SEVENTY-NINE 無香の子と香り立つ子のどちらが?

文字数 913文字

縁美(えんみ)。シャンプー替えた?」
「わ。すごい。蓮見(はすみ)くんって、女子?」

 いい香りがする。

 僕の勤める会社の主要業務はビルメンテナンスやビルクリーニング、そしてその周辺業務全般だ。

 僕はこの仕事を始めてから、匂い、というものへの考え方を改めた。

「悪いね、蓮見くん。ご指名で」
「いいえ」

 今日の現場はいつもと少しだけ違う。

 顧客はテナントビルのオーナー。

 現場はそのビルの一室。

 賃借人は小さな貿易会社。
 働いていたのは代表取締役ひとりだけ。

 そして、業務中に急死された。

「整理されてますね」
「うん。そのデスクに座ったままでお亡くなりになっていたそうだよ。くも膜下出血だったそうだよ」

 社長と僕は手を合わせてから作業にかかった。

「蓮見くん。嫌じゃないかい」
「いえ。平気です」

 とても実直な方だったのだろう。
 独身で男性、お年は70歳を超えておられたそうだ。
 亡くなってから3日経ち、取引先の業者がビルのオーナーに問合せをかけてきたという。

『顧客への報告やデリバリー状況のフォローを決して怠らない方です。どうぞ部屋をお調べになってください』

「匂いは平気かい?」
「はい」

 応接用の椅子とテーブルはあるけれども基本、彼ひとりのためだけのオフィスだった。奥様に先立たれた後の彼にとってこの小さな15平米のスペースが人生のすべてだったのだろう

 だからこれは亡くなった身体が放った匂いではなく、彼のこの場所での長い長い時間の積み重ねで出来上がった、そういう匂いなのだろうと思う。

 彼の人生の残り()なんだろうと思う。


「縁美はいい匂いがする」
「ふふ。蓮見くんもいい匂い」

 

のできない僕らが、肌を(じか)に触れ合わせる週末の深夜。

 でも僕は訊いてみた。

「僕の匂いって、洗浄用の薬品臭い匂いでしょ」
「仕事の?」
「うん」

 縁美は僕をまるで小さな子供みたいに抱き寄せて背中をよしよしするようにさすってくれた。
 それから、僕の髪に鼻と口とを当てて、すうっ、と吸い込んだ。

「何の匂いとかそんなの知らない。蓮見くんは蓮見くんのいい匂い!」

 きゅっ、と両方の手のひらで僕の肩甲骨を握るみたいにおどけた抱擁をして、下唇を齧るようにキスしてくれた。

 いい香りがする。
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