第11話
文字数 3,074文字
家に到着すると、アサは帰宅中ずっと我慢していた笑いがこみ上げてくるのを感じた。もう誰に見られてもかまわないから、遠慮なく顔をにやけさせる。
スニーカーを玄関に脱ぎ捨てて、久々に自分の部屋へ入った。テスト期間中は、ずっとユキの部屋にお泊りだったから、部屋に入り込んだとたんに懐かしい気持ちになる。久しぶりの自分のベッドの上に身を投げ出す。
「ふふ、やっぱ自分の部屋だよねえ」
幸せな気分のせいか、勝手にもれてくる笑いを止めることもしないで、アサはしばらくベッドでごろごろしていた。それから、思いついたようにベッドの足の方にあるコンポのスイッチを足の指で押して、お気に入りの音楽をかける。ただし、音量は小さめだ。多分、隣の部屋には兄の直樹が大学受験のために勉強しているだろうから。
しばらくベッドの上でごろごろしていたが、制服のままなのを思い出して、慌てて立ち上がった。制服にしわがついたらお母さんに怒られてしまう。
暑苦しかった靴下を脱ぎ捨てて、タンスを開いて、適当なTシャツとジーンズの半ズボンをはいた。Tシャツはディズニーの柄が入ったお気に入りのやつだ。本当は、お出かけ用のものだけれど、今日は嬉しいから着ることにした。
早く、お母さん仕事から帰ってこないかなあっ。
ジュースを取りにいくために台所に向かうだけなのに、スキップしたくなってくる。いや、スキップどころじゃなくて、どこでもいいから走り回りたくなってくる。
部屋でかかっていた歌を鼻歌しながら台所に行くと、直樹がベランダにいるのが見えた。
「なっおきー! 何してんのかなっ?」
ベランダの窓をガラっと勢いよく空けた。勢いが良すぎて跳ね返ってまた閉まった。今度は普通にからからと開ける。
「お前……本当あほだよなあ」
呆れるというよりはむしろ、希少な生物でも見るような目で直樹は妹のアサを見た。
「あほじゃないんだなあー特に今は」
にやにやと笑いながら直樹の横に並ぶ。今なら直樹にどんな嫌味を言われても許せてしまいそうだ。ベランダからは、ちょうど夕焼けに染まりつつある空と団地の風景が見える。
「はあ? あ、もしかして」
「その、もしかしてだよっ」
嬉しくってその場でまた飛び跳ねたくなってくる。その様子を見てアサの心理を読み取ったかのように、直樹は「あ、本気で危ないから、こんな狭い場所で飛び跳ねたりするなよ。俺にまで危害が及ぶ」とアサを制した。
「そっかあ、全部平均以上いったのか」
「うん! 今までテストのために頑張って本当によかったあ」
「むしろ、俺は有姫の方がすごいと思うけど。よく毎回毎回、安沙菜を平均点以上にできるよなあ」
俺だったらぜってえ無理。
小声でそう呟いた直樹の足を思いっきり踏んづける。
「痛ってえ!」
「直樹がそんなこと言うからだよ! アサが頑張ったからこそなんだから!」
「あーはいはい、そうでした」
直樹は面倒くさそうに呟いて、またぼんやりとベランダの柵にもたれながら景色を眺め始めた。アサも一緒の方向を見つめる。夕焼けの紅く染まった柔らかい匂いや光や音が、アサと直樹の見えるセカイ全てを覆っていき、これからもっと深くなっていく。
「……水川さん、元気だった?」
遠くをぼんやりと見つめたまま直樹が聞いてきた。
「水川さんって……咲姫ちゃんのこと? 昔は咲姫ちゃんって一緒に呼んでたのに、何でさん付けなの? いくら好きだからって、意識しすぎー」
気分がいいからぺらぺらと余計なことを付け加えて話していると、直樹が慌ててアサの頭をぺしりと叩いた。
「ば、馬鹿! 別に好きじゃねえよ!」
