第4章 第2節 「葦原建命の物語」

文字数 27,290文字

 平成20(2008)年3月7日──。
 胸部外科合同手術における食道切除・再建術──伊野執刀、葦原第一助手、久斯第二助手──が無事に終わった。食道の手術は普段、大学か上部班関連市内大規模(Aランク)病院に送ることになっているので、横隔膜の下の手術ばかり見ていた久斯には貴重な経験となった。
 術後、総合医局で久斯に横隔膜上の手術の要点を話していると、PHSが鳴った。平田先生からだった──。
「久斯、アッペ来たってよ!」
 弾かれるように立ち上がった久斯は天を仰いで、言った。
「外科の神様、感謝します──」
 研修修了最終月にして、ついにアッペだ。これほどまでにアッペに待ち焦がれたことは外科医人生でなかった。有終の美を飾るというやつだ。久斯と興奮しながら救急外来に向かった。だが、その興奮は10分後、落胆に変わった。研修医の執刀に患者家族からの同意が得られなかったのだ。あいにく、他科の臨時手術も重なってしまったようで、外科の分の手術室の確保もできなかったことから、狩野に付き添わせて他院に搬送させた。
「久斯、そうスネるな」
 ぶすっとしていた久斯に声をかけた。
「本当に、外科の神様に嫌われてるのかなあ」
 また、天を仰ぐようにして言った久斯がこっちを見てきたので、葦原は言った。
「ヘモもヘルニアもちゃんとやれたし、ラパタンまでやっただろ。十分すぎるくらいだ」
「ちぇっ──」
 その後もブツブツと愚痴っていた久斯と解散後、総合医局に戻ると伝言があった。相手は牛尾とのことで、かけなおした。
「わるい。膵頭十二指腸切除術(PD)1件、急ぎでやってもらえないか」
「はいよ。フツーのPDでいいならいくらでも」
「助かる。大きい声では言えないんだが、七電の社長さんだ」
「あらら。ウルトラVIPじゃん」
 七州電力は七州随一の大企業だが、手持ちの七電病院では現在、PDはやらない。
腹腔鏡下膵頭十二指腸切除術(LPD)じゃなくていいのか?」
「最初はそれ希望で来たんだが、紆余曲折を経て、お前のところでPDだ」
「紆余曲折ってなんだよ」
「その社長さんは総裁の高校時代のご学友なんだよ。真田先生いわく、総裁のご指名らしいからな、頼んだぞ」
「げっ」
 患者が大企業の社長さんだろうが定年退職後のおっさんだろうが、やるべき手術やかける気合に差はないのだが、総裁直々のご指名となれば、七刄会外科医の背筋が伸びるというものだ。
「頑張らせていただきますが──なんだか悪いな。ふつうのPDだって大学でやれるだろうにさ」
「お互いさまだ。お前のところがPDで一番だろう。それに、正直、これはプレッシャーだしな」
「なんだよ、弱気だな。来期からは七大病院診療准教授、中部班最高執刀責任者だろ」
「同期に素直な心境を吐露してるだけさ」
 牛尾は、LPDを成功させてからというもの、ゴッドハンドなどとメディアにもてはやされるようになってしまった。同業者としてはそれで羨ましいとはならず、むしろ気の毒に思わざるをえない。医者のできることと患者の期待には常に乖離があるが、メディアがそれをいたずらに助長することで、溝が深まり隙間は広がり、トラブルが増えるだけなのだ。実際、PD適応なのにセカンドオピニオン目的と称して他院から強引に大学に押しかけ、LPDの対象ではないからと市民病院に寄越されたことを逆恨みして、ここで大学病院や牛尾のことを悪し様に言っていた患者はひとりやふたりではなかった。
「それならなおさら、他でやれる手術はどんどん学外病院に任せて、自分の仕事に集中しろよ。来期からはもっと忙しくなるだろうからな」
「ああ。そうさせてもらうよ」
 七州地方最大級のVIP患者の入院の段取りを確認したあと、牛尾が言った。
「そうそう、聞いたよ、七大グランドサージャリーってやつ。考えたのは葦原だって?」
「おう。学外にいるとさ、若者たちの声が身近に聞こえるもんでな。大学ではどうだ、下働きが減るって、評判わるいんじゃないか?」
「いまの初期研修医上がりより使える医者が来るならいいかもなって、概ね好評だ」
「そうか。ホッとしたよ。本格始動に向けて相談することが増えるから、頼むよ」
 牛尾との電話を終えて、押切先生への報告のため外科医局に向かった──これが久斯にとって市民病院での最後の手術になりそうだと思いながら。


 3月14日、午後1時──手術部で手洗いをしていると、院内放送が聞こえてきた。
『……本日17時30分より研修修了式が行われます。関係各位はお集まりください』
 あいにく、今年度最後のPD──押切執刀、葦原第一助手、伊野第二助手、久斯第三助手──は研修修了式の日に重なった。今日が久斯にとっては研修最後の日だが、午後の手術室が空いていたのでねじ込ませてもらった。研究医志望なのに結局、初期研修2年間のうち最長9ヶ月間も外科に来たのだから、かわったやつだとしか言いようがない。
 手術が始まった。まもなく、腹腔が音なき吐息を上げて開かれた。押切先生はメスを戻して言った。
「葦原とのPDもこれが最後だな」 
「言われてみれば、そうですね」
 これまで数え切れないほどたくさんの手術を、特にこのPDを押切先生とのタッグでやってきた。しかし、来月・来期からは香盤表人事で一緒になることはなく、これが最後だった。
「よし──葦原、執刀してくれ。最後にお前のPDを見ておきたい」
「あっ、はい、了解です」
 おっ、という声が伊野から漏れ聞こえてきた。麻酔科の先生に断り、葦原は執刀医のポジションに移った。久斯が不思議そうに言った。
「へー、葦原先生も執刀するんですね」
 押切先生が怪訝そうな顔をしたのを見て、伊野が補足した。
「押切先生、久斯は多分、葦原先生の執刀を見たことがないんですよ」
 久斯がうなずいた。
「葦原先生、前立ちばっかりじゃないですか。てっきり、伊野先生みたいに大学でなんかやらかして、執刀禁止になっていたのかと思ってました」
 伊野が怒ったり葦原が反論したりする前に、押切先生が言った。
「久斯、七刄会(うち)じゃ、

