第一章・第二話 彼女の選択【後編】
文字数 6,980文字
「
出し抜けに
「
和解してから、思えばまだ
当初の印象がまだ天璋院の中に残っていても仕方がないが、今回ばかりは天璋院の協力は欲しい。しかし、天璋院は静かに首を横へ振った。
「落ち着きなさい、
「そうでなくば、なぜです! 先程はご協力くださると……!」
立て板に水と言い募る和宮に、天璋院は掌を上げて制する。
「そなたの考え自体には、わたくしも全面的に同意します。確かに、死の原因を
「幕府の立場って……」
「左様。本来、民の上に立つ幕府が、揺らいだり迷ったりはあってはならぬこと。失敗もまた
「でも、それは」
「つまり隠蔽ではないかと、御台は思うでしょう。確かにそれも否定はできぬ。これが、
そんなことはない、という反論はできなかった。
現に幕閣は、それを食い止めようとして和宮を無理矢理
辻褄合わせの中心にいる者には分からないだろうが、その政策は周りから見れば早くも綻び始めていることは明らかだ。十代半ばの和宮や、家茂にさえ見えている綻びが、二人より年長で、しかも聡明な天璋院に見えないはずもない。そして、きっと滝山にも――。
「でも……でも」
どう反駁していいか分からないが、許容もできない。膝の上に置いた拳に、覚えず力が入る。
「では、どうしろと……?」
「御台?」
「だって、……皆、わたくしの所為で亡くなったのです。なのにそれを隠蔽するなど……」
「そなたの所為とは、
問われて一瞬、和宮は口を噤んだ。
まだ、
単純な疑問と、その奥に、まだ彼を庇いたい気持ちが残っているのではという疑惑が生まれ、和宮は愕然とした。
(……バカみたい……そんなことしたら、滝山がやったことと変わらないじゃない)
パチン、と左手で片頬を叩く。
「御台?」
その仕草に、天璋院が『
伏せた瞼の先に、気遣わしげな天璋院の顔が映る。その顔を、一旦目を閉じることで遮断し、直後に深呼吸と共に目を開けた。
「……申し訳ございません。まだ……確たる証拠はないので、あくまでも推測なのですが」
「うん」
頷きながら上体を戻す天璋院に合わせるように顔を上げ、和宮は言葉を継ぐ。
「侵入した曲者は、
「
天璋院が、目を
「熾仁親王殿下については、九割九分九厘、間違いありませぬ。根拠は、わたくしが聞いた声と、交わした会話、それに、嗅いだ
「香?」
「はい。
「なるほど……それでも熾仁親王殿下と確定できぬ理由は?」
「……まことに不甲斐ない仕儀で恐縮ですが……昨夜、曲者二人はどちらも黒い衣装に身を包み、顔に覆面をしておりました」
「つまり、顔をはきと見ていないということか」
「御意にございます」
「それが、そなたの所為ということとどう繋がる?」
「慶喜殿と思われる者の目的は、定かではありませぬ。ただ、熾仁様の目的は、はっきりしております」
「……まさか、そなたか?」
「……左様です。あの方は、未だ婚約者であったわたくしを忘れ兼ねるようで……」
和宮は、どこを見ればいいか分からなくなって、目を伏せた。とてもではないが、天璋院の顔を見られたものではない。
滝山の顔も、同様だ。
自分の元婚約者が、
「宮様。恐れながらお伺いします」
そこで滝山が口を
「よもや、今も日常的に逢い引きなさっておいでですか?」
「そんなわけないでしょ」
思わずムッとして、また口調が
しかし、滝山は気にする様子もない。
「ですが、熾仁親王殿下がそのように宮様を忘れ兼ね、大奥にまで泥棒
「これ以上ないくらい、きっぱりハッキリ拒絶してるんですけど!」
「具体的には」
追及されて、言葉に詰まる。本人に言うならともかく、こう真面目に、他人から訊かれて答えるなんて、やっぱり気恥ずかしい。
(……姉様に訊かれた時は、いざとなったら聞かせてやるとか思ってたけど……)
よくよく考えたら、凄まじく何かこう、恥ずかしいことを言おうとしていたと気付いて、今更ながら、頬に熱が上る。
「宮様」
沈黙が長かったのか、滝山が若干苛立ったような声音で促した。しかし、どう説明していいか分からない。
「答えられぬのですか」
「……あんただって、床入りの翌日には
明後日の方向へ視線を向けながら、ボソボソと手の甲で口を押さえながら答える。
公家や皇室のほうのしきたりはよく知らないが、大奥の将軍夫妻の
ある代の将軍側室が、閨で色々と、
家茂と和宮の場合、正式に見張りのいる閨のみで男女のことをしてはいないので、全部を聞かれているわけではないだろうとは思う。とは言え、夜に正式に寝室で、となると色々聞かれていることはあるに違いない。
それも、翌朝、寝ずの番はそれを上(恐らくつまり、御年寄りの誰かで、滝山も含まれる)に報告する決まりだというのだから――
(うわぁああ、想像したら恥ずかしさだけで死ねそう!!)