「……そんな赤くなって言われても、全然説得力ないよ。まあ、いいや。普通に元気そうだったよ。あ、髪伸びててかわいかった。最近の流行り、ゆるゆるウェーブ。あとねー内申すごくいいみたい。余裕で希望の学部にいけるみたいだよ」
アサが知ってる限りの咲姫を話すと、直樹はがっくりとうなだれた。
「まじかよー。あんな偏差値の高い大学に行けるのかよ。すげえな」
咲姫は高校から評判と偏差値がかなり良い学校に通っている。大学もついていて、内申が良くないと、たとえ付属の高校生だったとしても大学には行かせてもらえない。結構、シビアなのだ。そんな学校で咲姫は内申がかなり良いらしい。
「うん、直樹、咲姫ちゃんと同じ学校行けるように頑張らないとだねー」
「べ、別に、関係ねえよそんなの!」
アサが咲姫についてをからかうときだけ直樹は小学生みたいにむきになるから、面白い。
「あ、今度ユキと買い物行こうっと」
「何? 何で突然」
「新しい服買う。島行く用のやつ」
島にはどんな服装で行こう。みんな元気かな、諒とか薫は何してるかな。
考えれば考えるほど、行くのが楽しみになるような想像が膨らむ。
ベランダの柵のところに頬杖をついてにんまりと笑う。
そんな妹の様子を横から見ていた直樹は変な顔をした。
「お前、島行く気なの?」
「あったり前じゃーん。アサ、そのために頑張ったんだもん。ユキと一緒に夏休みは多分ずっと島にいるよ。あ、受験生の直樹には悪いけどね」
プププ、とふざけて笑うと、心底どうでもよさそうな顔でふーんと切り替えされてしまった。アサのエサに飛びつくつもりはないらしい。
「でもお前多分、島には行けないんじゃないの?」
「……え、何で?」
「だって、毎年母さんと一緒じゃなくちゃダメなんだろ?」
豊駕島はアサのお母さんの美紀子とユキのお母さんの恭子の出身地である。だから、夏休みに行けるのは、お母さんたちの里帰りについていっているだけなのだ。テストで平均点以上という条件があるように、親も一緒に行くという条件もいつの間にやらできている。つまり、アサとユキだけで行ったことは一度も無い。
「そうだけど……」
それが何で行けないことになるんだろう。
分からなくて、直樹を見ていたら、直樹は少し説明を加えてくれた。
「だからな、母さんたちは多分今年行けないってこと」
「はあ?! 何で!」
「いや、俺に怒鳴られても……」
「いいから、何で?!」
何の罪もない直樹に詰め寄ると、直樹は落ち着けというように両手を広げた。
「いや、だからさ、母さん会社の仕事があるって昨日の夜話してたじゃん」
「……会社の仕事ぉ?」
昨日の夜は、まだユキの家にいた。だから、アサが知らないのも当たり前だった。
そのときタイミングよく家の玄関が開く音がした。
「ただいまあー」
「ちょっとお母さんふざけんなあー!」
飛ぶように玄関に掛けていって、足蹴りをかます。急な攻撃だったにもかかわらず、美紀子は手馴れたように狭い玄関で攻撃をかわした。かわして、そのままアサの足をつかんで床に引きずり下ろす。
「ちょっと、いきなり母親に足蹴りかますとかどういう神経してんの!!」
「うるさーい! いいから離せえっ」
居間の方から覗くようにしてその一部始終を見ていた直樹は、ため息をついた。アサと、母の美紀子がやりあうのは見慣れている。
本当に、何で女ばっかこんな運動神経いいんだよ、ここの家は。
直樹の体育の成績は残念ながら、平均的な三である。美紀子の遺伝子を存分に受け継いだアサはもちろん五だ。
直樹は玄関の方に向かって行き、美紀子が買ってきた今晩のおかずが入った袋を手にとって台所に戻った。せめて、食料品はこの戦いから守らないと、食べられるものではなくなってしまう。
「あ、またカレーかよ」
