番外編「あなたと共に」10

文字数 5,950文字

 頭の中が真っ白になっている僕をよそに、テリエルは先に我に返ったようだった。

「それは、ランクも承知したということなの?」

 声が怒っている。否定すべきかどうか分からない。
 それを望んでないのかと問われれば、望んでいる自分もいるのだから。

「本人がいるんだ。聞いてみればええ。どうだ? ランク。厭か?」

 皆の視線が集まって、変な汗が噴き出してくる。
 どう言えばテリエルに誤解を抱かせない? ここでぶちまけるのも、否定するのも間違いだ。

「い……いや、ではないです。でも、急なことで、えっと……」
「そう。ランクは、お爺様の言うことなら何でも聞くのね」
「そういう訳じゃないよ? お店もテリエルも大切だから、ちゃんと……」

 彼女の表情は冷たく固まったまま動かなかった。

「お爺様。私にも考える時間をください。さすがに、この場で返事を求めはしませんよね?」
「おぅ。なんなら、二人で話し合え。月が終わるくらいまでは待ってやる」

 ひどく張り詰めた空気をものともせずに、ヴァルムさんは食事を続けるのだった。



 食後にビヒトさんが怖い笑顔でヴァルムさんを引きずっていったので、僕はしくしく痛み始めた胃を押さえつつ部屋に戻ろうと階段に足をかけた。
 テリエルがどこかの金持ちに嫁ぐのも嫌だけれど、こういう形で結ばれたいわけでもない。せめて、好意を仄めかしておけば良かったのだけど、検査と研究にのめり込んでいるテリエルとの距離を縮めることは難しかった。
 ため息がこぼれる前に、テリエルの声がした。

「ランク? 胃が痛いの?」
「……ああ、少しね。大丈夫……」

 上手く微笑めたかどうか分からない。彼女もなんとなくぎこちないから、そのまま階段を上り始める。
 と、服の裾を引かれた。

「……薬をあげるわ。医務室に来る? 部屋に持っていく?」

 断ろうか迷ったけど、ここで断れば、気まずいまま話せる機会がなくなるかもしれないと思った。

「取りに行くよ。本当に、酷いわけじゃないから」

 すっかり薬品の臭いが染みついた部屋に入ると、椅子を勧められる。そこに座るのは初めに健康診断した時以来だった。
 彼女は奥の部屋から粉薬を一包持ってきて、水と一緒に渡してくれた。

「ランクは先に打診を受けていたわけじゃないの?」
「違うよ。驚いた」
「じゃあ、断ればいいのに」
「……断ってほしい?」

 訊いてしまってから、僕は手の中の薬を飲み干した。頷かれたら、断るしかなくなってしまう。
 テリエルはしばらく黙って、それからぽつりと呟いた。

「……わからない」
「僕が断ったら、どうなるんだろう」
「ビヒトと結婚するんじゃないかしら」

 そこは、確信があるようだった。少し投げやりに吐き出された言葉に、視線を上げる。

「そうか……ビヒトさんなら、色々安心だものね」
「……もぅっ! そうやって、どうしてみんなお爺様のすることを肯定するの? 自分の人生を狂わされるのよ? もっと怒って、抵抗してもいいんじゃない?」

 テリエルは、僕らのために怒っているようだった。

「いつでも選べるといいながら、実は答えを誘導しているんじゃない? やりたいことが、できてないんじゃない?」
「そんなことはないよ。僕は、この仕事が楽しくて仕方がない。この家もこの土地も大好きだ。きっと、ビヒトさんもそうだよ。彼のしていることは、いやいやできるものじゃないよ……テリエルは、お爺さんに連れてこられたから、ここにいるの?」

 虚を突かれたように、彼女は目を見張って、それから首を振った。

「違う。私が来たかったの。お爺様は、叶えてくれただけ……」

 今回も。確かに乱暴だが、一番テリエルの希望に沿う方法を提示している。
 話してはいなかったけど、偶然なのか僕の意向にも沿った話だ。

「……私、お父様には迷惑をかけたくないわ。たぶん、お母様との間に立って一番胃を痛めたのはお父様だもの。お母様の傍についているけど、ちゃんと私のこともかばってくれているはず。じゃなければ、とうにお城に連れ戻されているはずですもの」

 ちゃんと解っているのだと、彼女は力なくうつむく。

「だから、私は受け入れなきゃいけないと思うの。ここを離れたくないんだもの」

 彼女の言葉に力はないけれど、彼女の一番の望みは分かる。

「そう。それじゃあ、テリエル。僕もまだここでこの仕事を続けたい。君と一緒にいたい。君の目がカエル君を追いかけていても構わない。だから、僕と結婚してくれますか?」

 その手を取り、挨拶のように口を寄せるだけではなく、しっかりとその甲に口づける。
 見上げた彼女は思ったように動揺していて。

「……どうして? どうしてランクがそう言うの? だって、お願いするのは私の方でしょう? 形だけなんてふざけるなって、怒らないの?」

 そこは後々じっくりと攻めるつもりだとは、言えない。にっこりと笑って、まずは彼女に選択権を示す。

「怒らないよ。テリエルがどれだけカエル君と一緒にいたいのか、この目で見てきたからね。それを諦めろとは僕には言えない。彼が治ったら、別れてもいい。それまで指一本触れるなというなら努力しよう。そうできるくらいには、僕は君が好きだから、仮初めでも妻と呼べるのは嬉しいよ。それとも、テリエルはビヒトさんの方がいい?」