んだ」
「えー? それじゃ、副部長先生より葦原先生のほうが巧いってことになるじゃないですか」
「ああ。俺がいつも本気で執刀できているのは、この葦原が前立ちしてくれているからだ。そして、葦原の本気が出せるほどの前立ちができる外科医は、七刄会にはいない」
「伊野先生、そうなんですか?」
「押切先生も葦原先生も、俺の目標だ」
「ずるい答え方ですね。あれ、この間の鷹羽先生というお方は? 葦原先生は、スーパーマンだって」
 押切先生は苦笑して答えた。
「鷹羽は走攻守そろったスーパーマンだな、確かに。手術もとても巧い外科医学者だ。でも、手術に関して言えば、葦原にはかなわない。だから、復帰戦で葦原に前立ちを頼んだんだ。葦原は正真正銘、手術の天才だ」
 そう言い切った押切先生に真正面から見つめられ、葦原はさすがに照れた。
「またまた、勘弁して下さいよ」
 久斯がさらに言った。
「葦原先生、七刄会は世界トップレベルだって吹聴していましたよ。じゃ、葦原先生は世界トップ中のトップってことじゃないですか」
「そういうことになるな」
「またまた、押切先生」
 押切先生が真面目に答えるので、葦原は恥ずかしくなった。久斯が食い下がった。
「そんな世界最高の手術の天才がどうしてここにいるんですか? 出世コースじゃないんでしょ」
「久斯、七刄会外科医は一所懸命だ」
 伊野がそう言ってくれて、葦原は嬉しくなった。
「伊野の言う通り。俺たちはどこでも自分の持ち場で全力を尽くすだけだ」
「ふ──────────────────ん」
 久斯はサージカルキャップとマスクの間から不納得の目線をよこしたが、無視した。
「じゃあ、続けましょう。皆さんよろしくおねがいします──」
 PD──葦原執刀、押切第一助手、伊野第二助手、久斯第三助手──は17時30分前に無事に終わった。
「ありがとうございました」
 久々の執刀ではあったが、開腹から4時間くらいなら上々だ。
「修了式には間に合ったな──久斯、行っていいぞ」
 返事がなかったのでもう一度言うと、久斯は虚ろな目線で答えた。
「いえ、いいです……なんだか疲れました」
 のぼせたような久斯に葦原は言った。
「仕事を口実にいろんな行事に遅刻したり、サボったりするのは三流の医者だ。そういうクセをつけるな。それに研修医を足止めしたって俺たちが藤堂先生が怒られるんだぞ。行ってこい」
 久斯は汗だくの術着のままでふらふらと手術室を出ていった。
「患者さん、俺、ついてますので。標本整理もやっておきます」
 そう言って、同じくらい汗だくの伊野がストレッチャーを押して回復室に向かった。
「押切先生、今日はありがとうございました」
 サージカルガウンを脱いだ押切先生も、術着が汗で変色していた。
「疲れたよ。毎度のことながら、圧倒的だな」
「すみません。いつもこんな感じになっちゃって」
 更衣室まで一緒に戻った。葦原が着替えようとすると、押切先生が言った。
「結局、俺は最後までお前に本気を出させてやることはできなかったな」
「いえいえ、本気出しましたよ、俺」
「ふっ、ほとんど汗らしい汗もかいてないじゃないか。着替えなくてもいいくらいだ」
 葦原が手術後に新しい術着に着替えるのは、翌日もそれを着るからではある。
「それは、体質かと」
 押切先生は横に首を振った後、縦に振って、言った。
「……来月からは別だな」
「はい。押切先生にはお世話になってばかりでした」
「俺のほうが世話になったよ。今後が思いやられるよ」
「またまた」
 真田先生の後を追いかけるようにして入局した葦原だったが、真田先生が医局長になった後、実際に長く手術を一緒にやってきたのは押切先生だった。いわば、育ての親だった。
「葦原、俺は、お前にあやまらなくてはいけない」
「なんですか、あらたまって」
「ブンイチが言っていた話だ──お前がAキャリアになれなかったのは俺のせいだ」
「そんな……先生にはよく育てていただきました。ひとえに自分の実力不足です」
 久斯のバカが余計なことを言ってくれたなと思った。
「そんなわけない。お前が牛尾に負けるわけがない。俺のせいなんだ」
「人事は医伯監会議で決まったことです。押切先生は関与されていないでしょう」
 医伯監会議は各専門班の最高研究責任者と最高執刀責任者合計12名による人事会議だ。3年前のそれには、その年を限りに学外転出する押切先生ではなく、次期医伯監であった針生先生が中部班診療スタッフ代表として出席していたはずだ。
「俺が針生に頼んで、牛尾を医伯監会議で推薦してもらった」
 えっ──?
「針生の腹腔鏡下膵尾部切除術を継承して、腹腔鏡下膵頭十二指腸切除術を始めさせるのは牛尾がふさわしい、開腹のPDなんて過去の遺産は俺と葦原が持っていく、だなんて、もっともらしい理由で針生を説得して、大学に牛尾を残すように言ったんだ。針生は最初からお前に決めてたんだがな」
 足元が崩れるようなめまいがした。
「医伯監会議は各班が出した人事案を他の班が否定することはない。それでも、楡井をはじめ、だいぶ反対意見が出たようだが、針生が押し通してくれた。そうだな、鷹羽がいたら、そうはならなかっただろうな」
 俺はAキャリアだったのか──伊野が言っていたことを思い出した。
「押切先生……どうしてですか。そんなにLPDが優先されなければダメだったんですか? それは牛尾じゃなければダメだったんですか?」
「すまん、葦原。牛尾やLPDなんて口実に過ぎない。俺がお前を手放せなかっただけだ。お前がいなければ、俺は普通の外科医に過ぎない。お前のいない手術をやっていく自信がなかったんだ。すまない」
 俺がAキャリアだったのか──自分の学外転落の理由を知って、葦原はどう感じて、思って、考えて、受け止めてよいのかわからなかった。この3年間の葛藤はなんだったのか。自分が牛尾に負けたのではないとわかって安心すればよいのか。信じていた上司に足を引っ張られたとして怒ればよいのか。
「俺がいてもいなくても、押切先生ほどの名手はいませんよ。市民病院PDも一番乗りだったでしょう」
「俺の学年で一番は真田だよ。あいつは市民病院出向前、大学院のときにはもう、外神先生とPD執刀をやっていたんだよ。俺はつくづく、ずるくやってきてしまった。真田が中部班のままだったら、俺はここにはいない。Aキャリア大本命のあいつが医局長として香盤表から抜けたから、俺は苦労せずに診療講師になった。その頃は同期のみんなには棚ぼただなんて言われていた。俺だってそう思っていたさ。でも、その直後にお前が下についてくれた。覚えているか。お前がここの学外出向から大学に戻ってきて、俺と初めてPDをやったとき、あっさりとベストレコードを更新できた。切りたいところが常にドンピシャで展開されて、まるで操られているように切っていたら、手術があっという間に終わっていた。それからだ、七刄会PD最速の押切なんて言われるようになったのは。全部、葦原のおかげだよ。葦原に前立ちをしてもらえたら、ドーピングしたように手術が巧くなる。そして、一度でも葦原の前立ちで手術する喜びを知ってしまったら、戻れない。もう、麻薬のようなもんだ」
「そんなこと言われても困ります……聞かなかったほうがよかったです」
 いっそ、知らされなければよかったとすら、思ってしまった。
「俺も黙ってりゃよかった。でも、SSSS(フォーエス)のときに真田に言われたよ──次の医局長にするから葦原を返せって。お前が

ってわかって、それでこうして白状する気になったんだ。俺は罪悪感に耐えることすらできなかった。すまなかった。俺の身勝手で、お前の足を引っ張ってしまった」
 押切先生は頭を下げた。その頭頂部を見ながら思った。俺の学外転落は真田先生にとっても不本意だったのか──いま、自分の中に渦巻いている気持ちの名前がわからなかったが、次第にそれが、落ち着いてきたようなのはわかった。
「押切先生、頭を上げてください。いいんです、私も別にAキャリアにこだわっていたのではないんです。私もここで改めて外科医のあり方を考えることができました。それに、牛尾は牛尾で七刄会中部班の新しい歴史を開いてくれましたし」
「あれだって、お前がやればもっと巧いさ。牛尾にまで苦労させてしまった」
 押切先生は頭を上げて、そう言った。
「でも牛尾は乗り越えましたよ。そうそう、七大グランドサージャリーだって、ここに来たからこそ考えついたんです。七刄会は一所懸命ですよ。それでうまくいっています」
 自分自身に言っていた。自分は、学外転落してもなお、それなりに務めは果たしてきたはずだった。転んでも(それに気づかないふりをしながら)起き上がったし、ただでは起きなかった。そのことが慰めだった。今だから、この告解を受け止めることができた。
「七大グランドサージャリーって、後期研修のやつか。藤堂先生が嬉しそうに離してたよ。それで、お前が本気の執刀ができる、巧い若手が発掘されるといいな」
「それは願ったり叶ったりですね」
「これから少しでも罪滅ぼしさせてくれ。俺にできることなら言ってくれ」
「いえ、こちらこそ、これからもよろしくおねがいします」
「あれはどうなんだ。久斯をその七大グランドサージャリー第1号にしてやったらどうだ?」
「あれは東京に戻ります。研究医になるんですから」
「そうか──しかし、七大外科医局長か。すごいな。Aキャリアなんか目じゃないぞ。七刄会で一番手術が巧い人間にしか務まらない。真田がそう認めたってことだ」
「はあ」
 医局長指名をまだ引き受けたわけではなかったから、うんともすんとも言えなかったが、真田先生が自分を指名したのはそう思ってくれてのことだったのだろうか。
「大学も医局も外科も敬遠される時代に、それらを切り盛りするのは大変だと思うが、俺は七刄会はうまくいっていると思う。総裁教授の代替わりがあっても、お前が医局長なら安心して引退まで働ける。これからの七刄会を頼むよ、葦原」
 押切先生は外科再編のことは聞いていないのかもしれない……そう思った時、押切先生がくしゃみをした。汗だくの術着で体を冷やしたのかもしれない。
「……じゃあ、俺は上がるよ──お前のPDについていくので、疲れ果てた」
 そう言って、押切先生は濡れた術着の上にロッカーから取り出した白衣を羽織って、更衣室から出ていった。
「すみません、いま戻りました」
 久斯が戻ってきた。術着から湯気が立っていた。手には研修修了証を持っている。
「おつかれさん」
「葦原先生、オペ、巧かったんですね。それならそうと、言ってくださいよ」
 東大卒研究医志望のアラサー研修医に言われるとなんだか脱力してしまう。
「外科医はそういうのは自分で言わないんだよ。目の前の外科医がやっていることが価値のあることだと見抜いて、黙って盗め」
 相手が研究医の道に進むとわかっているから、外科の極意をあえて言ってやった。
「それがわかれば、外科研修は合格だ」
 葦原は握手のつもりで手を差し出したが、久斯は両手で研修修了証を丸めながら、へい、とだけ返事をした。


