第43話 それでも幸せになりたい

文字数 2,089文字

正人がその時、優和ではなく、勇のことを心配しているのだと明美は気づいていた。
頭ではそう思っても、心は優和に嫉妬していた。
正人はまさに父親の顔をしていた。
それが見たいから明美は正人に勇のことを告白したのだ。
でもいざ正人が勇のことを心配しているだろう表情を見ると、明美はしっかり傷ついているのだった。
明美は自身の子どものことが気の毒でならなかった。
全て明美が望んだことだった。
でも本当はぜんぜんそうではなかった。




正人はスマホに出た。
今度はどこにも行かず明美の前で電話をしていた。
正人は頷くだけで、何も言わない。
だから明美には何があったのか分からなかった。
正人が電話を切り、明らかに動揺している顔で明美を見た。




「勇がいなくなった」




正人は落ち着かない表情で、明美を見ているのか、それとも何か別のものを見ているのか分からなかった。
正人はそわそわしていたが、思いついたように上着を取り、玄関に向かった。




行かないで。
明美の声にもならない心の声は正人に届くはずがなかった。
正人は明美にどこに行くのか何も言わずに出かけてしまった。
もしかしたらこれが最後になるかもしれない。
明美はそんな不安があった。
正人は自分がどんな顔をしていたか知っているだろうか。
正人はしっかり父親だった。
自分が父親であることに自信がないのは自分で自分のことをよくわかっていないだけだと思った。
明美は正人が明美ではなく父親であることを選ぶことを確信していた。
明美はこれからの正人との関係の方が心配で、勇のことを心配する余裕はなかった。




明美は正人に電話をしてみた。
正人は電話に出なかった。
電話に出られない理由があるのか。
明美は自虐的になっていた。
明美は急に悲しくなり、自分は一人なんだと思った。
そしてこんな時でさえも自分のことしか考えられない自分に嫌気がさした。




どれくらい時間が経っただろうか。
ドアのチャイムが鳴った。
インターフォンのカメラに写っていたのは勇だった。
明美はすぐにドアを開けた。




勇は申し訳なさそうに、頭を下げると、他に部屋に誰もいないことを察したのか、「他に誰もいないんですか?」と聞くのだった。
明美は勇を見た。
それはまさに小さい正人であった。
遠慮がちに、こちらの様子を伺っている。
明美は怖がらせないように勇に微笑んだ。




「もしよかったらお菓子でも食べていかない?」







明美はそう勇に語り掛けた。
きっと勇の用事は正人なんだろう。







「もう少ししたら、帰って来ると思うよ」







明美は勇に正人のことをなんて呼べばいいか分からず、あえて誰が帰って来るかどうかは言わなかった。
でも勇は正人が帰って来るのを察し、正人が帰って来るまで待とうと思ったようだった。
明美はすぐに正人に連絡すべきだとは思ったがしなかった。
明美の着信に気づいて正人が電話に折り返せばいいと思った。







「どうしたの?」







明美は勇に優しく聞いたつもりだった。
勇は微笑み、明美の言葉を流した。
明美は勇のことを4歳の子どもと思ってはいけないことを思い出した。
勇は他の子どもとは違う。






「お絵描きする?」







明美はペンと紙を勇に渡した。
勇は警戒していたが、絵を書き始めた。







「わあ、上手だね。それはママ?」




勇は本当に絵がうまかった。
勇は優和らしき女性とその隣に勇らしき子どもを書いていた。
二人は仲良さそうに手を繋いでいるのだった。







「本当に上手だね」







明美はすっかり感心していた。
勇は優和と勇を書いた後、もう一人書こうとしていた。
でも途中で書くのをやめた。
それは明らかに正人だった。
その正人は勇の手を繋いでいた。
天気のいい日に散歩している絵を書こうとしていたのだろう。
そのあまりにもありふれた家族の絵に明美はしっかり傷ついているのだった。
もし私がいなければこの家族はいつまでも幸せに暮らせたのだろうか。
本当の家族だったのだ。
明美は今更ながら、正人が優和と勇と家族の時間を過ごしていたことを思い知ったのだった。
それは現実だった。
もういるはずのない正人はそこにはいない。
明美はわざとその絵についてはこれ以上聞くのをやめた。







「もうすぐ帰って来ると思うよ」







明美はまた誰とは言わなかった。
勇にとってパパだった人を何と呼べばいいのだろうか。
明美は自分が責められているような気がした。
勇はいったいどこまで知っているのだろうか。
明美の存在は勇にとって何なんだろう。
自分は何をしているんだろう。
明美が正人との幸せを望むことが勇にとってどういうことなのか、明美は改めて思い知らされていた。
でも、それでも明美は幸せになりたかった。
明美は目の前の4歳の子どもを前にしても、まだ正人とのことをを諦めていなかった。
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