スーパーのレジ袋の中はにんじんとジャガイモと豚肉とルーが入っていて、誰がどう見ても今晩の夕食はカレーだった。
スニーカーを玄関に脱ぎ捨てて、久々に自分の部屋へ入った。テスト期間中は、ずっとユキの部屋にお泊りだったから、部屋に入り込んだとたんに懐かしい気持ちになる。久しぶりの自分のベッドの上に身を投げ出す。
「ふふ、やっぱ自分の部屋だよねえ」
幸せな気分のせいか、勝手にもれてくる笑いを止めることもしないで、アサはしばらくベッドでごろごろしていた。それから、思いついたようにベッドの足の方にあるコンポのスイッチを足の指で押して、お気に入りの音楽をかける。ただし、音量は小さめだ。多分、隣の部屋には兄の直樹が大学受験のために勉強しているだろうから。
しばらくベッドの上でごろごろしていたが、制服のままなのを思い出して、慌てて立ち上がった。制服にしわがついたらお母さんに怒られてしまう。
暑苦しかった靴下を脱ぎ捨てて、タンスを開いて、適当なTシャツとジーンズの半ズボンをはいた。Tシャツはディズニーの柄が入ったお気に入りのやつだ。本当は、お出かけ用のものだけれど、今日は嬉しいから着ることにした。
早く、お母さん仕事から帰ってこないかなあっ。
ジュースを取りにいくために台所に向かうだけなのに、スキップしたくなってくる。いや、スキップどころじゃなくて、どこでもいいから走り回りたくなってくる。
部屋でかかっていた歌を鼻歌しながら台所に行くと、直樹がベランダにいるのが見えた。
「なっおきー! 何してんのかなっ?」
ベランダの窓をガラっと勢いよく空けた。勢いが良すぎて跳ね返ってまた閉まった。今度は普通にからからと開ける。
「お前……本当あほだよなあ」
呆れるというよりはむしろ、希少な生物でも見るような目で直樹は妹のアサを見た。
「あほじゃないんだなあー特に今は」
にやにやと笑いながら直樹の横に並ぶ。今なら直樹にどんな嫌味を言われても許せてしまいそうだ。ベランダからは、ちょうど夕焼けに染まりつつある空と団地の風景が見える。
「はあ? あ、もしかして」
「その、もしかしてだよっ」
嬉しくってその場でまた飛び跳ねたくなってくる。その様子を見てアサの心理を読み取ったかのように、直樹は「あ、本気で危ないから、こんな狭い場所で飛び跳ねたりするなよ。俺にまで危害が及ぶ」とアサを制した。
「そっかあ、全部平均以上いったのか」
「うん! 今までテストのために頑張って本当によかったあ」
「むしろ、俺は有姫の方がすごいと思うけど。よく毎回毎回、安沙菜を平均点以上にできるよなあ」
俺だったらぜってえ無理。
小声でそう呟いた直樹の足を思いっきり踏んづける。
「痛ってえ!」
「直樹がそんなこと言うからだよ! アサが頑張ったからこそなんだから!」
「あーはいはい、そうでした」
直樹は面倒くさそうに呟いて、またぼんやりとベランダの柵にもたれながら景色を眺め始めた。アサも一緒の方向を見つめる。夕焼けの紅く染まった柔らかい匂いや光や音が、アサと直樹の見えるセカイ全てを覆っていき、これからもっと深くなっていく。
「……水川さん、元気だった?」
遠くをぼんやりと見つめたまま直樹が聞いてきた。
「水川さんって……咲姫ちゃんのこと? 昔は咲姫ちゃんって一緒に呼んでたのに、何でさん付けなの? いくら好きだからって、意識しすぎー」
気分がいいからぺらぺらと余計なことを付け加えて話していると、直樹が慌ててアサの頭をぺしりと叩いた。
「ば、馬鹿! 別に好きじゃねえよ!」
「……そんな赤くなって言われても、全然説得力ないよ。まあ、いいや。普通に元気そうだったよ。あ、髪伸びててかわいかった。最近の流行り、ゆるゆるウェーブ。あとねー内申すごくいいみたい。余裕で希望の学部にいけるみたいだよ」
