完璧帰趙

文字数 2,000文字

 (ちょう)王に(しん)王から1通の手紙が届いた。

和氏(かし)(へき)をよこせ。15の城塞都市と交換してやるから』

 和氏の壁はドーナツ型の宝石。至宝。けれど秦は強大で断ったら攻め滅ぼされそう。渡しても約束を反故にされそう。秦は嘘ばかりと有名だった。
 王の眼下に拝した藺相如(りんしょうじょ)は物腰は柔らかかったけど王は直感した。こいつはヤベー奴だ。

「仔細は聞いとります。渡さんわけにはいかんでしょうけど取られるだけやと周りに侮られてしまうやろし」
「どうしたらいいだろう」
「他に誰もおらんのでしたら、私が行って参りましょか。15城市と引き換えやなかったら、必ず璧を趙に戻しますよって(完璧帰趙)

 その目元は、穏やかなであるのにもかかわらず有無を言わせぬ迫力があった。

◇◇◇

 秦の王都咸陽(かんよう)の離れ。
 秦王は璧に満足して左右の寵臣や貴妃に回して自慢した。その目に趙の使者は映っていない。城市を譲るつもりはなさそう。居並ぶ臣から使者に気の毒そうな視線が集まる。口約束が破られることはよくある。それにここは敵国の国都。王の思うまま。
 そう思っていると、使者は王の足下に寄り声をかけた。走る小さな緊張。

「その璧には傷がありますよって、お見せ致しますわ」

 多くの臣はへつらうだけかと息をつく。王は気軽に璧を使者の手に乗せると、使者は見る間に壁際まで後ずさった。誰も反応できずにいると、使者はふうん、と言って柱に背をもたれて顔を上げ、その眼前に優雅に璧を掲げた。

「ほんまに上等な璧。せやのに秦の振る舞いは下等やね」

 理解できなかった。下等。強大な秦がそう言われるとは。

「ぶ、無礼な! 早くその璧を」
「この璧は至宝なんよ。趙は協議したんやけど秦に差し上げても城市はもらえへんいう結論やった」

 そこで使者は言葉を切り、璧に空いた穴に指を入れてくるくると回し始めた。今にも勢いで飛んでいきそう。先ほどとは違う緊張が走る。それは至宝。

「でも平民でも騙しあわんのに国同士やし大丈夫、と申し上げたん。でもやっぱり秦は犬畜生にも劣るんかな?」

 その言葉に流石に臣下はいきり立ち、使者に迫ろうとした。

「動くな、璧を割るよ」

 が、その一言で再び議場は凍りつく。本気だ。
 使者は璧の縁を指で摘みぷらぷら揺らす。壁は重く何かの弾みで落ちれば割れる。あの至宝が。

 ゆらゆらと揺れる指先から、ふふふと低く笑うその声音から、強い怒りを体現したような陰の気があふれ、使者の髪が逆立つようにも見えた。薄い笑みから狂気が染み渡る。

「王は約束守る気があらへんようでしたさかい、璧はお渡しできまへん。もし奪うなら、この璧と一緒に私の頭をこの柱にうちつけて砕きましょう?」

 使者は璧を持つのと反対側の手で背後の柱をコンコンと叩く。
 やばい、こいつはマジモンだ。本気だ。場の一同が感じ取ったこと。

 璧の破壊。約束を反故にして璧を割られて使者を殺したなんて格好がつかない。国の沽券に関わる。
 王も察した。使者が本気なのも。
 王は急いで地図を出し、ここからここまでと雑に示した。雑すぎたからそれが急場のしのぎで本気じゃないのは明らか。場が凍った。
 けれども使者はにこりと笑みを深めた。

「そうおっしゃるならお渡ししましょ」

 王がほっと手を伸ばすけど使者はまたふわりと後ずさる。

「けどこれは趙の至宝。趙王は5日、身を清めましたんよ。秦王も同様になされませ」

 そう言いながら使者は璧を挟む指先をじりじりとその端に更に後退させた。もう璧は使者の爪先わずかに留まるくらいで風が吹けば落ちて砕ける。全ての瞳がその爪に集まる。ああ、落ちる。

「わ、わかった。5日、5日だな、待たれよ」

 5日の間王は暗殺を試みたが、使者は常に金槌を片手に懐に璧をいだき、何かあれば割りますよ? と目で訴えかけていたから、手を出すことなどできなかった。

◇◇◇

 そして5日後。

「璧を渡してもらおう」
「さすが王、けれど」

 使者は言葉を切って、申し訳なさそうに場を眺め渡し、平伏した。

「申し訳ありまへん」

 誰もが困惑した。使者が懐から取り出したものは、ただの石だった。

「なっ。どういうことだ!」
「王よ。秦は昔からキッチリ約束を守った王はあらしまへん。やから王を信じ切ることが叶いまへんでした」

 何という事。使者は王の門前で信用できないと言ってのけた。

「人を使うて璧は趙に戻してしもて、もうここにはあらしまへん。けど15の城市を先に頂ければ、趙が壁を惜しむことはありまへん。すぐお手元に届くでしょう」

 使者は信用できないと言うだけでなく大国の王を謀った。
 その事実に全ての臣下は驚愕する。

「せやけど私はえらい無礼を働きましたから、煮るなり焼くなり好きになされませ」

 議論は紛糾したが、使者を殺しても璧が手に入らない。それなら趙と有効な関係を築いた方がマシ。謁見が終わり使者が去るまで、王は地獄の獄卒のような顔で奥歯をギリリと鳴らしながら、使者を睨みつけていた。
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