 3月21日──。
 昨日ぐらいから、葦原は胃のあたりがどうにも不快だった。ここ数日間、外来、病棟、手術部それぞれの送別会に毎日のように顔を出していたから、食中毒になったのかとも思ったが、発熱・嘔吐・下痢はなく、とりあえずは出勤していた。
 院内では、初期研修を修了した私服姿の2年目研修医たちからすれ違うたびにお別れの挨拶を受けた。七大に入局するもの、出身大学や出身地に戻るもの、関東その他で後期研修をするもの、様々だ。葦原も、医者になってから何度も出入りしてきたこの市民病院ではあるが、今後赴任することはない。別件で訪れていた救急部で、平田先生を見つけたので、早めの挨拶をしておくことにした。平田先生には陰に陽に世話になりっぱなしだった。
「平田先生、お世話になりました」
「こちらこそ──これももう、三度目か」
「出たり入ったりお騒がせしました。平田先生は、外科に戻られるんですよね」
「藤堂先生から、外科をサポートしてくれと頼まれてね」
 平田先生は外科に戻ることになった。濱野救急総合診療科部長はベテランの重要性を知悉してか、平田先生に副部長ポストをオファーしたようなのだが、平田先生は今後の戦力を集めるべきとして固辞したという。葦原には不思議ではない。平田先生は今、七刄会総裁との30年来の暗闘の真っ最中だから、市民病院副部長ポスト程度では役不足なのだ。
「大学から医局のものが出入りしてご迷惑をおかけしますが、俺たちがうまくやっていられそうなのも、平田先生のような方がいてくれるからです。今後ともどうぞよろしくおねがいします」
「僕は僕で好きにやらせてもらうだけだよ。七刄会さんにもお世話になりながらね……それより、大丈夫かい、それ」
 平田先生が指さした──葦原は途中から右の下っ腹が痛むのを無意識のうちに手で抑えながらに話していた。意を決して、つま先立ちをしてから、かかとを落とした──痛みに顔が歪む。
「あらら、受診受付しておくよ、葦原先生」
 伊野が呼ばれた。ストレッチャーの上に横たわる上司の姿に驚きつつ、手際よく術前検査を進めてくれた。葦原が家族への連絡を終えると、伊野が言った。
「葦原先生、手術適応です。ちなみに、結核にかかっている可能性はありませんか?」
 その言葉に葦原は笑ってしまったが、右下腹部に突き刺さるような痛みを感じた。
「笑わせるなよ。だいじょうぶだよ」
 これはきっと、総裁の件を秘匿していたバチが当たったのかもしれない。
「すみません。執刀は大和先生ですか、押切先生ですか」
「……いや、ちょっと待ってくれ」
 葦原はPHSを鳴らした。電話の相手は、院内寮に住んでいたので、外科ローテート中はいつでも院内PHSで呼び出せていた。だが、すでに研修修了になっていたので、今頃は東京での研究者生活に入るために引っ越しているはずだった──。
「はい、久斯でーす」
 久斯はすぐに出た。
「……お前、まだいたのか。どこにいる」
中央診療棟(ちゅうしん)の4Fです」
 研修医の院内寮は中央診療棟6Fだ。4Fはスキル・シュミレーションルームだ。
「そこで今さらなんの練習してるんだ。東京の準備とかしてるのか」
「東京の準備ってなんですか。田舎の発想ですね」
「田舎でわるかったな。そんな田舎にも外科の神様がいたんだぞ」
「えっ? てっきり、この辺は外科の神様も過疎なんだと思ってましたけど」
「救急外来に来い──虫垂炎(アッペ)の手術をやらせてやる。伊野に教えてもらってしっかりやれ」
 葦原がPHSを切ると、伊野は眉をしかめていた。
「いいんですか」
「ああ、やらせてやってくれ。お前が前立ちだ、頼んだぞ。ミスさせんなよ」
 そこに久斯がやってきた。私服に白衣を羽織ったようなお出かけ回診の格好だったら、やらせないつもりだったが、いつもどおり術着でいた。本当にまだ外科研修医として病院に残っていた。最後の最後まで、魂を外科に置いていたというわけか。
「葦原先生、ストレッチャーの上に寝そべって、お行儀が悪いですよ。それで、アッペの患者さんはどこですか? また他院に送ったんじゃないでしょうね」
「ここにいるだろ」
 葦原は自分の右下腹部を指さした。久斯は口笛一吹き、笑顔で言った。
「あらら、葦原先生、運が悪いですね」
「患者様にそういうことを言うなんて初期研修不合格だ。まったく。悪運がいいな、お前は」
「へへへ、ごちそうさまです」
「ほら、術前の書類作業をしろ。それもこれも全部、外科仕事だ。同意書よこせ」
 葦原はサインをした。書類を受け取った久斯が、ポツリと言う。
「……葦原先生、約束でしたね」
「ああ」
 アッペがいたらやらせるとさんざん約束していた。約束は守る。
「葦原先生、いいんですね、僕が、アッペの手術をやりますよ!」
「大げさだな。リラックスしてやれ」
「よっしゃ、いっちょやってやりますよ」
 久斯はそう言って、両手にぷっぷっとツバを吹いた。
「不潔だろ!」
 大声で怒鳴りつけたいところだが、腹痛は増悪の一途で、思うようにならない。
「きれいに手洗いしますから──さっ、オペ室へ、レッツゴー!」
 手術部第二手術室。手術台の上で麻酔の準備を待っていると、藤堂副院長や大和部長、押切副部長らがやってきて、見舞い代わりに右下腹部を押して離して葦原が痛がるのを面白がって帰っていった。伊野が腰椎麻酔をかけ、先に手洗いをして戻ってきた久斯と交代で手洗いに出ていった。
「いやあ、感慨深いです。葦原先生にこうして、恩返しができるなんて」
 仰向けになって、腹を消毒される。伊野が戻ってきて滅菌ドレープをかけられる。
「恩返しじゃないだろ……手術をやらせてやってるんだから、これ以上の恩はないだろ」
 まさにまな板の上の鯉になった。もう逃げ出すこともできない。
「葦原先生、手術中はあまり話さないようにしてくださいね」
「じゃあ、話しかけんなよ」
局所麻酔(きょくま)のオペは患者さんに意識があるから声がけが大事だって教えていただきました」
「うるせえよ。さっさとやれ」
 久斯が宣言した。
「それでは、これから開腹による虫垂切除術を行います。よろしくお願いします──」
 虫垂切除術──葦原患者、久斯執刀、伊野第一助手──は50分で無事に終わった。
「じゃ、葦原先生、移動しますよ」
 病棟から帰室許可が出るまで、回復室で待つことになった。
「いってきまーす」
 伊野に標本整理を命じられて、久斯は戦利品のように葦原の虫垂を持って出ていった。
「久斯のやつ、うまくやれてましたよ」
「伊野のおかげだよ、サンキューな」
 手術が無事に終わるというのは、本当にありがたいことだと葦原は実感した。
「俺は別に……それにしても、久斯はあれなんでしょうね」
 伊野は苦笑して言った。
「あれってなんだ」
「きっと、外科をやりたいんだろうなって」
 医長トリオは揃って同じようなことを言う。しかも、伊野が久斯を名前で呼ぶとは。
「お前まで……

