第5話

文字数 2,092文字

 二人が深東京都市にやって来てもう少しで半年近くがたとうとしていた。 
 晴翔はまだ勉強や用事で周辺地域に出かける機会もあるが、都はもう数えるほどしか。だからまだこの街の全容を知らない。

「君はなにかあったのかい?」
「いえ、そんな……東雲さん、どうしてですか」
「いつもより随分とご機嫌だから」
「ふふ……はじめてなんです、映画館」
「映画、何の?」
「ほら、本屋さんで平積みされている小説の映画ですよ。外国語のタイトルで……なんて読むのかな。まだ公開は先なんですけどね、なんでもいわゆる普通の恋愛ものとは違うらしいですよ」
「よくわからないが、割れ物を落とすなよ」
「はい!」

 定休日を挟んだ翌日のバイトでいつもよりも若干表情がやわらかい都が店主は気になっていた。普段はどこか緊張して表情がこわばっていたが、今朝は少し力が抜けていること。最初は信用すらなかったその関係は、最近では良い『仕事仲間』になってきている。

「都、君はどこに住んでいるんだ」
「言ってませんでしたか、深東京学園専門校から十分くらいの住宅街にあるアパートです」
「深東京医専?」
「はい、同居人が通っているので」
「ああ、あそこの医学専攻はとくに休み期間も勉強は忙しいし、休む暇がないからな。医学界のエリート候補の通うところだから仕方はないが」
「よくご存知ですね?」
「私も挫折した因縁があるからね」
「えっ、もしかして通ってらしたんですか」
「……人生いろいろ」

 品出しをしながら二人でそんな話をしていた。今までは狭い世界で人に仕えて、時には理不尽な目にあってひどい思いをする日々だったがそれがこの世の中の全てではない。ほんの少し手を伸ばせば不幸な環境から逃れることは案外たやすいのだと。
 開店時間寸前、品出しも終えてこれからレジの準備にとしゃがんでいた都が立ち上がったときのことだった。ざっと血の気が下がってそのまま足から力が抜けて、その場に音を立てて受け身も取らずに崩れ落ちる。即座に遠ざかる意識は慌てた店主が駆け寄る気配すら感じなかった。

 ***

「すみません……大丈夫なので、お店開けてください。すぐに落ち着いたら僕も出ますから」
「開店は別に急ぐことじゃない、大丈夫か? そんな真っ青な顔で」
「単なる貧血ですよ、昔からのことで最近は落ち着いていたんですけどね。ごめんなさい、気を遣わせてしまって」

 店から運ばれた都は、二階の店主の自室に寝かされていた。部屋は狭く本棚や写真集に囲まれている。店主のお気に入りは全て外国語で書かれていて都にとっては何が書いてあるのかを理解するのは難しい。身体を起こせば面前は途端に暗くなりその天井がふらふらと揺れる。天井からそれから目を逸らして下を向き、繰り返し吐き気を逃すように深くため息をつく都を店主がじっとみつめていた。

「君は食事をちゃんととっているのか」
「食欲がなくて三食は難しいので、お腹が空いたら少しずつ」
「それはどうかと思うがね。細いのは腕だけじゃないな、抱き上げたらやけに軽かった」
「東雲さん……?」

 都がここまで深刻そうな店主の顔なんて見たのははじめてだった。その表情のまま店主は黙って都の頬に触れる。

「冷たい」
「昔からです、平熱が低いんですよ」
「全く、私は君の過去を疑うね。そうやって日々の体調不良を放っておくんじゃない」

 店主は押し入れからタオルケットを取り出して、横になっている都の身体にかけてそっとその髪に触れた。

「今日は良い。このまましばらく横になっていなさい、気分が悪い間は動かないように」
「あ、あの大丈夫ですよ、すぐに治りますから……」
「無理をするとさらに悪化するよ、時には身体を休ませるのも必要なことだ」

 表情は変えないが言葉は優しい。都はなんとなく東雲暁月と言う男の本性が見えた気がした。彼は案外悪い人間ではない、それは見かけだけでは分からないところで。

「東雲さん、損してるって言われませんか?」
「損? 何を言っているんだが」

 店主はそれきり何も言わずに店に戻って行く。見送った都はしばらく目を閉じて、回る世界がただ早く落ち着くのを待っていた。

 ***

『老緑雑貨店臨時休業のお知らせ』

 昼を回り店主が二階にやって来た。都はと言えば気分は多少落ち着いては来たものの依然起き上がることが出来ない。臨時休業の札を出した店主はエプロンを取り衣服を整える。

「帰るから家の場所を教えなさい」
「は、どこに帰るのですか?」
「君の家だよ、今日はもうゆっくり家で横になった方が良い」
「ああすみません、ここに寝られていてもご迷惑ですよね……」
「そう言う意味じゃないよ。君は顔色が全然良くならないじゃないか、もう今日は無理はするな」
「そんな、大丈夫ですから」
「何が大丈夫なんだ」

 そっと都の身体を抱き起こした店主はその顔に優しく触れて都のしたまぶたをめくる。みた途端に眉を潜めてため息をついて、その後、都のかさついたくちびるにも触れて彼には珍しく困った表情をした。

「面倒だろうが近いうちに一回病院に行きなさい、まぶたもくちびるも真っ白で血の気がない。このまま放って置いたら厄介なことになるぞ」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み