一年後 1

文字数 2,149文字

   

 満員の通勤電車を降りて、陽介は人波にながされながら改札にむかう。満員電車はあいかわらず不快だ。改札を抜けて自由通路にでたとたん、ぎくりとして足が止まった。
「玲奈」
 後ろから来た人がドンとぶつかって、舌打ちをする。人波からはずれて目の前の大きなポスターを見つめた。EVE。化粧品の広告だ。真っ赤なリップが人目をひく。

 玲奈。すごい活躍だね。もうすっかり別世界の人だ。去年まで俺の妻だったなんてだれも信じないだろうね。
 あれからアヤカには頭を下げて別れてもらったよ。俺に執着していたのかと思っていたけど、案外あっさりと別れてくれた。たぶん俺のことが好きなわけじゃなかったんだ。玲奈からマウントを取るのを楽しんでいただけだったんだ。
 俺はバカだ。そんなことにも気づかずに、ただただきみを傷つけた。
 母親も泣かせてしまった。食事ものどを通らずに、十キロもやせてしまった。父親は怒りのあまり、体調を崩して入院してしまった。大事がなくて幸いだったけど。とんだ親不孝者だ。
 ときどき.futureのインスタを見るんだよ。きみはしあわせそうだね。画面からも伝わってくるよ。仕事も順調だし、あの男もきみを大事にしてくれているんだろう。よかったと思ってるんだよ。これでも心を入れ替えたつもりなんだ。それでもやっぱり、きみとあいつがいっしょに写っている画像を見ると、胸の奥あたりがズキッとするな。
 あのマンションは引き払った。踏ん切りをつけるのに半年もかかってしまった。アヤカと別れたと知ったら、きみが戻ってくれるんじゃないかと思って、待っていたんだ。きみが残していった抜け殻を捨てることもできずに、大事に大事に抱えこんで意地汚くすがっていたんだ。ほんとうに俺はバカだ。きみはとっくに先に進んでいたのに。  
 今はウィークリーマンションに一人で住んでいるよ。夜、遊びに行くこともなく、まじめに仕事に打ちこんでいる。
 いつか、もし、きみと会うことがあったら、恥ずかしくない人間でいるように。あの夜、きみが連れていた彼らのように、自信にあふれて堂々とできるように。

 すこしは彼らに近づけただろうか。一日、一歩でも二歩でも近づけたらいい。陽介は出口に向かって歩きはじめた。

 玲奈の離婚から二か月後、.futureの事務所は移転した。同じ高円寺のオフィスビル。ワンフロアを借り切り、事務所とプレスルーム、悠人のアトリエがならぶ。
 社員も五人増えた。玲奈は専属契約から.future所属のモデルになり、専属のマネージャーがついた。二十代半ばの女の子だ。EVEにあこがれているといって、はりきって仕事をしているが、ミステリアスなEVEとリアルな玲奈とのギャップにいくらかとまどっている。くわえて、悠人の玲奈に対する激甘っぷりにイメージがちがうとがっかりしている。
 EVEにマネージャーをつけるという話がでたとき、悠人からは女性にしろと強い要望があった。摩季には呆れられた。
「どんだけ独占欲が強いの? 撮影前にキスマークのチェックするのわたしなんだから」
 そういうと悠人はしれっと
「当然の権利だ」
 といって、危うく摩季にタブレットで殴られそうになった。
「高円寺から出ないの?」
 玲奈は涼太郎に聞いてみた。
「こだわっているわけではないけど、たまたま近くにいい物件があったからね。それに知った店も多いし、道もわかるしね」
 なるほど、いまさら別の土地には移動したくないらしい。
 それに(ともな)って、玲奈と悠人も事務所から徒歩五分のところにある広いマンションに引っ越した。いっしょに住むことは、案外あっさりと両親は認めたのだった。
 離婚直後、母から訳を聞いた父は激怒した。もちろん陽介にである。陽介本人と両親はすぐさま飛んできて家に着くなり土下座をした。
「そんなものは必要ない。はっきりと説明してもらおう」
 父はそういって玄関先に正座させたまま、陽介自身の口からことの顛末(てんまつ)を語らせた。そのあまりのお粗末さに呆れた父は、二度と玲奈にかかわるなと約束させて三人をたたき出した。
 その一週間後に玲奈は帰省した。もろもろ告白して懺悔するためである。両親はだまって聞いてくれた。周到に計画して、自宅での浮気現場を押さえたのには、なんて無茶をするんだと父も呆れた。
 父はEVEについてはまったく知らなかったが、母は気づいていてEVEが載った雑誌を何冊か買っていた。玲奈のスマホの画面と雑誌を見ながら、父はやはり「この彼はなんだ」と聞いてくる。
 ここでごまかすのは悠人にも両親にも礼を失すると思って本当のことを話した。自分の恋愛事情を親に話すのは、かなり恥ずかしかった。隠していてごめんなさいとあやまると、父はもとはといえば陽介が悪いのだからとあっさり許してくれた。
 両親からしたら、陽介とその不倫相手によってたかって痛めつけられ、傷つけられ、苦渋を味わわされたとなると、玲奈が不憫(ふびん)で不憫でしかたがない。その玲奈をそばで支えつづけ、しかも離婚届を出すまで律儀に手を出さなかったと聞かされたら、筋の通ったよくできた人間としか思えない。どうぞどうぞと、差し出さんばかりだ。
 我が子不憫が発動した両親は、玲奈がライオンを飼いたいといっても許すにちがいなかった。
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