は研究医になるんだぞ」
「本当ですかね。ここに来て研修医を何人も見てきましたけど、久斯ほど外科を満喫してるやつ、いませんよ。実際、仕事もできますし。あれは、外科医になる医者ですよ」
「適性がありそうだからといって外科になる必要はない。外科がやれるなら研究をやらせたって大丈夫だろう。そもそも、ブンイチの口から外科をやりたいなんて聞いたことがない」
「久斯は葦原先生から誘ってほしいんじゃないんですか」
「外科医は、なってくれって頼まれて、なるようなもんじゃない」
「他の研修医は誘ってたでしょう」
「外科医になること自体は誘ってない。入局は誘ったがな。でも、誘って入ったやつはいなかった。みんな自分から申し出たんだ。外科医ってのはそういうもんだ。久斯が百歩譲って外科をやるのはいい。いや、今の時代に外科になってくれるのは、一外科医として大歓迎だ。だが、それなら、東大に戻って外科をやればいい。あいつは東大卒なんだ」
「七大より格上の大学出身者はジャマってことですか」
「そうじゃない。医者は自分の出身大学の医局に入るのが一番いいんだ。東大卒で他大学に入ってみろ、出世してもそこの大学出身者にはやっかまれるだろうし、出世しなかったらなんの意味もない。ずっと、出自と出世で悩むハメになる。孔雀だって、ところを違えば、みにくい白鳥の子だ」
 久斯はすでに博士号を取得しているから、大学院入学という入局方法は取れない。となれば、ただ単に入局するしかない。卒後から時間が経てば経つほど入りづらくなるし、遅れて入っても出世の目はない。戻るなら今しかない。久斯がこの病院を選んだのは、葦原が気軽に誘ったせいだったはずだ。ならば、葦原の口から誘うわけにはいかない。
「久斯ならどこでだって、出世しますよ。あんだけ図々しいんですから」
「だったら、なおさら東大でなりふりかまわずやったほうがいいだろう」
「東大にこだわり過ぎじゃないですか。そりゃ、東大医学部ってのは別格ですよ。でも久斯は文Ⅰ(ブンイチ)ですから。文Ⅰなら俺も葦原先生も余裕で入れますよ。万が一、正真正銘の現役東大理Ⅲ野郎が迷い込んできたら、そのときには冷たく追い返しましょう」
 葦原は苦笑した。そういう考え方もあるか──伊野は、それに、と続けた。
「久斯を七刄会から熨斗(のし)つけて東大に返すってのは、痛快じゃないですか。七刄会の初代教授は東大から来てもらったんですから、その恩返しにもなるでしょう」
「久斯を七大外科で育てて東大外科の教授にするってのか? お前、意外にとんでもないこと考えてるなあ」
「俺は七刄会プライド持ってますから。あいつはよいルートを選んできたんでしょう。医学部は東大、大学院も東大、じゃあ、外科医学ならどこですか? 七刄会外科(うちら)でしょ」
「まあな。外科なら俺たちはどこにも負けない」
 外科に関しては学術も手術も七刄会がナンバーワンであると自負している──はずなのに、この期に及んで、自分が東大卒に遠慮していたことを自覚して、情けないやらおかしいやらだった。七刄会外科で育つこと、ズバリ、七大グランドサージャリー研修生になることが、久斯のキャリアのプラスになるようにしてやればよいだけなのだ。東大医学部卒なら、これ以上のモデルケースはない。それを久斯が求めるなら──。
「あいわかった。久斯の方から相談されたら、虚心坦懐に検討しよう」
 伊野のPHSが鳴った──病棟の準備が完了したようだった。
「じゃあ、病棟に戻りましょう」
「ああ、頼む」
 その後の記憶は定かではない──人生ではじめて手術を受ける側になるという緊張の糸が切れたのか、久斯が標本整理から戻ってきたなと思ったくらいに眠ってしまったようだった。


 3月24日──。
 右下腹部に手を当てて病室の窓の外に桜の便りを探しながら、退院したらカレーライスが食べたいと思っていたところに、久斯がやってきた。
「葦原先生、回診です」
「おう、お世話様──腹が減って仕方がないよ」
 医者の入院に関しては、個室があてがわれる。大部屋で他の患者の横に医者がいたら患者も気になって寝られないからだ。個室差額料金は実費負担だが、食事は変わらず病院食なので、働き盛りの医者兼患者には全く足りない。
「週末には退院できそうですね」
「助かるよ。次の準備がいろいろ必要だからな。久斯はいいのか?」
「それはこっちのセリフです」
「どれがどっちのセリフだよ」
「僕の次の準備はってことですよ」
「だからそれを言ってるんだろ」
「だからそれを言ってるんでしょ──だって、僕は七刄会に入局するんですよ」
 こいつはなにを言っているんだ──七刄会に入ると言ったか?
「俺はまだ誘っていないぞ。いや、まだもなにも、誘っていないぞ。伊野になにか言われでもしたのか?」
 それは反則だ。久斯が自分から相談してきたら、考えると言っただけだ──。
「伊野先生は別になにも。ああ、ようやく個人的な連絡先は教えてくれましたけれど、何回かメールしたのに、いまのところは一回も返信してくれませんけどね」
「じゃあ、なんでそんな話をしだしたんだよ」
「約束したじゃないですか。アッペのオペがやれたら、七刄会に入局するって」
「は? なんだそれ。そんな約束、してないぞ」
「しましたよ」
「それは、お前にアッペをやらせてやるって約束をしただけだ」
「僕にアッペをやらせてくれるってことは、七刄会に入れてくれるってことでしょ」
「なんでそうなるんだよ」
「思い出してください、去年、外科ローテート2回目のときに、アッペが来たら七刄会に入るって外科の神様に誓ったんですよ。総会前の楡井先生も証人です」
「……ああ、あれは、アッペが来ないからって言った話だろ」
「だから僕も諦めかけてました。でも、葦原先生が自らのアッペを差し出した。あの腫れ渡ったアッペこそが、七刄会入門許可証だったのですね。しかと受け取りましたよ」
「ちょっと待て。お前、七刄会に入るってことは外科医になるってことだぞ」
「そりゃそうでしょう。(オトコ)久斯に二言はありませんよ」
「いったい、いつの間に外科医になる気になったんだよ」
「ここに見学に来て、糸結びを教えてもらったときです」 
 3年前、葦原がここに着任したての頃、医学生の久斯は研修病院見学に来ていた。
「はあ? そんな最初っから……待て待て、研究医はどうしたんだよ」
「僕はそれで外科に強い興味関心を持ったので、あれ以来、研究医になるなんて一言も言ってませんよ」
「あれ、そうだったっけ?」
 研究医志望というもの珍しさから、葦原だけがずっとそう思い込んでいたのか──久斯が研究医になるとそこかしこで吹聴していたのが恥ずかしくなった。
「ゴホン。なにをやるのでもお前さんの自由だが、東大に戻れ」
 久斯が七刄会に入局したいという意思があるのはわかったが、東大に入らない理由はあるのか、葦原は確認しなくてはならなかった。研修医というのは刷り込みが強いもので、最初に見たものがすべてだと勘違いしがちだが、慣れ親しんでいるところに入りたいという動機だけでは、久斯のためにこそ、受け入れてやるわけにはいかない。医者の一生がかかっているのだ。
「東大には戻りません。僕は七刄会じゃなきゃダメなので」
「なんでだよ」
「最初はノリで言っていましたが、いまは違いますよ。葦原先生がいるからです。葦原先生、手術(オペ)、巧いじゃないですか」
「そんなんで決めるなよ」
「外科はそれで十分でしょ。僕はまず、いい外科医になりたい」
 七刄会に入局したらよい外科医にはなれる。それは保証する。だが、それ以上は約束できない。
「東大にだっていい外科医がいるに決まってるだろ。東大で探せよ」
「そういう人に巡り会えるかどうかわからないじゃないですか。せっかく、次のステップにふさわしい人を見つけたんです。僕はここでやっていきたいです」
「お前なあ、よく考えろよ。七刄会に入っても特別扱いなんかされない。出世しづらいぞ」
「出世の話はしてませんが」
「出世の話になるんだよ、年をとったら。頑張っただけ報われたいんだよ。報われないと頑張ったことにならないんだよ。出世が自己実現なんだよ。いい医者ってのは出世した医者なんだよ。出世しないといい医者かどうかさえ議論されないんだ。お前、東大医学部まで出ておいて、夜中の当直で酔っぱらいの切創(キリキズ)の縫合をさせられたいのか?」
「出世を考えるからこそです。僕はもともと、東大医学部卒の中でも異端です。きっと、真っ当にやっている東大理Ⅲ現役合格ストレート外科入局のやつらには勝てない。じゃあ、手術が圧倒的に巧くなるしかない。それならいちばん巧い人のところで修行だ。トップ・オブ・トップの葦原先生のところです」
「お前はじゃあ、出世するために七刄会に入るっていうのか」
「ええ。くれぐれも丁寧に育ててください」
 久斯の出世のことを考えて東大入局を勧めていたのだから、葦原は迷ってしまった。
「七刄会に入ったからと言って、俺の下にずっといられるわけじゃない」
「それだけは困ります。じゃあ、入局しません」
「お前な、入局するっていうのはそういうことなんだぞ。自分でどこで働くかなんて決められないんだぞ」
「それは葦原先生がなんとかしないとダメでしょ」
「なんでだよ」
「葦原先生は僕がいないと困るでしょうに」
「なんで俺が困るんだよ。俺を巻き込むなよ」
 急に自分の話にされて面食らった。
「葦原先生が出世できないでしょう。僕という前立ちがいなければ論文を書けないんですから」
「別にいらねえよ、そんなの」
「ウソばっかり。葦原先生、教授になりたいんでしょ」
「はあ? 俺は教授になりたいなんて一言も言っていないぞ。いつ言った?」
 久斯は呆れたような顔で見つめてきたあと、大きく息を吸って言った。
「ず──────────────────────っと、そう

