すき。
だから、たのしそうにして。』」
ずっと会話が続きます。
二人のしぐさや表情は描写されません。台詞だけがたたみかけるように重ねられていきます。
ここ、たぶん、読者が千人いたら千人、違う「イメージ」を抱いているでしょうね。
二人は立っているのか、座っているのか。手をつないで走っているのかもしれません。
それは読む人にゆだねられています。
でも、私たち千人いたら千人そろって、同一のものを感じてもいるんです。
キュモンの手ににじむ汗。
「きみのそばにいれば楽しいんだ」と答えるときの、彼の苦しい息づかい。
肩の緊張。
胸の鼓動。
痛み。
わかる。
読む、というのは、こういうことじゃないでしょうか。
他の所でも書いたので、重複ですみません。
「書く」「読む」というのは、「イメージ」と「言語」の変換作業なんかじゃないです。
そんなふうに言えちゃう作家って、ようするに、
「キャラクターが何をして何を言って、何を考えたか」
その経過を言葉で「説明」しているだけなのでは?
書く、というのは。
読む人の中に、
厳密に言うと――
書く人と読む人は別人ですから、読む人がどう感じるかなんて、書く人にはけっきょくわかりません。
だから、遠い的に当てるように。
または、見えないツボを押すように。
集中して――
こう放てば、こう押せば、届くはずだ、と念じて、放つ。
そうやって放たれた言葉は、かならず当たります。
「『きみ、ぼくがすきかい?』
『ええ、すき。だから、たのしそうにして。』」
「そのとき、パニュキスは、きゅうにキュモンの手をふりはらって、笑いながら、林のなかへかけこんでしまいました」
「キュモンは、心配のため、汗ばみながら、あとを追いました。
『もっとたのしそうに、もっとたのしそうに!』
パニュキスはふりかえって、さけびました」
「そして、笑いながら、笑いながら、
パニュキスは、どんどんかけていって」
「木のあいだにきえました」
『キュモン、どうしてそんなにあたしにくっついてるの? ああ、そんなにきつくつかまないで。』と、パニュキスはたのみました。『いつもみたいに、海までかけっこしない?』
『だめ、ぼくからはなれて、かけてっちゃだめだ。』
『おにごっこしない?』
『ああ、だめだ! ぼくからにげていっちゃいけない。』
『湖にいって、ボートにのりましょう。』
『だめだよ、パニュキス、湖はふかいんだ。』
『ふちのところは、ふかくないわ。あたしに泳ぎをおしえてくれるっていったじゃないの。』
『いつか、べつのとき――きょうは、だめだ。』」
だめだ。
私がだめだ。笑
この後の展開を知っているからもありますけど。
このキュモンくんの苦悩が。辛すぎる。
ほんと、涙が。(メガネ拭いてます)
どうして、愛というものは、こんなふうにたやすく苦しみに変わるのでしょう。
相手の幸せを願っているのに、なぜ、こうして、相手を破壊していくのでしょう。
「身に覚えがない」という読者さまは、もうここで閉じちゃってください。笑
あなたも、ありませんか。キュモンだったことが。
そして、パニュキスだったことが。
あなたも。
「『どうしてだめなの? 先週、野ゼリで編んだ冠が、あの石の上にのってたわ(※湖の中ほどに突き出ている岩のこと)。あそこに、あれをおいたの、キュモン?』
『ちがう。ぼくは、あんなとこまで泳げやしないよ。』
『あたし、あそこまで泳げるといいな。だけど、あそこまでいったの、だれかしら。あれ、神さまにおそなえしたのよ。』
『なんの神さまだ?』」
キュモン怖い! この「なんの神さまだ?」、ぜったい鋭い。激しい。
「『なんの神さまだ?』
『知らないわ。でも、あたしも、その神さまにおそなえものしたい。』
『キュモン、もっとたのしそうにして!』
『ぼくは、きみのそばにいれば、たのしいんだ。
きみ、ぼくがすきかい?』
『ええ、すき。
だから、たのしそうにして。』」
ずっと会話が続きます。
二人のしぐさや表情は描写されません。台詞だけがたたみかけるように重ねられていきます。
ここ、たぶん、読者が千人いたら千人、違う「イメージ」を抱いているでしょうね。
二人は立っているのか、座っているのか。手をつないで走っているのかもしれません。
それは読む人にゆだねられています。
でも、私たち千人いたら千人そろって、同一のものを感じてもいるんです。
キュモンの手ににじむ汗。
「きみのそばにいれば楽しいんだ」と答えるときの、彼の苦しい息づかい。
肩の緊張。
胸の鼓動。
痛み。
わかる。
読む、というのは、こういうことじゃないでしょうか。
他の所でも書いたので、重複ですみません。
「書く」「読む」というのは、「イメージ」と「言語」の変換作業なんかじゃないです。
そんなふうに言えちゃう作家って、ようするに、
「キャラクターが何をして何を言って、何を考えたか」
その経過を言葉で「説明」しているだけなのでは?
書く、というのは。
読む人の中に、
何かを呼び起こさせる
ことだと思います。厳密に言うと――
書く人と読む人は別人ですから、読む人がどう感じるかなんて、書く人にはけっきょくわかりません。
だから、遠い的に当てるように。
または、見えないツボを押すように。
集中して――
こう放てば、こう押せば、届くはずだ、と念じて、放つ。
そうやって放たれた言葉は、かならず当たります。
「『きみ、ぼくがすきかい?』
『ええ、すき。だから、たのしそうにして。』」
「そのとき、パニュキスは、きゅうにキュモンの手をふりはらって、笑いながら、林のなかへかけこんでしまいました」
「キュモンは、心配のため、汗ばみながら、あとを追いました。
『もっとたのしそうに、もっとたのしそうに!』
パニュキスはふりかえって、さけびました」
「そして、笑いながら、笑いながら、
パニュキスは、どんどんかけていって」
「木のあいだにきえました」