 ビヒトさんなら、必要な場面、必要な場所でだけ良き夫を演じてくれるだろう。僕は残念ながらそこまで器用じゃない。完全にビジネスライクがよければ、彼女はビヒトさんを選ぶはずだ。
 自信があるわけではない。でも、僕を選ぶのなら、愛される覚悟をしてもらわなければ。

「待って……待って。ランクは、これを仕事の一端と捉えるの? それとも……」
「どっちでもいいじゃない。テリエルがカエル君と離れたくないように、僕もテリエルといたいだけ。テリエルを泣かせたくないだけだよ。それが重荷になるなら、無理にとは言わない」
「わたし――……」

 碧い瞳を揺らすテリエルの握ったままの手を引きながら、僕は立ち上がる。反対の手を背に回して軽く抱擁すると、彼女の頬に口づけた。

「よく考えて。君が少しでも幸せな方を。僕もビヒトさんもどうなっても文句は言わないから」
「……それが、嫌なんじゃない……」

 彼女の囁きに小さく笑って、赤らんだ頬を押さえて立ち尽くすテリエルを置いたまま、僕は自分の部屋へと戻る。
 なんとか少し挽回できたかなと、部屋に入ると腰が抜けたようになった。今更ながら心臓が跳ねている。最後のは少しやりすぎだっただろうか、とか、反省もあったけど、後悔はなかった。
 あとは、彼女次第だ。


 ◇ ◆ ◇


 テリエルはしばらく悩んだようだったけど、それでも期限までだいぶ残して、僕を選んでくれた。
 村長や城への報告だけで、式やパーティーをすることもなく、身内だけのささやかな祝いで済ませる。
 ヴァルムさんは書類上のことを片付けると、さっぱりとした顔をして出て行った。
 僕は一応主人らしくと、ビヒトさんにちゃんとしたマナーを習ったり、時々テリエルと手を繋いで街に出るくらいで、それまでとそう違わない生活からスタートした。

 店はテリエルやビヒトさんが見てくれるので、外回りもするようになる。テリエルとの時間は減ってしまうけど、彼女にはその方がいいんだろうと特に気にすることはなかった。
 だから、外に出た時に何度か娼館(プロ)のお世話になったことも、特に罪悪感を感じていなかったのだけど……

 夫婦になってまだ一年は過ぎていなかったと思う。一周年に何を贈ろうか考えていたから。ひと月ほど留守にして、久しぶりに帰った、ちらちらと雪の降る日。出迎えてくれたアレッタにコートを任せて、上着はテリエルが受け取ってくれた。
 着替えるからと部屋に入ったところで、後ろからひどく冷えたテリエルの声がした。

「何、これ」
「え?」

 彼女が手にしていたのは小さなカードで、心当たりのない僕は戻ってそれを覗き込んだ。

 『愛してるわ――ミレーヌ』

 赤い口紅で書かれたそれと、明らかに怒っているテリエルの顔を見比べて「知らない」と言いかけたものの、そのカードの裏に一度利用した娼館の名前が書かれているのが見えて、血の気が引いた。

「あっ。いやっ……誰かが悪ふざけして入れた、んじゃないかな」
「心当たりありますって顔した」

 どうして女性って、そういうところ鋭いのかな!?
 確かに言い訳がましかったから、素直に謝ることにした。

「……ごめんなさい。一度、行きました。でも、一度だけで、こんなものもらうような関係では……本当に」
「……ランクは……結婚するとき私のことを好きと言ったけど、それは幼いテリエルに向ける愛情と同じものだったのね」
「……どういう意味? 僕はテリエルを子供だなんて思ってないよ?」
「夫婦になっても部屋は別のままだし、手を繋ぐことはあっても、キスしたり誘うようなそぶりもない……私には欲情しないけど、外ではよく知らない女と寝てくるんでしょ! そりゃ、「形だけの」なんてやっぱり不服なのかもしれないけど……」

 僕は少しだけ困惑してしまう。僕は彼女が好きだけれども、彼女は形だけの結婚をしたはずで、そういう風に迫るのは迷惑だろうと思っていたのだ。そういうのは、もっと時間をかけてなんとかしようと思っていたところで。
 それでも夫が風俗に通うと知れば嫌な気持ちになるのは理解できる。とはいえ、僕も男で時には抑えがたい衝動もあるわけで……けっして数は多くないのだけれど……

「えぇと。テリエル? 最初に言った気がするけど。指一本触れるなというなら、努力するって。君がカエル君を治して僕と別れるつもりなら、そういうのは困るだろう?」
「言ってない」
「え?」
「触れちゃダメなんて言ってない。触れたくても触れられない辛さは知っているもの。そんなこと言わないわ」
「あ。うん。えっと……でも、その、あんまり近づきすぎると、我慢がきかなくなるかもだから、僕としてもね……」

