第4話

文字数 2,053文字

 別れた妻が突然僕の家にやってきたのは、彼女が学校で家にいない平日の昼間だった。僕は仕事の都合上平日休みが多かったので平日の昼間は家にいることはあったが、連絡もなしに急に来たので驚いてしまった。

 彼女は僕が見たこともない、いかにも高そうな合皮のバックをリビングにあるソファに無造作に置いてから自分も椅子に腰を下ろして大きく息を吐き出した。その様子は久しぶりに帰ってきた家に一息ついているようにも見えたし、ただ疲れているだけのようにも見えた。

 僕はキッチンから彼女に何故今日休みだったことを知っていたのか訊ねた。

「勘よ。そんなもの」と彼女は何でもないように言った。「あたしが勝手に来てるだけなんだし、いなかったらいなかったで別に構わなかったわ」

「それでもこっちに来るときは一言くらい言って欲しいね」

僕がそういうと、彼女はさりげなくリビングに目を向けた。そしてハルが置いていった学校の教科書を見つけたようだった。

「小さなガールフレンドが出来たの?」

「姉さんの恋人の子供だよ」と僕は簡潔に言った。

 僕にはあまり聞こえなかったが、彼女は何か含みを持たせるような返事をした後に自分の爪を注意深く点検し始めた。それは彼女がなにか考えている時にする癖だった。

「ねえ、今になってこんなことを聞くのはどうかと思うんだけど」と彼女はわざとらしく前置きをした。「あなたは自分の子供が欲しかった? つまり、あたしとの結婚生活の中で」

「他人の子供が欲しい人なんていないと思うよ」

 僕はそんな話を彼女としたくなかったので、適当に答えてから何か冷蔵庫に食べ物がないか探したが会話を埋めるような魅力的な食材は見つからなかった。

「あたしは真剣に聞いているのよ」

「冗談だろう?」

 僕は精一杯の笑みを作るように心がけながら言った。しかし彼女は覗き込むように僕の目を見つめてくるだけで何も言わなかった。

「どうしても欲しいという訳じゃなかったけど、欲しくなかったといえば嘘になるかもしれない」と僕はやっとの思いで言った。「結局のところ、僕には父親になる資格がなかったんだ」

「あなたのいうことはいつも遠回しで分かりづらいの。ちゃんと分かるように説明して」

 僕は冷蔵庫の中から麦茶を取り出して、コップに注いで飲んだ。冷たい液体が滑り込むように体内に流れていった。

「つまりさ、僕が子供を欲しいと思ったのはもう僕たちの関係が冷え切っていた時だったって意味だよ。だから僕には父親になる資格がないって言ったんだ」

 彼女はテーブルの上で自分の両手の指を組んだり、離したりしながらしばらくの間何かを考えていた。

「子供が出来たら私たちは別れていなかったと思う?」

 僕はそれには答えなかった。その答えはもう分かりきっていることだったからだ。

「ねえ、こっちに来て」と彼女は言った。「あたしは思っているよりあなたを傷つけていたのかもしれない」

「誰しもが傷つきながら生きているんだ。僕や君だけじゃない。それに君には今、恋人がいるんだろう?」

「どうしてそう思ったの?」

「勘だよ。そんなもの」

「じゃあ、あたしが今何を求めているか分かるでしょ?――寂しいのよ」

 もちろん彼女が今、僕に抱かれたがっているのはとっくに分かっていた。このままかつて二人で一緒に寝ていた寝室に行って、熱い抱擁を交わしてから、お互いの舌を交換しあうようなキスをして、優しく彼女の下着を脱がすのはとても簡単な事だった。彼女の濡れた性器はじんわりとしたあたたかみをもって僕を迎え入れてくれるだろう。
 でも、彼女はただ『今』寂しくて誰かに抱かれたかっただけだという事を知っていた。決して僕じゃなきゃいけないわけじゃない。たまたまその相手が僕なのだ。彼女にとって寂しいとは誰かに解消してもらう感情であり、誰かが解消してやればそれでいい。それでおしまいだ。そこからどこにも行かない。でも残念なから、僕はそうじゃなかった。

「……僕に君の寂しさを埋めることはできないよ。申し訳ないけど」

 僕はそれだけ言ってから、彼女の表情も確認せずトイレに行った。僕はズボンを履いたまま便座に座り、そのままじっと百二十秒数えた。八十秒経った所で、僕は今自分が何のためにこんな事をしているのか分からなくなったが、それでもじっとその場にとどまり続けた。壁に吊り下がっているデジタル時計を見ると時刻は十三時四十五分で、今日の天気は晴れだった。

 トイレから戻ると彼女はいなくなっていた。もちろんソファの上に置いてあった合皮のバックはなくなっていたし、彼女が座っていた椅子からは温かみというものが簒奪されてしまったように思えた。
 僕は彼女がさっきまで座っていた場所の向かいにある椅子に腰を下して、誰もいない家の静けさに耳を澄ませた。耳に入ってきたのは、わずかに聞こえる冷蔵庫の稼働音と時計が秒針を刻む音だけで他には何も聞こえなかった。自分の家ががらんどうになってしまったような気がした。その感覚は一年前に彼女がこの家を出て行った時とよく似ていた。
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