顔から火が出そうになって、思わず両手に顔を埋める。
それでも、掌もあまり冷たいとは言えず、さしたる効果はない。
「……それはもう、その辺にしてやりなさい、滝山」
見兼ねたのか、天璋院が口を挟む。
「ですが、熾仁親王殿下に
「あ」
思わず声を上げてしまう。
(そうだった……兄様にどう断ったかって訊かれただけだったか……って言うか、でも……)
まさか、熾仁の目の前で家茂と口づけして見せたとか、愛を囁き合ってやったなどと、言えるわけがない。仕掛けたのは家茂のほうだし、確かにそれは、相手の求愛に対する絶対的な『
(……うん、無理! 言えないし、実演もできない!!)
脳内でグルグルしていると、不意に天璋院が小さく吹き出した。
「天璋院様?」
「もう本当にそれは勘弁してやりなさい、滝山」
クスクスと、どこか楽しそうな笑いを挟みながら、天璋院が続ける。
「大方、熾仁親王殿下の目の前ででも、上様と
「はっ、義母君!」
思わずガバリと顔を上げた。
(何でそんなこと分かるんですか~!!)
と思ったが、やはり口には出せない。出せば、それを認めることになり、口で説明したも同然ということになる。
結果、
「はっ、義母君ってば!」
「天璋院様!?」
「はっ……あっはっはははは……あー、ああ、すまぬ。つい……」
クックッ、と笑いの残滓を引きずりながら、天璋院は笑い過ぎて滲んだ涙を拭った。
「すまぬのう。実は、御台には内緒で、少しそなたたちの生活を見守らせておった」
「は?」
和宮が間抜けな声を出し、滝山は眉根を寄せる。
「いや、
「えっ……」
「もう三日でお腹一杯になったので、早々に調査は切り上げさせた。ともあれ、上様の伴侶として、何も心配は要らぬのは、わたくしが保証しよう。滝山」
そう言った天璋院が、滝山のほうへ目を向けた時、すでに顔から笑いは引っ込んでいた。
「……はい」
「此度の調査、わたくしは先に申した通り静観する。ゆえに、そなたが御台に従おうと従うまいと、それもわたくしはもう何も言わぬ。好きにいたせ」
「義母君!?」
その内容に、先刻まで感じていた羞恥が一瞬で吹っ飛んだ。
「あの……待ってください。まさか本当に……」
「ただ、何度も言うようだが、わたくし個人としては、御台が正しいと思う。大御台としては幕府の立場を考えぬわけにもいかぬゆえ、わたくしはどちらの立場にも立ってよいか、まこと不甲斐ない話だが、判断がつかぬ。ゆえに静観するのだ。だから、御台」
「……はい」
「此度の調査は、そなたの思うようになさい。そなたが真実、上に立って差配せよ」
「そんな……わたくしはまだ」
情けない話だが、まだ居所の女中たちは把握し兼ねている。
全部で四名いる御年寄りの一人、滝山でさえ
平時なら、彼女たちの掌握はじっくりと時を掛けてもいいと思うが、先刻、天璋院にも言った通り、今は時がない。そんな中、滝山に頭が上がらぬ女中たちを、滝山を飛び越えて従わせようとする内に、恐らく時は経ち、遺体は腐敗が進む。
そんな和宮の思考を読んだのか、天璋院は立ち上がって、和宮の前へ歩んだ。膝を突いた天璋院の掌が、そっと和宮の肩先へ置かれる。
「……義母君」
「誰にでも初めはある。それに、此度のような大きな事件でもないと、
「ですが」
「案ずるな。わたくしは『静観する』とは言ったが、『放置する』とは言っておらぬ」
彼女の手が、和宮の左手を取って、優しく包んだ。
「正直なところ、わたくしも『
和宮は、最初に取られた手を見、それから顔を上げて天璋院を見上げる。視線が絡むと、天璋院は小さく頷いた。
「コトは大奥全体に関わるゆえ、わたくしもいつまでも放っておきたくはない。どうしても、どうにもならなくなったら、わたくしも手を貸す。それまでには、わたくしも心の整理を付けておくと約束するし、それまでにそなたが大奥すべてを掌握できれば、それはそれでよいことだ。最終的には、何も事件などが起きずとも、そうなることが望ましいことでもある」
尚も言葉が出なかった。