ましたよ」
「聞こえてましたってなんだよ、俺が言っていないのに、聞こえるはずがないだろ。東大卒は飯食ってないと鼓膜が勝手に震えるのか?」
「そうとだけ言わないのが動かぬ証拠です。医局が好きなのも、それをいずれは自分のものにしたいからじゃないんですか」
 カーッという音が鳴るほど、顔が火照った。
「違うよ! うちの医局はちゃんとしてて、いい医局なんだよ。それで好きなだけだよ」
「別に照れなくてもいいでしょ。わるいことしようとしてるわけじゃないんですから。一緒に手術して、論文書いて、僕は東大外科教授に、葦原先生は七大外科教授になりましょう」
「俺は教授になりたいなんて思ってない。断固、思っていない」
「ウソばっかり」
「ウソじゃない。第一、教授になって俺がなにをするっていうんだ。俺にそういうビジョンはない」
「なんでもいいでしょ。医局を好きな葦原先生が、好きな医局でいられるようにするってことでいいじゃないですか。医局が大事なものだって人一倍、わかってるんでしょう」
 大外科七刄会が割れることが思い出された。葦原はそれには断固反対だった。大外科が割れてしまったら外科医としてやれることも減ってしまう。なんでも切れて七刄会外科医ではないのか。教授になれば、それが止められるだろうか。俺が教授に──七刄会総裁になれるというのか。無理だ。無理に決まっている。
「……俺には教授になるだけの研究業績はない」
 大学院卒業時に全米外科医学会誌(JASA)に論文が1本、載ったっきりだった。あとは、SキャリアやAキャリアの出す論文の共著者として名前を載せてもらってきただけだ。
「これから数年間で立派な業績を作りましょう。PDの論文、JASAに載ったでしょう。ああいう感じでいけますよ。先生は切って切って切りまくって、僕は書いて書いて書きまくりますよ」
「俺は、留学経験もない」
 Sキャリアのような研究留学の経験も、Aキャリアのような臨床留学の経験もなかった。
「留学経験なんて所詮は、履歴書を1行埋めるだけのおまけに過ぎません」
「それじゃ、下のものに示しがつかないだろう」
「じゃあ、葦原先生、留学経験がある知り合いの中で、自分より手術の巧い人はどれくらいいますか?」
 そう言われてすぐに思い浮かぶ人間はいなかった。
「……医学部講座教授ってのは研究・教育・診療のトップだ。医学医療者としてのバランスが取れていればいい」
「バランスなんて発想、基礎医学講座にはありませんでしたよ。研究業績(インパクトファクター)の合計数しか評価されないんですから。でも、外科医学はそうじゃなくて、手術も大事ってわかってるじゃないですか。留学経験がなくても葦原先生は手術が巧いんだから、なんとかなりますよ」
「おだててもムダだ。俺自身、俺の中の教授というイメージに自分がそぐわないと思っているんだ」
「教授になってから、そう見えてくるんじゃないですか? 立場が人を作るって言葉もあるでしょ。東大大学院でお世話になった研究室から教授になっていった人を見ましたが、それまでは風采の上がらない人だったのに、その後に学術集会で見かけたときにはあら不思議、ちゃんとした教授に見えたものです。医者なんてのは、白衣を脱いで、ネクタイを締めておけば偉い人に見えますよ。とりあえず、葦原先生が現状、教授になれない条件なんてないんですよ。あとは、先生のやる気の問題です」
「やる気って、お前なあ……」
 それは本当なのか。
 俺が教授になれるというのか。
 教授に対する憧れはある。超人的な活動で大勢の医者を束ね率いていく別格の存在なのだからそうあって当然だ。その感覚こそが、医局講座制を成立させる原動力のはずだ。葦原はだが、自分が超人的だとは思わない。手術は頑張ってきたつもりだが、肝心の学術面がからっきしだ。論文を読んでいる途中で眠ってしまうし、夜も論文を書いてみたりすることもなくさっさと寝てしまう。多分、手術中に最大のパフォーマンスを発揮できるように無意識でそうしているのだろうし、それにあらがいもしなかった。だが、祢津や鷹羽先生はそんなことはないだろう。寝食を忘れて論文を読み、論文を書き、かつ十二分に手術もこなしてきているはずだ。そういう超人的な活動ができる人間にこそ、教授職は必然なのだ。
 いや、待て──俺は教授になりたいのか。
 俺はずっと、教授になろうだなんて色気を出さずに地に足をつけて外科医をやってきた。大学院在学中も、卒後にここに来たときも、また大学病院に戻ってからも、まっとうに外科診療をやってきたつもりだ。そしてこの3年前、学外転落が決定しても(納得していたわけではないが)それでもここの外科主任医長として部下や研修医の指導もちゃんとしてきたし、おかげでそれなりに入局者確保もできた。携わった外科診療で期待されている結果をもたらしてきたのは言うまでもない。外科の本道を果たしてきたはずだ。それでよかったはずだ。教授になりたいと思ってそうしてきたのではないはずだ。教授になれないとわかっていても、教授になれない医者としてであっても、これまでずっとまっとうにやってきたのだ。
 そうだ、別に俺は教授になれなくたっていい。医者が教授になれなくてはダメだなんて、そんなことを認めるわけにはいかない。
 俺には俺の物語がある──。
「俺には俺の物語がある」
「は?」
「俺は一医局員として働き、患者や病院、それから同業者の役に立ってきたつもりだ。別に、教授になれなくてもいいんだ。教授になれない医者にも物語があるんだ」
 久斯は不気味なものを見るような顔をして言った。
「なんか、気持ちの悪いことを言ってますね」
「お前な、一外科医の真摯な言葉に、気持ち悪いってなんだよ」
「そんなの言わずもがなでしょう。それぞれの医者にそれぞれの人生があって、患者の役に立っているなら、その優劣を決める必要なんかないでしょう。医者のキャリアで、教授になることが正解ってわけでもないし、逆に、教授にならないことが正解ってわけでもないでしょうし」
「教授にならないことが正解でもない……?」
「医学医療の世界で、医学部教授になるという一つのわかりやすい目標があって、葦原先生がそれになりたいかどうかだけです。物語って言うんなら、葦原先生自身が、自分が教授になる物語を思い描いているのかどうかって話です。葦原教授になりたくないんですか?」
「……俺がなりたいとかなりたくないとかじゃない。俺みたいな医者だからこそ、教授になってはいけない」
「なんでですか」
「だって、これで万が一、教授になってしまったら、結局、医者は教授にならないとダメだって認めていることになるじゃないか。俺は七刄会外科医だ。一所懸命だ。一外科医として与えられた任地で定年まで職責をまっとうするだけだ。それが、俺のキャリアの正解だ」
 久斯は、声を出さずに、うんうんとうなずいた。
「やっぱり、葦原先生は教授になるべきですよ」
「なんでだよ」
「偉くなれない医者がいてもいいっていう葛藤と覚悟がよくわかっている

