第六話 東の森
文字数 4,483文字
気がつくと湿度が下がり、息苦しさがなくなっていた。地面は泥濘を忘れ、渇きを覚えている。背中を預けている樹木の葉が、さわさわと風に揺れて何枚か落ちてきた。見上げると、木々たちが作る葉の隙間から、紫色の空が顔を覗かせており、もうすぐ夜が来る事を伝えていた。
オリビアとグリンデは、チェルネツの森から東に向かって進んでいた。目的の地にはもう少しかかるようで、この比較的開けた森林の一角で、一夜を過ごすことにしたのであった。
この森はチェルネツの森に隣接しているのだが、すっかり濃い霧もなくなり、明るく穏やかな印象を与えている。この森周辺の一帯には人は全く住んでいないのもあって、なんと親しまれているのかわからないが、もはやチェルネツの森とは呼べないだろう。
グリンデは、日の当たる場所に落ちていた乾いた枝を積み上げ、山をつくると、そっと手の平をかざし火を付けた。ぼうっと言う音と共に、焦げ臭い香りが辺りを漂う。焚火の炎は、夜が近づいていることで感じる肌寒さだけでなく、これから始まる暗闇に対する恐怖を少し和らげてくれた。
「やはり我の家の周りとは違って、たやすく火が着くのぉ。少し前まで雨が降っておったとは思わんくらいだわい。ここいらは“夢霧の蘭”も咲いておらんから、夜が来ても辺りもよう見えるだろう」
「夢霧の蘭……ですか?」
(……まぁ話しても構わんか)
オリビアは魔法に触れており、ある種の境界線を越えている。別にこれくらいは構わないであろう。
「あぁ。チェルネツの森が霧がかって見えるのは、何も大気のせいだけではない。夢霧の蘭という花が出す花粉で、より視界が悪うなっておるのだ」
焚火が発する火花を見つめながら、魔女は続けて語る。
「我はその花を使って、まぁ、ある種の結界のようなものを作っておったのだ」
(結界……?)
グリンデの家周辺を取り巻く、あの濃い霧の姿がオリビアの頭によぎった。グリンデの家の周りの霧は、森の入口で見たそれと比にならないほど濃く、良くここまで辿りつけたものだと自分でも思ってしまった。あれもその夢霧の蘭とやらの花粉のせいなのだろうか。
しかし結界とは何の事だろう。家を出る際に『チェルネツの森の中では必ず我と手を繋いでいろ』と、グリンデが強く言っていた事が強く印象に残っている。あの時は自分の身を案じてくれているのだろうと、特に気にも留めなかったのだが、今思うとやはり違和感が拭えない。輝きの花もある。獣が多く潜んでおり危険であるから、というのは頷けるが、辺りが把握出来ていない訳ではなかった。特別、手を繋ぐ理由が見当たらない。それも結界とやらに何か関係があるのだろうか。
──ピュウィ
その疑問を問おうと思った時、獣が吠えるような甲高い声が闇夜を割いた。
少女は思わずその声に意識を奪われ、丸まっていた背筋が直立した。膝を抱えるようにしていた手のひらも地に触れ、自然と首元が辺りを見回す。
一方で魔女はどうだ。ぴたりと動かず余裕の様である。
「……結界から出ると、チェルネツの森とは違った獣の声が目立つの。だが心配いらん。今のは恐るるに及ばん」
続く言葉は、やはり冷やかしだ。
「驚いたか?今なら引き返せるぞ?さてどうする小娘よ?」
「そ、そんな!私は帰りません!」
少女は傍に置いていた鞄から小さな瓶を取り出した。 まるで小さな星屑を詰めたようだ。その瓶の中には、暗闇の微かな光を反射する花があった。そう。魔女から受け取った、あの乙女の涙である。
二人が出会ってから四日後、オリビアの体調や、旅に向けての準備が整ったのを見計らって、グリンデの家を出た。
この東の森に向かう前に、一度オリビアの家、そして家の裏手にある母の墓に立ち寄り、受け取った三輪の乙女の涙のうち、二輪を母の墓に植え、こうして一輪を瓶に入れて持って来ていたのであった。
(……私は人々を悲しみから救うの)
この乙女の涙を見るたびに、この旅を始めた決意を思い出し、その度、瓶を握る手に力が入る。