どう答えていいか、答えるべきか分からない。けれども、分かっていることもある。
(……何がどうでも、今回の件にケリを付ける……ううん、熾仁兄様にどうにかあたしを諦めてもらう)
今回の件ももちろん、半永久的に熾仁に
しかし、喫緊の問題は、今回の出火偽造の件の収拾である。
「……分かりました。先に現場へ戻ります」
和宮は、自身の手を包む天璋院の手に、空いた右手を添え、深々と頭を下げた。
***
「――よろしいのですか?」
居所から下がっていく和宮と、滝山の後ろ姿を見送っていると、幾島が
「何の話だ?」
「先程の件です。失礼ながら、耳に入ってしまったので」
「さもあろう。何しろそなたは、部屋の前にずっと座っておったのだから」
クスリと小さく笑って、敬子は打ち掛けの裾を
「わたくしが申すのも何ですが、御台様はよくやっておられます。この城に参った時を思えば、見違えるようです」
「そうだな。婚儀から早半年……いや、まだ半年と言うべきか。若いとはまこと、素晴らしきところもある時よ」
「わたくしから見れば、天璋院様もまだまだお
敬子は微苦笑した。確かに、五十代半ばの幾島から見れば、二十代半ばの敬子はまだ若いのだろう。
「それはそれとして……御台様はまだ、ご自分の居所や、ほかの部署の女中を掌握しているとは言えませぬ。滝山でさえ未だ
「先程も申したであろう。初めは誰にでもある。今はまだ、わたくしが手を
敬子は、フッと吐息を漏らして、半ば一人ごちるように言葉を継いだ。
「であればこそ、まずは一人で判断してみるということも必要であろう。此度の件は、練習には少々大きすぎるようだが、熾仁親王殿下が絡んでいるとなれば、ある意味、御台一人で乗り切るのも定めやも知れぬ」
「天璋院様」
どこか、非難の色が混ざった呼び掛けに、敬子は再度、微苦笑を浮かべ、脇息へ肘を預ける。
「案ずるな。御台にも申したが、いざとなれば助けに入る。それまでにはわたくしも、御台に言った通り、心を決めねばな」
心を決める――そう口にすれば、ふと、和宮が言ったことが頭をよぎった。
『皆、自分の意思とは関係なく死んだのです。それを隠蔽するなど――』
(隠蔽……か)
幕府という『公』の為に、『個』の死因を隠蔽することくらい、貴人の家に生まれれば、呑み込まなくてはならないことだ。少なくとも、敬子にすればそうだった。
けれども、和宮にとっては違うらしい。彼女は、皇室という貴い生まれのクセに、時折まるで平民のように、『個』を踏み付けられることに敏感だ。
彼女の場合、結婚の時に散々、幕府という『公』から、『個』を踏み
(それにしても、あの子にとっては、此度亡くなった者らは赤の他人であろうに……)
それも、
そう思って、また苦笑が漏れる。真剣な恋心――それは、敬子にはこれまで縁がなかったし、今後もないだろうものだ。
常人とは少々見る世界が違い、病弱であった夫・
しかし、家定はそもそも慶喜を非常に嫌っており(理由は未だに知らないが)、慶喜の『よ』の字を出すだけで、苦虫を噛み潰すような顔になった。家定の周りも紀州派が固めていた為、敬子はついに嫁いで来た役割を果たすことなく夫と死別した。
であればせめて、ただの夫婦としては睦まじく最後まで過ごせればよかった、という結論に辿り着いたのは、割合最近になってからだ。
睦まじい夫婦、と思えば、やはり真っ先に頭に浮かぶのは、
思えば、敬子のここまでの半生は、
(……或いはそれは、人の上に立つ人間として、重要な資質かも知れぬが……)
彼女の判断が、果たして吉と出るか凶と出るか。凶に転んだ時、敬子はどう動くべきか――
「――天璋院様」
思索を遮るように呼ばれ、敬子はいつしか俯けていた顔を上げる。
「何をお考えです?」
幾島に探るように問われる。だが、どう答えたらよいか分からない。
「……さあな」
口にすべき答えが見つからず、形になってもいない。敬子は黙って苦笑を深くするしかなかった。
©️神蔵 眞吹2024.