が、そういう医者たちの物語を守ってやるべきなんですよ」
 伊野や日辻、平田先生の顔が次々に浮かんだ。
「さあ、今日が葦原外科の夜明けですよ!」
 葦原は、悪魔の囁きにあらがうように、頭を振った。
「ちょっと待て! お前の入局の話だろ。俺の話をしていたんじゃない」
 久斯が舌打ちをした。
「やれやれ……こういうの、認知的不協和っていうんですよ」
「ニンチテキフキョウワ? なんだよそれ」
「知らないんですか。認知的不協和」
「知らん」
「ムッツリスケベって言ってるんです」
「なんだと!」
 ムッツリスケベと言われて、さすがに葦原も腹が立った。
「手術以外はものを知らないんだから。こういうのも手術指導と引き換えに教えてあげます」
「お前、それが、これから指導を請う上司への言い方か!」
「わぁ! じゃあ、葦原外科入門OKなんですね! ありがとうございます。不束者ですが、どうぞよろしくおねがいします」
 久斯は深々と頭を下げた。その手が震えているのが見えた。こいつ、真剣なのか──。
「頭を上げろ……お前、あと3年したら何歳だ」
 久斯はすぐに頭を上げて、言った。
「31、32、33歳です」
 確かにストレート入局した東大外科医局員には水をあけられているのだろう。久斯のような人間は、東大医局の中で背比べをするよりは、外で業績を上げておいたほうが逆転の可能性があるのかもしれない。こいつは学術面で問題はない。臨床面ではどうするか──葦原の次の任地、石巻センターなら大手術もやれる。3年間そこで手術を仕込んで、それから海外に臨床留学をさせて、帰国したら東京の有名病院あたりで働かせておけば、チャンスはあるか。
「いいか、俺は別に教授になりたいなんて言っていない」
「はいはい」
「そのうえで、外科を勉強したい若手にその機会を提供するのは、一外科医としての責務であると考えている。だから、お前にも外科の勉強の機会を提供する。それだけだ」
「はいはい」
「返事は一回だ」
「はーい」
「久斯、お前は入局はさせない」
「えー、もう、いい加減にしてくださいよ。ケチ、どケチ! そんなんだから、出世競争に敗れるんですよ。もう、こうなったら、七刄会総裁に直訴しますよ!」
「それは絶対にやめろ。話を最後まで聞け。お前は七大グランドサージャリー第1号として迎え入れる。いや、まだ本格始動していないから、第0号だな」
 かいつまんで、七大グランドサージャリーについて解説した。
「うちで学べることなら俺が教えてやる。3年で一人前にしてやる。ここ数ヶ月でやったオペぐらいなら全部執刀できるようにしてやる。その後どうするかはそのときに決めろ」
「それって後期研修ってことですか? 郡司や降谷は入局するじゃないですか」
「お前は院卒だろ。そのルートを通る必要はない」
「そうだった、僕は東大院卒医学博士だった」
「そもそも七大グランドサージャリーは入局をさせないんだ。入局をしない状態で十分に外科の基本トレーニングを受けて、修了後に外科を選んでもよし、他科でもいい。他大学でもいい。大学院に入ってもいいし、研究医でもいい、厚生省で行政官になってもいい」
「ずいぶん気前のいい話ですね。そんなことをしていたら、七刄会は潰れますよ」
「やっぱり、やめた」
「うそうそ。七刄会は永遠に不滅なり」
「まったく」
「どうぞ、よろしくおねがいします」
「あいわかった。以後、お前は葦原外科の久斯だ」
 久斯が手を差し出した。
「お前な、目下から握手を求めるんじゃないよ」
 そうは言いつつ、葦原はその手を握った。東大文科Ⅰ類入学・東大大学院修了医学博士・東大医学部卒医学士・せんだい市民病院初期研修修了医師の久斯創は、こうして七大グランドサージャリー第0号かつ葦原外科入りを果たしたのだった。


 3月26日──。
 電子カルテ用のノート型端末を借りて、病室で手術記録その他の書類作業を片付けていたが、それも終わってベッドに腰掛けていると、ノックの音がした。
「にぎやかな病室だな」
 病室に見舞いの品が溢れかえっているのを見て、日辻はそう言った。
「わるいな、わざわざ見舞いに来てもらって」
 昨年末に、日辻が医局を辞めると話して以来だった。個室備え付けの来客用ソファに座ってもらった。
「元気そうでよかったよ──ところで、話ってなんだ」
 今日は葦原が呼んだのだった。
「さっそくだな」
「そりゃそうだろ。虫垂炎(アッペ)の術後じゃ、いたわってる間に治ってしまうだろ」
「まあな。いや、まだ極秘なんだけれどな……俺、次の医局長の指名を受けててさ」
「は? 医局長って、真田先生の次ってことか?」
「うん。総裁が3年後に本学総長になったら教授代替わりになるだろ。その頃に外科が分割されて複数講座になるようだ」
 いまから3年後、平成23(2011)年3月は、日辻が匿名の辞表で記載した退職の時期だ。
「……七刄会がまた割れるのか」
「ああ。講座は4つくらいになりそうだってさ──ただ、医局は1つのままらしい。で、その取りまとめ役として、俺に白羽の矢が立ったってわけだ」
「……なにからなにまで知らない話だな」
「そりゃそうだ、この話は多分、総裁と真田先生、俺とお前しか知らないよ」
「……王様の耳はロバの耳か。それにしたって、七刄会ナンバー2の医局長すら、七大卒同士で仲良く禅譲か」
「いや、医局長指名を受けたのは、俺が七刄会で一番手術が巧いかららしいぞ」
「……自分で言うか」
「七刄会の医局長は手術の巧さで抜擢されるみたいだからな。俺はさておき、真田先生もそうだし、先代の用瀬先生も手術名人で、Dキャリアから抜擢だろ」
 外科学教室2講座時代の統括医局長の用瀬先生は、医局長に抜擢されるまでは、日辻と同じ、(いまでいう)Dキャリアとして学外を転々としていた。異常な研究嫌いで大学のキャリアには全く興味がなかったようなのだが、手術の巧さ自体は折り紙付きで、医局長として帰学後は「神の手」と謳われた蔵王名誉教授の第一助手(まえだち)をなんなくこなしていた。葦原も大学院生の頃に第二、第三助手としてその手術に入ったことがあり、たくさん学ばせてもらった。
「まあ、お前なら務まるかもな。それで、次期医局長様は俺のような医局員も満足がいくように、出身大学でキャリアに格差が生じないように医局改革をするから、残って見守ってくれとでも言いたいのか?」
「ううん。日辻はもう、真田先生と面談して決めたんだろ。そうすればいいさ。それより、平田先生、覚えているか?」
 日辻は肩透かしにあったような顔をしながら言った。
「……ああ、さっき、廊下で偶然お会いした。あれから、ずっとここにいたんだって?」
 日辻も実地修練時代には葦原と同じくここで、平田先生に色々と指導いただいた。
「そう、それ、その話がすごくてさ──」
 平田先生が総裁と医学部同期であること、そして、総裁と30年来の暗闘を繰り広げているということを話すと、当然のように日辻も驚いていた。
「それは知らなかったなあ。それで生涯現役ヒラ社員か、すごい話だな」
「結局、人間、自分だけの戦いを見つけた人間の勝ちってことだな」
「……なにか言いたいのか?」
「ああ。俺も自分の戦いを見つけたぞって、お前に言いたくてな」
 日辻にわざわざアッペの見舞いにかこつけてきてもらったのは、この話のためだ。
「俺、教授になりたいんだとよ」
 日辻は口をぽかんと開けた。
「うちにさ、東大文系に入学して、途中で医学部に進路変更して、更にその途中で大学院で博士号を取ってから医学部を卒業して、つい先週まで初期研修やってた研修医がいるんだよ。しかも、研究医になるはずだったのに、外科医になるんだと。そいつに気付かされたんだよ。俺は教授になりたいんだってさ。認知的不協和って言うんだぜ、知ってるか? それで、俺も認めることにしたんだ──俺、教授になりたいから、教授になるよ」
「葦原、お前、さっきからなにを言ってるんだ」
「うちにさ、七大卒でもないのに、アメリカに臨床留学して、いま研修医に人気だからといって、博士号も持ってなかったはずなのに、この春から七大の教授になるやつがいるんだよ。だったら、手術が巧いだけの医者が外科の教授になってもおかしくないだろ」
「……留学経験がある医者なら、そういうこともあるだろ。お前は留学していない」
「俺は留学しているやつらよりも手術が巧いからいいんだよ。そう、うちにさ、Sキャリアになれなかったからって自暴自棄になってた若者がいるんだよ。そういうやつに、学外転落してからも、頑張って教授になれるって教えてやらないとな」
「……手術が巧いってことを気づいてもらえる場にいられてよかったな、葦原」
「手術が巧いからっていいことだけじゃないんだぜ。信頼していた上司に足を引っ張られたりすることもあるんだからさ。俺、前立ちが巧いからってさ、押切先生に付き合わされて学外転落したんだぜ。ずっと世話になってきたとはいえ、ちょっとどうかと思うよなあ、さすがに。でもまあ、手術が巧いってことで脳天気にやってきた自分もわるいんだけれどな」
「…………」
「だから、俺はもう、医局や誰かに振り回されるのはやめだ。人に足を引っ張られるぐらいの手術の巧さなら、武器にしないと損だ。俺は教授になる。論文を書くのは苦手だが、さっき言った東大卒のアラサー研修医がこれまたアホみたいに論文を書くんだよ。こいつと結託して偉くなろうって思ってさ」
「……本気で言っているのか?」
「ああ、本気だ。眼の前の手術をやって医局人事で動けば相応に報われるって考えていたけど、牛尾がAキャリアになって、俺は学外転落して、研修医に秘めたる野心ってやつを気づかせてもらって、ようやく目が醒めた。俺は教授になるぞ。そうと考えずにやってきたから、これからだとだいぶ遠回りしたことになってしまうが、思い立ったが吉日だ」
「教授になってなにをやるんだよ」
「研究班キャリアシステムの廃止と、香盤表人事の見直しかな」
 七刄会のキャリアシステムは、七大外科学教室出身者を自他の医学部教授に押し上げる上で、また香盤表人事は医局員を関連病院にシステマティックに配置する上で、それぞれ十分すぎるほどに役立っては来たのだろうが、初期研修必修化や後期研修志向という医療業界の変容、そして外科学教室の再編を前にして、限界が来ていると言わざるを得ない。医局というのが今後も大事なことに変わりはないが、その役割は、医者にとって良きトレーニングの場を提供することと、医者を適正に配置すること、このバランスを取ることに尽きる。それ以上のことは余分だろう。
「それで、医局員が納得と満足のできるキャリアを送れるようにしてやりたいと思う。手術をやりたいやつは手術をやればいいし、出世したいやつは研究をして論文を書けばいい。医局員同士でチャンスを取り合うこともあるだろうが、それは公平な勝負になるようにしてやりたい。もちろん、勝っても負けてもしこたま働いてもらうのが大前提だがな」
「それって、医局長になってやるのでいいんじゃないのか」
「やだよ。外科が4つに割れて4人も教授ができたら、もう収拾つかないだろ。俺は大外科七刄会が好きなんだ。俺は、七刄会には今後も大外科のままでいてほしい。だから、自分が教授になって、大外科を守る」
「確かに、それをするためには少なくとも教授くらいになっていないと無理だろうな」
「ああ。医者が自分でやりたいことをやるには、教授になるしかない」
「それがやりたかったのか?」
「いや、それだって、最近知った話で、そうも思ったってだけだ。俺にはきっと、医学部教授になりたいって気持ちがあったんだと思う。ビジョンとか使命感とか、そういう立派なものじゃない。漠然とした憧れだけなんだけれど、学外転落して、はじめて自分の本音に気付いたってわけさ」
 日辻は一息ついて、言った。
「俺はじゃあ、入院パジャマ姿のお前の教授志願決意表明を聞かされるために、呼ばれたんだな」
「ああ。お互い、医局クーデター組だ。もし俺がこれで医局を破門にでもなったら、東京に呼んでくれよ」
 日辻は大笑いした。
「みんなが葦原を好きな理由、ようやくわかったよ」
「なんだよ、じゃあ、お前は俺のことが嫌いだったのか」
「そりゃそうだ。お前は実地修練の頃から抜群に手術が巧かったからな。俺はいまだにちょっとした手術だってビクビクしながらやってるのに、お前みたいに手術で困ることなく、いつも楽しそうに、温厚に、ひょうひょうとやっている天才外科医なんて、好きになれるかよ」
 日辻は立ち上がった──その顔はここで一緒に実地修練していた頃のようだった。
「頑張れよ。医局長じゃなく教授になったら、葦原外科に入局して、田舎で定年まで働いてやるよ」
 そう言って、日辻は帰っていった。
 翌日、葦原は退院した。


