上ノ巻

文字数 2,853文字

 十六夜の月がぼっと青く霞がかって中空にあった。
 信田景親(しのだかげちか)は、師の車の後について歩いていた。所用を終えての帰りである。
 秋の夜のしじまは澄んで深い。車中のひともまた、ひっそりとしたままだ。眠っているのか、いつもながらの思索にふけっているのか。
 おそらく後者だろうと景親は思った。師の寡黙さには慣れている。
 四条あたりに入った時、いましも通り過ぎようとしていた邸の陰から突然に飛び出して来た者たちがあった。
 六人。牛車の前に立ちはだかった彼らを景親はとっさに観察した。盗賊などではないらしい。松明の火明かりで見るかぎりでは、いずれも屈強そうな武士である。
 主領格らしい男が口を開いた。
「陰陽師安倍晴明どののお車ですな」
「左様」
 車中の晴明は静かな声音をかえした。
「ご無礼お許しを。われらと共においで下され」
 言葉とは裏腹に、それは有無をいわさぬ命令だった。彼らのひとりが、すくみあがる牛飼い童に刀を突きつけている。景親はすばやく師を守る位置についた。
「よい、景親」
 晴明は若い弟子にいった。
「まいろう」
 以後、六人の武士は無言を通した。彼らにものものしくとりかこまれ、連れ行かれたのは人家もまばらな西の京の一角だった。住む者の気配もない朽ちた館が待っていた。
 通された室にはしかし、浄げな畳が敷かれてあった。上座に几帳が立ててある。武士たちの姿はいつのまにか消え、かわりに人品卑しからぬ白髭の老人が現れた。
「このご無礼、まことにお詫びのしようもございませぬ」
 老人は深々と頭を下げた。
「しかし、これもただただ博士のお力におすがりしたいがため」
 晴明はもちまえの穏やかな表情を崩さずに端然と座っている。
 事態の内容はどうやら景親にものみこめた。あれほどの武士を使うからにはよほどの身分の者だろう。わざわざ自邸を離れ、この場をしつらえたのだ。人には知られたくない加持の類が往々にして彼らにはある。
「ごらんください」
 老人の言葉と共に几帳の帷子が上げられた。
 二人の女がそこにいた。うら若い姫と姫の乳母らしい小柄な老婆と。
 景親ははっと胸を突かれた。
 それほどに姫は美しい。燈台の火に白くほんのりとうかびあがったその顔は、ひとつの犯し難い幻だった。豊かに長い髪が螺鈿の貝のように繊細で作りものめいた輪郭をおおい、背後の闇にとけこんでいた。
 そして姫は、ゆったりと目を伏せたまま、ぴくりとも動かなかった。息は浅く、ごくかすかに、それだけが姫の生きている証であった。
 晴明はふっと目を細めて姫を見やった。彼が興味を示した時の癖である。
「ここにおられるのは、さる高貴なお方の姫君にございます」
 老人は重々しく語り出した。
「生まれながら、姫には魂がありませぬ」
 産声も上げずに姫は生まれたという。七夜までは生きられまいと誰もが思った。が、姫は生き続けた。人形のように、どんな反応もないままに。
 姫の父は姫を忌むべき子として捨てることはしなかった。老いてから生まれたただひとりの娘であったし、そうするにはあまりにも姫は美しかったのだ。病弱と称し、邸の奥深く姫は育てられた。名高い僧や験者を頼み、魂を呼び出すべく様々な呪法を行いもした。 
「ですが」
 老人は嘆息とともに首を振った。
「この通りにございます。近ごろの博士のお噂をわが主が聞き知り、もはやおすがりするのは当代きっての陰陽師、あなたさま以外にないと‥‥」
「景親」
「は?」
 晴明の言葉で景親はようやく我にかえった。
「見えるか?」
 静かに姫を凝視しつづけている師にならい、景親は呼吸をととのえてもう一度姫に目を向けた。
 見えはしない。
 が、かすかに感じられる。姫の背後の彼方に、何か異質のものの気配がある。
 遠すぎて、それのいる場所はわからなかった。このとき晴明が力を貸してくれた。それの存在が濃くなった。
 つかのま姫と重なりあって景親の目交いに映ったのは、そそけだった髪に白髪の(まだら)がある、物憂わしげな男の姿だった。
「これは?」
「姫の魂を生まれる前に繋ぎ止めているものだろう。方角はわかるな」
(たつみ)、でしょうか」
 晴明はうなずいた。
 畏怖のこもった目で師弟を見守っていた老人は、おそるおそる口をひらいた。
「その、もの、とは?」
「姫には深い前世が根をおろしております」
 晴明はいった。
「残念ながら今お答えできるのはそればかり。はたしてわが力がおよびますかどうか」
「では・・」
「いま少し時をいただきとうございます」
 老人はさっと顔を上げて晴明を見つめた。
「時があれば?」
「できるかぎりのことは」

 六人の武士は来た時と同様、無言のまま晴明らを土御門の邸まで送りとどけてくれた。晴明は何事もなかったかのように景親を下がらせた。
 その夜の景親はまんじりともしなかった。朝を迎えても心はまだ魂のない姫のもとにとどまっていた。冷たい髪、動かぬ頬、いにしえの仏師が刻みこんだかのような精緻な面差しの。
 生がともった時、姫の美しさはどれほど輝きを増すだろう。姫の声音、笑みの色は?
 かつてない思いが景親をゆさぶった。姫の魂をなんとしてでも取り戻すのだ。それには・・それには姫に取り付いているあのものの正体を知る必要があるだろう。
 景親は決心した。
 その時、何かが衣の袖を引く感触があった。師の呼び出しである。
 景親はほとんど小走りで室を出た。
 晴明は寝殿の日当たりのよい庇に座っていた。この寝殿に彼はひとりで暮らしている。ひさしい以前から北の方は邸を出ていた。彼の使う識神を怖れて、という噂がひとしきりたったこともあるが、彼女が怖れたのは他でもない、常人の理解を遥かに超えた力を持つ晴明自身にちがいなかった。
「お呼びでしょうか、博士」
 晴明は、ちらと微笑した。
「おまえも用があったのだろう」
「はい」
「聞こう」
「博士はどのようにお考えなのでしょう。つまり、昨晩の姫のことです」
「手のほどこしようがあるまい。あのものが何かを知らなければ」
 景親は両手をついた。
「その役をわたしに仰せつけください」
「どうするつもりかな」
「あれを捜しに行きます。手掛かりは巽の方位、ただそれだけですが、わたしはここにじっとしていられないのです」
 晴明は、慈愛あふれるまなざしを弟子に向けた。
「姫は美しい、たしかに」
 景親は覚えず顔を赤らめた。
「よかろう、行きなさい」
 深く頭を下げて立ち上がりかけた景親は、はっと思い出して座り直した。
「博士のご用とは」
「同じだ」
 晴明は涼しくうなずいた。
「わたしもそう命じるつもりだった」
 景親はあっけにとられて晴明を見つめ、もう一度頭を下げた。
「自分の勘を信じるのだな」
 最後に晴明はそういった。
「強く心に念じていれば、行くべき道も見つかるだろう」




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