グリンデから“母を奪った病に黒羽族が関わっている可能性がある”と聞いてから、彼らに対しては怒りの感情が大半を占めている。女性らしくおしとやかに。子供の頃、何度か大人たちに言われた事があったが、黒羽族の話をするとそんなことは気にしていられない、汚い言葉しか出てこないであろう。
しかし、もしも黒羽族が生き残っていたとして、目の前に姿を現した場合、どうすれば良いのだろうか。不意をついて襲いかかってきたらどうしようか。せめて、いち早く黒羽族の存在に気付く事が出来れば……そう思ったオリビアは、恐る恐るグリンデにある頼み事を打ち出した。
「……あの、グリンデさん。やはり私にコインを持たせて頂けないですか?」
「それは何故だ?あれほど不気味がっておったではないか」
「コインを持っていたら、魔力を身に宿した者が靄をまとって見えて、すぐに気付く事が出来ますよね?グリンデさんだけでなく、私も相手の存在にいち早く気づく事が出来たら、少しは役に立つかと思って」
「その考えだと向こうからもおんしに気付きやすくなると思うが……まぁそれは我と共におったら変わらんか。良い、わかった」
意外にも、あっさりと魔女はそれを承諾し、ローブの内からコインを取り出し、少女に授けた。コインは相変わらず、浅黒く鈍い光沢を放っており、少し冷たくひんやりとする感触が、より不気味さを醸し出している。
コインを受け取ってから暫くすると、グリンデの身体に赤い靄がまとわりついた。自分の手には白い靄がまとっている。
(これが魔法の力……)
魔力が伝わり、目にした光景に驚く少女の横顔に、笑みを含んだ声が投げかけられた。
「おんしがコインを持っておると、見失った時にすぐ見つけられて便利かもな」
むっと顔をしかめた少女を他所に、魔女は片手を地に着き立ち上がった。
「……まぁ、疲れがあっては旅が遅くなるのも事実だ。飯は起きてからで良い。我はもう寝るぞ」
そういうとグリンデはちょうどよさそうな朽ちた倒木を辺りから見つけ、たき火の近くに転がすと、巻いていた腰巻をそれに被せ、枕にして横になった。
朝から歩き続けたのもあって、オリビア自身も疲労の存在を強く感じていた。たしかに明日のことを考えると、今すぐ多くの眠りを得ないと、冷やかされるどころでは済まないかもしれない。
オリビアは鞄から乙女の涙が入った瓶を取り出し、地面に置くと、少し軽くなったその鞄を枕にして、仰向けに寝そべった。
目の前の木の葉たちが作るカーテンの隙間から見える空が、もううっすらと星々を迎えているのもあってか、いくら少しの視力が働くとはいえ、恐怖心は容赦なく全身を襲ってきた。こうして地面に横になると、余計にである。
二人の話し声がなくなると、辺りは驚くほど静寂に包まれた。目を閉じると、木の葉が風にそよぐ音、虫たちの声、焚火が燃える音、そして隣で眠る魔女の寝息が、よりはっきりと聞こえてくる。耳を中心に全身の神経がするどく尖り、鼓動が高鳴る。……先ほどの獣の声の主は遠くへ行ったのだろうか。再びあの声が頭の中でこだまを繰り返す。
鞄に入っている、何かの堅い部分が頭に当たる心地悪さもあってか、オリビアは再び起き上がると、焚火の近くで寝ているグリンデの近くまで寄った。そして少し遠くに置いていた、あの輝きの花のランタンを顔の近くに置いて、もう一度瞳を閉じた。オリビアの魔女に対する信頼感は、本人の予想を上回っていたようだ。何度か呼吸をしていると、ゆっくりと全身から力が抜けていくのを感じた。
これから何匹羊を数えるのだろうか、と考えていたのだが、やはりよほど疲れていたのだろう。もはや記憶の縁。少女は魔女が触れた “結界”の話も忘れ、すぐさま意識は眠りの沼へと誘われた。
ぱちぱちと何かが爆ぜる音に気付き、少女は目を覚ました。
とっさに身体を起こすと、赤い霞に覆われた人型の輪郭が、ぼんやりと目に入った。
「やはり暖かくなってきたとはいえ、まだ冷えるのぉ。火が消えておったわ」
その音は、消えていた焚き火に、魔女が再び火を灯した音だった。いくら自分で火を起こせるとはいえ、寒さなどの感覚は普通の人間と同じように感じるらしい。彼女は、揺らめく炎の前にかがみ、火にあたっている。
焚き火から目を反らすと、依然、辺りは暗闇に包まれていた。しかし、うっすらと青みが木々の葉を照らしており、もう暫く我慢すると朝が来る事を教えていた。
