卑弥呼/卑賎
文字数 1,540文字
尊貴を「綺麗ごと」と捉える風潮は中国にも有ったようで、三国時代・魏の末のほうにダラシナイ恰好で酒飲み談義を交わした話「竹林の七賢」は日本でも
「無知ゆえに過ちを犯した、それなら仕方ない、許してあげようよ」という社会常識は太っ腹にみえても、じつは社会を卑しめ、人間を賤しめる悪しき文化を助長する。結局「学ばずは卑し」の哲学がないところ尊貴の文化の生れようも育ちようもないこと、あなたにはお分かりでしょう。「人を卑しめていいか?」と問えば、「そんな幼稚な質問する者を相手にできない」と言動する人が多い日本。このような「己を大きく見せたい小人物」を増やしていいだろうか?こう考えるとき、私は卑弥呼に倣うことになる。
それで卑弥呼と名付けたのは誰か?中国・漢字文化に依るしかなかったのは確かであり、中国で漢字を当てられたと想像するのは難くない。『ひみこ』の読みについては、集団生活する上で便利な名前だが鹿児島出身の巡査の『おい』や『おい、こら』は夙に知られていて小集団‥例えば家族内で相手を確認しながら『おい』と呼びかける姿に思い当たるのでなかろうか。卑弥呼集団の規模にも依るし、あるいは中国の王侯・豪族は個人名を持っていた訳で、日本はそれに倣っていたと考えるほうが自然だろう。
ともあれ、私の眼前に卑弥呼の名前があり、この名前に私はどう接するべきか?僻んだ心で接してはなるまい。仮にも「卑しさが延々と流れ広がる」と読んでしまっては自分自身を卑しめてしまう。当人の卑弥呼が賤しんでいたなら私はこんなふうに哲学していられなかったのは確かで、お互いを罵りあい卑しめあいながら世を怨み・人を呪って荒んだ人生を過ごしていただろう。いや、こうして元気に生きていることもなかっただろうし、大和民族は既に滅んで世界から消え去っていたと考えるほうが自然に思える。
不満の表現は幼児が得意とするところ...と云うか不満の表現が得意でない幼児が生延びる確率は低くなりそうで、そうすると幼児が卑小なのは生きるための知恵にちがいない。卑小な幼児の泣き声に母親は敏感に反応するが、これは母親の知恵と云うよりも母子間の約束ごとに思われる。約束ごとだから児の悲鳴に敏感に反応する母親なのだろう。仔の悲鳴に敏感なのは畜生も異ならない。そうであれば畜生時代に交わされた古い約束ごとが代々伝わってきているのだろう。その子もやがて親世代へと巣立っていく。
親世代へ巣立つのは生物全般に通じることだが、人間のばあいは大人に成長するのを
念のために申せば、使命感と自己犠牲は一致しない。
使命感即ち同胞の満足追求と申せばお分かりかと!?