ふたりで独り。

文字数 1,719文字

 17歳の時にパニック障害と診断され、あいつと出会った。

 残念ながら、「あいつ」とは救世主の恋人や生涯の親友ではなく、ただパニック障害という文字すらが怖いため「あいつ」と呼ぶことにしただけだ。

 もう3年の付き合いになるが一向に仲良くなれる気配がない。むしろだいぶ嫌われているようだ。言うまでもなく私も嫌いだ。

 そもそもあいつの事はどれくらいの人がご存知だろうか。
 物知りの人であれば、
「突然もしくは電車に乗ったり閉鎖空間にいて逃げれない場所にいる時に発作が出やすい」

 という症状くらいは知っている人は多いのではないだろうか。

 だが、私の場合は少しややこしい。ようするに私に付きまとっているあいつは、他のやつより性格が幾分か悪い。
 そして必然的に私もあいつ同様、性格に難があるということになるのだろう。

 自分の場合は楽しんでいる時、つまりあいつの事を忘れているときに発症する可能性が極めて高い。

 あいつは今どきの言葉でいう、厄介なメンヘラ野郎なのである。それと同時に必然的に当人も拗らせ厄介メンヘラ野郎になることに気づき、今、あいつにそのレッテルを貼ったことに少しだけ後悔した。

 あいつは「お前は楽しんではいけない。」「一生私の事を忘れてはいけない」と言っているかのように、私の脳に暴力的に語りかけてくる。私がお前に何をしたというのだろうか。まったく、身に覚えのない事で私は呼吸の仕方を忘れ、視界と聴覚をえぐられ、脳に鉛筆を刺されたような感覚に、もう何年も苦しんでいる。

 この障害の名前とは無縁の生活を送ってきた人にとって、今恐らく私は相当精神がやられているのか、妄想癖がある、近づいてはいけない人間だとでも思われているのだろうか。

 残念だがこれは紛れもなく私の通常運転である。

 むしろ私はこの一面を除けば社会に適合し過ぎているくらいだ。初対面の人には必ずいい印象を持たれるし、周りもよく観察できる。困っている人がいれば躊躇なく助けるし、正義感だって強い。

 ただこの全ては自分に自信が無いから、持ち合わせる容量、そしてそもそもの器がないからこそ、その代わりに作られた偽装の数々であり作品であり間違いなく「私」なのである。

ここで、忘れないように言っておくが、あいつは私で私もまたあいつなのである。全てはひとりの脳の中で単純かつ悲しい程に完結し、あくまでも自分をあいつと認めたくないがための責任放棄であり、ただの思春期特有の自己嫌悪の類いである。

 よくありふれた日常の中でごく自然に、自分の人生に諦めをつけた大人達はよく私に「まだ若いんだから」「羨ましい」と言う言葉を口にする。ありがた迷惑とはまるでこの事なのだろう。何故、素晴らしい未来が約束されているかの言い方を何故何の躊躇いもなく発する事が出来るのだろうか。

何の責任も持たないくせに希望の言葉を簡単に口にする。今ここで消えてしまいたいを超越した感情と、口から手が出るほどに、希望が、未来が欲しいという矛盾した感情がぐちゃぐちゃに中和して、とんでもなくグロテスクな物体として今、生きているこんな自分に「羨ましい」という感情を投げかける人がいることが私は面白く滑稽にされているようでしかたない。

はたまた、私がまだ天邪鬼のガキだから、大人になれば、全ての希望を失えば、その意味を痛い程に痛感するのだろうか。いや、その前に朽ち果てていないことを静かに祈ろう。

 一生自分はあいつのせいで、いや、あいつとしか
 この先どこにも行けないのだろうか、心から楽しいという感情を味わうことが出来ないのだろうか。
 過去に囚われている以上その不安が希望に変わることは決してない。それだけは明確に理解しているつもりだ。

 好きはいつか嫌いになる。諦めないといけない時が来る。そんなルーティンの中での生活は辛くただただ悲しい。
 だからこそ「好き」に自信をなくす。

 この先何年生きるか、あいつと別れることができるのか。はたまた依存しているのは私の方だったりするのか。本当に人生は脱落してからがスタートラインなのだろうか。

 そんなことは分からないが、いや、分かりたくもないが、今日もあいつのわがままに付き合い、私は命を削る。
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