容易に火を放つことが出来る魔女に言われたせいもあってか、余計に全身が冷たさを訴え始めた。手足は凍ったように固くなっている。今まで良く眠れたものだ。ぎこちない動きでオリビアは起き上がると、グリンデの作った火種に手をかざした。じんわりと身体に血液が巡りだしてきて、指先が少しの痒みを覚える。
「おんしは外で寝ているというのに、我が火をつけるまで気が付かなかったのか。獣だったら食われとろうに」
起きてすぐにかける、まともな言葉がこれか。もっと他にあるのではないか。
目覚めて間もないうえ、寒さで頭も回らない。オリビアはその冷やかしに対し、鼻で返事をするのがやっとであった。
しばらくそのまま火に手を当てていると、だいぶ指先が動くようになってきた。手を握って、開いてを繰り返す。少しぎこちないが、もう支障はないであろう。
グリンデはとうに温まったのか、既に立ち上がり、先ほどから手を高く上げ、肩をぐるぐると回している。彼女はそのまま腕を交差しながら、こちらに振り返り口を開いた。目覚めてから三言目はなんだろうか。また冷やかしが飛んでくるのか、と思ったが、今度は少しまともな内容であった。
「さて……少し早いかもしらんが動くか」
思えば、火で暖まっている間に辺りは随分と明るくなってきていた。焚火から目をそらし、森の奥に目を向けても木々の輪郭が確認できる。不安ではあるが、足も十分に進ませられるだろう。
動物たちも少しずつ目覚めているらしい。聞き覚えのある【オナガガラス】の声が遠くから聞こえてくる。
「……それとももう少し寝て、うっかり獣に食われるか?」
やはり飛んできたか。今度はもう頭も身体も目覚めている。
「……大丈夫です。行きます!」
あっさりと挑発に乗り、力強く返事をし立ち上がる少女は実に単純である。
魔女は、にやりと口角を上げると、懐に手を入れた。小さな巾着が取り出されると、その中身を焚火に向けて振りかけた。乾いた音と共に白い粉末が辺りに舞い、たちまち、焚火の炎は小さくなった。少女は少し期待をしたが、これは魔法でもなんでもない。その粉は、火消しに重宝される【ガラ麦】の粉だったようだ。
少女が、放たれたガラ麦粉の山を見つめているのを他所に、魔女はもう森の奥へと足を進ませている。
それに気づいたのはすっかり数歩進んでからであった。そう、のんびりなどしていられないのだ。遅れを取っては置いて行かれる。オリビアは急いで枕にしていた革の鞄に、乙女の涙の入った瓶を入れ、肩にかけると、輝きの花のランタンを手に取り、その背を追った。
オリビアとグリンデは、チェルネツの森から東に向かって進んでいた。目的の地にはもう少しかかるようで、この比較的開けた森林の一角で、一夜を過ごすことにしたのであった。
この森はチェルネツの森に隣接しているのだが、すっかり濃い霧もなくなり、明るく穏やかな印象を与えている。この森周辺の一帯には人は全く住んでいないのもあって、なんと親しまれているのかわからないが、もはやチェルネツの森とは呼べないだろう。
グリンデは、日の当たる場所に落ちていた乾いた枝を積み上げ、山をつくると、そっと手の平をかざし火を付けた。ぼうっと言う音と共に、焦げ臭い香りが辺りを漂う。焚火の炎は、夜が近づいていることで感じる肌寒さだけでなく、これから始まる暗闇に対する恐怖を少し和らげてくれた。
「やはり我の家の周りとは違って、たやすく火が着くのぉ。少し前まで雨が降っておったとは思わんくらいだわい。ここいらは“夢霧の蘭”も咲いておらんから、夜が来ても辺りもよう見えるだろう」
「夢霧の蘭……ですか?」
(……まぁ話しても構わんか)
オリビアは魔法に触れており、ある種の境界線を越えている。別にこれくらいは構わないであろう。
「あぁ。チェルネツの森が霧がかって見えるのは、何も大気のせいだけではない。夢霧の蘭という花が出す花粉で、より視界が悪うなっておるのだ」
焚火が発する火花を見つめながら、魔女は続けて語る。
「我はその花を使って、まぁ、ある種の結界のようなものを作っておったのだ」
(結界……?)