 しどろもどろで出てくる言葉は、自分で聞いても下手な言い訳にしか聞こえない。ああ、違う、と一度言葉を飲み込んだ。

「あのね。テリエル。今回のことは僕も迂闊だったし、弁解の余地はないことも解ってる。だけど、だからってその根本が僕たちのちょっと変わった関係のせいなのかというと、違うから。分かったと思うけど、僕も男だから邪な感情や衝動はもちろんあるわけで、でも、それを君に見せるのは格好悪いと思ってる。君が嫌がることをしたくもないし、うっかり嫌われたくもないんだ」
「それは綺麗ごとじゃない? 私、ランクが私の知らない女に優しく触れるのは嫌だわ」
「……目の届く方がいいってこと?」
「それはもっと嫌に決まってるじゃない! そうじゃなくて!」

 テリエルは手にしていたカードを何枚かに破り捨てた。

「どうせ同じように嫌われるのなら、堂々と私を口説いてみなさいよ!」

 燃えるように睨めあげる瞳にぞくぞくする。
 こんなに怒られていても、僕は彼女が好きだなと思う。けれど、だから。

「……だって、テリエル。僕は断られたくないんだ。君には、なにひとつ。今回のことで僕が嫌われてしまうのなら、それは仕方のないことだと受け入れるけど」
「……怒ってるけど、嫌いになったりしないわ。私も、本当は怒れる立場でもないのだし……でも、嫌なものは嫌なんですもの」
「うん。ごめんね……その……その「嫌」に、少しは嫉妬も入ってたらいいな」
「……え?」

 一歩詰めた僕に、テリエルは少しだけ身構えた。

「口説いてもいいって言ったから、今の本音、言ってもいい?」

 サイドの髪を耳にかけて、そのまま彼女の頬を少し持ち上げるように手を添える。

「久しぶりに会った僕の奥さんは、怒った顔も綺麗で、キスしたい」

 ぼっと音が出そうな勢いで赤面したテリエルは、でもすぐに僕を睨みつけた。

「だめよ。

許さないわ」

 僕は苦笑して手を離す。

「……だよね。ほら、わかっていても、苦しくなる。これが続いたら――」

 少し目を伏せた一瞬、目の前に金の髪が流れた。同時に、頬に柔らかい感触。

「……え?」

 思わずそこを押さえて、ぱちぱちと瞬く。テリエルの顔がまだ近くにあって、顔から火が出るかと思うくらい熱くなった。
 足の力が抜けて、すとんと尻もちをつく。
 テリエルは目を丸くして僕を見下ろしてから、楽しそうにくすくすと笑った。

「なぁんだ。ランクが口先だけの人じゃないってわかったから、明日には許してあげる。でも、今日は反省して」

 ぴん、と額を弾かれて、彼女は踊るように身をひるがえして行ってしまった。
 ひどく情けない姿を見られたような気がするけど、口元はにやけてしまう。
 いや、よく考えたらずっと口先だけの人間だと思われていたのか? どうしてだろう?
 ……まあ、わかってくれたみたいだし……いいか。



 結婚から一年目の記念日に、僕は彼女の瞳の色と同じ色の宝石をあしらったイヤリングとチョーカーを贈った。嬉しそうに身に着けて「どう?」って笑う彼女に大きく頷く。

「よく似合う。でも、君の瞳がやっぱり一番綺麗だ……キスしても?」

 はにかんで頷く彼女を抱き寄せる。

「……ランク。不思議なんだけど」
「なに?」

 僕の腕の中で、彼女は少しだけ身じろぎした。

「私を好きだと言ってくれるのに、どうして時々別れてもいいと言うの? 私、あなたがそう言うから、他に何を言われても、その程度なんだとずっと思ってたの」
「なぜって……カエル君が治ったら、彼と結婚するんだろう?」
「……ほら。それ。カエルに焼きもちの一つも焼かないの?」
「ああ」

 僕が笑うと、テリエルは眉をひそめた。

「僕も不思議なんだけどね。どうも、僕はカエル君を追いかけている君が好きらしい。それに、彼といるなら、君はここからどこにもいかないだろう? それなら、いいかなって思ってしまうんだ」
「カエルを……」
「うん。だから、どちらかというと、僕だけを見られると困るんだよね」

 テリエルはすごく複雑な顔をしていた。きっと、あんまり理解できないんだろう。

「気にしないで。テリエルはそのままでいいから」
「……私、カエルを治せるかしら」
「いつか、きっとね」

 ぎゅっと抱きついて僕の胸に顔を埋めるテリエルの頭を撫でてあげる。

 その夜、テリエルは僕のベッドで眠った。
 何度も確認して、それでも彼女の決意は変わらなくて。無理しなくていいって言ったのに、言い出したらきかないのは相変わらずだ。
 その代わり、二度と他の女性を抱かないことを誓わされて、寝室も共にするようになった。まるで普通の夫婦のようで、僕は少しだけ怖い。
 彼女がカエル君を治してしまったとき、僕は本当に祝福できるのか……
 自信が、なくなってきた。
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