 3月28日──。
 冬の天井が抜けたような青い空がすがすがしい。旧病院時代の正門を通って入った七大病院の敷地内では色の濃いサクラが咲いている。ソメイヨシノではなくエドヒガンというのではなかったか──手術以外でもそれなりにものは知っているのだ。
 大学病院のエントランスから入り、外来診療棟のホスピタルモールを横目に医学部研究棟につながる鉄の扉を押し開けると、節電のために薄暗く照明された廊下が続く。少し進んだところのエレベータホールから、7階の外科医局フロアに昇った。目当ての部屋の扉の上には年季の入った「外科学講座医局長室」の看板が出ているが、扉の横の壁には「七州大学病院外科特命教授室」と書かれた比較的新しいプレートが貼られている。さらにその上にはまっさらな「七州大学大学院医学系研究科特任講座みやぎ未来医療整備戦略室教授室」のプレートが新たに貼られていた。ただ、新しい方の看板はごくわずかだが傾いている気がした。
「失礼します──」
 医局長室に入った。真田先生にソファを勧められて、座った。
「もう、腹はいいのか。見舞いに行けなくてすまなかったな」
「いえいえ、だいじょうぶです。お花、ありがとうございました」
 医局からは名代として楡井がお見舞いに来てくれていた。
「研修医にやらせたって? 無茶をしたもんだ」
「真田先生のマネをしました」
「あったな、そういうことも。おかげさまで、元気にやってるよ」
 昔、真田先生が急性虫垂炎になったときは葦原が執刀した。患者が手術を受けたことを忘れていられるのは外科医冥利に尽きる。真田先生は机仕事を終えて、葦原の向かいのソファに座った。
「これ、お見舞いのお返しです。医局の皆さんでどうぞ。それから、VIPのPDをうちに寄越していただいてありがとうございました。LPDでなくても、大学でふつうのPDはできるでしょうに」
「総裁は七電社長とは仲が良いからな、最善策をお選びになったのだろう」
「……ははは」
 元市長と牛尾の立場がないような発言だったが、葦原は知らんふりをして、懐から封筒を出した。例の匿名の辞表だ。受け取った真田先生はいぶかしげな視線を寄越した。
「この間の、医局長ご指名の件ですが、つつしんでお断りさせていただきます」
 真田先生はソファの背もたれに押し付けられたようにのけぞった。
「驚いたな……葦原が俺の頼みを断るとは思わなかった」
「俺もです。初めてかもしれません」
「理由を聞かせてもらおうか」
「真田先生、俺は偉くなりたいんです。七刄会ナンバー2も魅力的ですが、俺はもっと上を目指したいんです」
「ほう……葦原にも野心があったか。で、偉くなるって、具体的に?」
「えーと、教授になります。教授になりたいです」
 我ながら大それたことだと思うが、これが本心だ。笑われてもいい。怒鳴られてもいい。俺は外科の教授になりたい──。
「それなら、総裁に頼んでやるよ」
 真田先生はこともなげに言い放った。
「そんな、医局員の結婚式での祝辞依頼でもあるまいし、簡単なものではないでしょう」
「だいじょうぶだよ。お前の腕と総裁の推薦があれば、その辺の教授ならなんとかなるだろ」
「えー……七大でもですか?」
「七大? 総裁の後継の座を狙っているのか?」
「ええ、まあ。医者は出身大学の教授になって100点だと聞きますもので」
 真田先生の顔が変わった。長い付き合いだからわかるが、これはバカを見るときの顔だ。
「お前、この5年間に何本、論文書いた?」
 言わんとしていることはわかる。教授選考では直近5年の研究業績が重視される。学者としてコンスタントに研究し発信しつづけられることが求められるのだ。遠い昔にホームラン級の業績を1本出していたくらいでは、それがノーベル賞でもない限り、勝ち目はないだろう。
「えー……………………と、0です」
 言ってみて、恥ずかしくなったが、意外そうに真田先生は言った。
「3本だろ」
「えっ、3?」
「最近、Kushiってのをイコール・コントリビューターにしてジャカスカと論文を出しているだろ。解剖異常、PD成績、結核性虫垂炎だったか」
 葦原はそのどれも自分で書いたという認識がなかった。それらは久斯が書いたものだったからだ。そして、久斯が自分を筆頭著者ではなく、イコール・コントリビューターにしていたのにも気づかなかった。これは、筆頭著者が2人いるものとして共同の業績にカウントできる。
「さっきの七電社長のPDの件も、総裁がお前たちの論文をご覧になって、指名されたんだ」
「あっ、そうだったんですね」
 真田先生いわく、総裁は、一日一回は医学論文検索サイト(パブメド)でご自分のお名前を検索されているとのことだった。医局員は発表論文に必ず総裁の名前を最終著者(ラストオーサー)として入れるから、総裁がご自身の名前で論文を検索することで、教室全体の論文発表状況が一望できるというわけだ──市民病院の最後のPDは久斯が書いてくれた論文のおかげで転がり込んできたのか。
「総裁を最終著者にしていたから俺は黙っていたが、針生なんか、大学に断りなく市民病院のメンバーだけで論文を出してるって怒ってたぞ」
「やべっ。いや、その久斯ってのが、論文モンスターっていうか、勝手に書いて勝手に出しちゃうんですよ」
 久斯の例のプロフィールをかいつまんで説明した。
「なるほどな、合点がいった。手術の天才葦原が、論文モンスターの研修医に論文を書いてもらって、天下取りの野望が芽生えたと」
 わざと意地悪な言い方をしたのだろうが、言われてみると、恥ずかしくて仕方なくなった。
「……撤回します」
「撤回しなくていい。葦原がヘタに自分でやろうとするのではなく、論文を人に書かせるって割り切れるなら、勝算はある」
「えー、本当ですか?」
「医者には向き不向きがある。俺の学位論文だって、ほとんど外神総裁に書いてもらったようなもんだ」
「あっ、そうだったんですか」
 真田先生らの研究指導教官は外神総裁だった。
「いや、俺もだいぶ吉良先生に