アサが知ってる限りの咲姫を話すと、直樹はがっくりとうなだれた。
「まじかよー。あんな偏差値の高い大学に行けるのかよ。すげえな」
咲姫は高校から評判と偏差値がかなり良い学校に通っている。大学もついていて、内申が良くないと、たとえ付属の高校生だったとしても大学には行かせてもらえない。結構、シビアなのだ。そんな学校で咲姫は内申がかなり良いらしい。
「うん、直樹、咲姫ちゃんと同じ学校行けるように頑張らないとだねー」
「べ、別に、関係ねえよそんなの!」
アサが咲姫についてをからかうときだけ直樹は小学生みたいにむきになるから、面白い。
「あ、今度ユキと買い物行こうっと」
「何? 何で突然」
「新しい服買う。島行く用のやつ」
島にはどんな服装で行こう。みんな元気かな、諒とか薫は何してるかな。
考えれば考えるほど、行くのが楽しみになるような想像が膨らむ。
ベランダの柵のところに頬杖をついてにんまりと笑う。
そんな妹の様子を横から見ていた直樹は変な顔をした。
「お前、島行く気なの?」
「あったり前じゃーん。アサ、そのために頑張ったんだもん。ユキと一緒に夏休みは多分ずっと島にいるよ。あ、受験生の直樹には悪いけどね」
プププ、とふざけて笑うと、心底どうでもよさそうな顔でふーんと切り替えされてしまった。アサのエサに飛びつくつもりはないらしい。
「でもお前多分、島には行けないんじゃないの?」
「……え、何で?」
「だって、毎年母さんと一緒じゃなくちゃダメなんだろ?」
豊駕島はアサのお母さんの美紀子とユキのお母さんの恭子の出身地である。だから、夏休みに行けるのは、お母さんたちの里帰りについていっているだけなのだ。テストで平均点以上という条件があるように、親も一緒に行くという条件もいつの間にやらできている。つまり、アサとユキだけで行ったことは一度も無い。
「そうだけど……」
それが何で行けないことになるんだろう。
分からなくて、直樹を見ていたら、直樹は少し説明を加えてくれた。
「だからな、母さんたちは多分今年行けないってこと」
「はあ?! 何で!」
「いや、俺に怒鳴られても……」
「いいから、何で?!」
何の罪もない直樹に詰め寄ると、直樹は落ち着けというように両手を広げた。
「いや、だからさ、母さん会社の仕事があるって昨日の夜話してたじゃん」
「……会社の仕事ぉ?」
昨日の夜は、まだユキの家にいた。だから、アサが知らないのも当たり前だった。
そのときタイミングよく家の玄関が開く音がした。
「ただいまあー」
「ちょっとお母さんふざけんなあー!」
飛ぶように玄関に掛けていって、足蹴りをかます。急な攻撃だったにもかかわらず、美紀子は手馴れたように狭い玄関で攻撃をかわした。かわして、そのままアサの足をつかんで床に引きずり下ろす。
「ちょっと、いきなり母親に足蹴りかますとかどういう神経してんの!!」
「うるさーい! いいから離せえっ」
居間の方から覗くようにしてその一部始終を見ていた直樹は、ため息をついた。アサと、母の美紀子がやりあうのは見慣れている。
本当に、何で女ばっかこんな運動神経いいんだよ、ここの家は。
直樹の体育の成績は残念ながら、平均的な三である。美紀子の遺伝子を存分に受け継いだアサはもちろん五だ。
直樹は玄関の方に向かって行き、美紀子が買ってきた今晩のおかずが入った袋を手にとって台所に戻った。せめて、食料品はこの戦いから守らないと、食べられるものではなくなってしまう。
「あ、またカレーかよ」
スーパーのレジ袋の中はにんじんとジャガイモと豚肉とルーが入っていて、誰がどう見ても今晩の夕食はカレーだった。