してもらいましたけど」
 葦原が書いた論文は吉良先生の徹底的な添削によって、ほとんど別物の論文となり、一流学術誌に掲載された。
「だが、七大教授ならもっと論文が必要だ。楡井や栄祝ら講座スタッフは呼吸するように論文を書いている。手術の腕を評価されるのはそこをクリアしてからの話だ。教授を狙うなら、もっとそいつに書かせろ。鷹羽が戻ってきたから、一筋縄ではいかないぞ」
「そうなんですよ、困りました」
 そう、鷹羽先生が戻ってきてしまった。そのことを医局員の一人として歓迎したいはずだったが、葦原は自分が教授になる上で、手術が十二分に巧い鷹羽先生の存在が最大の障壁だと気づいてしまった。ちょっと前まで、鷹羽先生に比肩しようなどと大それたことは考えたこともなかった。でも、今はもう、そう思ってしまっている自分がいるのだ。
「……真田先生、なんだか協力的に聞こえるんですが」
「可能性はあるからな。お前には手術という武器がある」
「いやいや、俺がなったら困るでしょう。医局には役割分担があるじゃないですか」
「困らないよ。外神総裁が総長になったあとの七刄会は、お前たちがうまくやっていけばいい」
「えー、ダメでしょう。医局員が謀反(クーデター)を起こすようなもんですよ」
「医局員がなにかしたいんなら俺は応援するさ。教授になるでも開業するでも、医局を辞めるでもな」
「でもそうなったら、医局長はどうします?」
「それは教授になってから、お前が考えるんだろ。お前の教室になるんだ」
 なんだか調子が狂ってしまった。医局長指名を断ったことを一喝されでもしたら、反発して覚悟も固まりそうだったのに、まさか教授になることを応援されるとは──役者の違いを思い知らされたようで、葦原がうなだれていると、真田先生は持っていた辞表を開いた。
「あっ、それ……」
 葦原は慌てた。
「お前、医局を辞めるつもりだったのか」
 葦原は、日辻の辞表だったものに書かれた真田先生の名前を消して、自分の名前を書いていたのだ。
「……医局の命令に歯向かうことなるので、それが筋だと思いまして」
「辞めてどうする? Kushiってやつと関東にでも駆け落ちするのか? 関東の私大の教授になって、そこから七大返り咲きってのはダメだぞ。七刄会外科医は一所懸命だ」
「まさか、そんな器用なプラン、考えつきませんよ。今のところはノープランです」
 やけに具体的に教授立身プランを話すあたり、真田先生もあるいはと思って、と訊いてみた。
「真田先生は医局長でよかったのですか? もっと他の道があったのでは?」
「外神総裁を総長にするのが俺の天命だ。お前はお前で頑張れ」
「はあ」
「Kushiってやつはどうするんだ?」
「あっ! そうだ、真田先生、急でもうしわけないんですが、そいつを石巻センターの後期研修医にしてやりたいんですが」
 久斯を勝手に葦原外科門下生かつ七大グランドサージャリー第0号に引き入れておいて、その段取りはなにもしていなかったのだ。
「わかった。あとで一報入れておくから、あっちの事務方と確認しておけ」
「ありがとうございます」
「これはどうする?」
 真田先生が辞表をひらひらとさせた。葦原は本心、医局を辞めるつもりはない。
「あ、捨ててください」
 真田先生は机に戻り、辞表をシュレッダーにかけた。日辻が名前を書かず、真田先生が名前を書き、葦原が上書きしたそれが耳障りな音を立てて、消えてしまった。それと同時に、ずっと抱いていた疑惑も消えてしまった。途端に恥ずかしくなった。
「真田先生、すみません。てっきり、先生が俺を医局長にするために学外転ら……転出させたのかもって、ちょっと自惚れと逆恨みをしてたんです。でも、違ったんですね」
 結局のところ、葦原にとってはそれが一番の気がかりだった──そうではなさそうだとはわかっていても。
「あいつから聞いたのか?」
 真田先生は机の横に立ったまま言った。真田先生にとっての「あいつ」は同期の押切副部長だ。葦原はうなずいた。
「医伯監会議の決定に俺は口出しはしない。意外な決定だったから、あとで針生を締め上げたら、あいつにそう仕向けられたってことは聞いたがな」
「俺、すごいショックだったんです。自分が大学に残れると思っていたので」
「みんなそうだ」
「……確かにそうですね」
 人それぞれにキャリアがある──だが、Aキャリアや教授(Sキャリア)になることが勝ちなのではない。そこは新たな勝負のスタート地点でしかない。Bキャリア、Cキャリア、Dキャリアが負けなのでもない。それを言い訳に歩みを止めてしまったとき、負けが確定するのだ。俺はこの3年間、いや、医者になってから今まで、本当にちゃんとやれただろうか──葦原は考え込んでしまった。
「あれ、じゃあ、俺、どうしたらいいですかね、真田先生」
 全ての疑問と疑惑が晴れて、教授になってもよいとさえ言われて、すっかり力が抜けてしまった葦原は、ソファに(うず)まりながら尋ねた。
「七大グランドサージャリーを動かしながら考えればいい。新しい道が見つかったら、誰かに引き継げばいい。それまでは、これだな──」
 葦原は書類を渡された。辞令だった。
「……えーと、聞いたことのないものに任命・叙階されてるみたいですが」
「お前のために、総裁に頼んで急ごしらえだ。うちは万事、大げさだが、医局にいる間は従ってもらうぞ。さて、

の初仕事だ──」
 真田先生は薄いダンボール紙に包まれた物を寄越した。受け取ると、予想以上にずしりと重い。開くと、『七大グランドサージャリー事務局』と達筆で記されたプレートだった。
「総裁直々の揮毫だぞ。外の廊下に貼っておいてくれ」
「え、俺がやるんですか」
「他に誰がやるんだよ。お前が言い出しっぺだろ」
 そう言われると反論しようもない。ただ、いつも思うのだが、言い出させっペが言うのはズルい気がする。
「外の看板、曲がってましたよ、新しい、特任なんとかのやつ」
「そうか? お前がいないから俺が自分で貼ったんだ。秘書もやらないし、大学事務も丸投げだし」
「俺、七刄会医伯総監ってもっと偉いもんだと思ってましたけど」
「教授以外はみんなドングリさ。特命なんとかはもう外しておいてくれ」
「へい。でも、俺が万が一、教授になったら、若くて可愛い専属秘書を雇いますよ──って、真田先生、特任教授だと教授秘書がつくんじゃないんですか?」
 真田先生は首を横に振った。
「今回のスポンサーはケチだから、秘書がつかん」
「あらら。それはご愁傷様です」
 軽口をたたきつつ、葦原は頭の中ではもう看板の取り付けに必要な段取りを思い浮かべていた。ついでに、真田先生が取り付けた特任教授のプレートも直してしまおう……。
「葦原、頼んだぞ」
「へい」
 葦原は医局長室を出た。ふと思いついて、医局会議(カンファ)室を覗いてみた。誰もいない。部屋の最奥の壁に、七刄会外科医の信条が掲げられている。
「──だよな」
 医局員だろうが医局長だろうが──教授だろうが──七刄会外科医は一所懸命だ。
 もう一度、受け取った書類を開いた。

『辞令  七刄会医伯長 葦原 建命 殿
     七刄会事務局次長に任ずる。
     七刄会医伯副総監に叙する。
 発令 平成20年4月1日 七刄会総裁 外神悠也』


─────
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登場人物紹介

葦原建命(あしはら・たてる)

 七刄会医伯正

 七州大学病院外科診療助手(中部班)

久斯創(くし・つくる)

 せんだい市民病院「アラサー」初期研修医

 論文モンスター

 

真田善次(さなだ・ぜんじ)

 七刄会医伯総監

 七州大学病院外科特命教授

 七州大学医学部外科学講座医局長

藤堂壮平(とうどう・そうへい)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院副院長

 「雷神藤堂」「七刄会ラパ胆のパイオニア」

大和達郎(やまと・たつろう)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院外科部長

 「肝臓手術の名手」

押切慶二(おしきり・けいじ)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院外科副部長

 「七刄会PD最速」

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