グリンデの家周辺を取り巻く、あの濃い霧の姿がオリビアの頭によぎった。グリンデの家の周りの霧は、森の入口で見たそれと比にならないほど濃く、良くここまで辿りつけたものだと自分でも思ってしまった。あれもその夢霧の蘭とやらの花粉のせいなのだろうか。
しかし結界とは何の事だろう。家を出る際に『チェルネツの森の中では必ず我と手を繋いでいろ』と、グリンデが強く言っていた事が強く印象に残っている。あの時は自分の身を案じてくれているのだろうと、特に気にも留めなかったのだが、今思うとやはり違和感が拭えない。輝きの花もある。獣が多く潜んでおり危険であるから、というのは頷けるが、辺りが把握出来ていない訳ではなかった。特別、手を繋ぐ理由が見当たらない。それも結界とやらに何か関係があるのだろうか。
──ピュウィ
その疑問を問おうと思った時、獣が吠えるような甲高い声が闇夜を割いた。
少女は思わずその声に意識を奪われ、丸まっていた背筋が直立した。膝を抱えるようにしていた手のひらも地に触れ、自然と首元が辺りを見回す。
一方で魔女はどうだ。ぴたりと動かず余裕の様である。
「……結界から出ると、チェルネツの森とは違った獣の声が目立つの。だが心配いらん。今のは恐るるに及ばん」
続く言葉は、やはり冷やかしだ。
「驚いたか?今なら引き返せるぞ?さてどうする小娘よ?」
「そ、そんな!私は帰りません!」
少女は傍に置いていた鞄から小さな瓶を取り出した。 まるで小さな星屑を詰めたようだ。その瓶の中には、暗闇の微かな光を反射する花があった。そう。魔女から受け取った、あの乙女の涙である。
二人が出会ってから四日後、オリビアの体調や、旅に向けての準備が整ったのを見計らって、グリンデの家を出た。
この東の森に向かう前に、一度オリビアの家、そして家の裏手にある母の墓に立ち寄り、受け取った三輪の乙女の涙のうち、二輪を母の墓に植え、こうして一輪を瓶に入れて持って来ていたのであった。
(……私は人々を悲しみから救うの)
この乙女の涙を見るたびに、この旅を始めた決意を思い出し、その度、瓶を握る手に力が入る。
グリンデから“母を奪った病に黒羽族が関わっている可能性がある”と聞いてから、彼らに対しては怒りの感情が大半を占めている。女性らしくおしとやかに。子供の頃、何度か大人たちに言われた事があったが、黒羽族の話をするとそんなことは気にしていられない、汚い言葉しか出てこないであろう。
しかし、もしも黒羽族が生き残っていたとして、目の前に姿を現した場合、どうすれば良いのだろうか。不意をついて襲いかかってきたらどうしようか。せめて、いち早く黒羽族の存在に気付く事が出来れば……そう思ったオリビアは、恐る恐るグリンデにある頼み事を打ち出した。
「……あの、グリンデさん。やはり私にコインを持たせて頂けないですか?」
「それは何故だ?あれほど不気味がっておったではないか」
「コインを持っていたら、魔力を身に宿した者が靄をまとって見えて、すぐに気付く事が出来ますよね?グリンデさんだけでなく、私も相手の存在にいち早く気づく事が出来たら、少しは役に立つかと思って」
「その考えだと向こうからもおんしに気付きやすくなると思うが……まぁそれは我と共におったら変わらんか。良い、わかった」
意外にも、あっさりと魔女はそれを承諾し、ローブの内からコインを取り出し、少女に授けた。コインは相変わらず、浅黒く鈍い光沢を放っており、少し冷たくひんやりとする感触が、より不気味さを醸し出している。
コインを受け取ってから暫くすると、グリンデの身体に赤い靄がまとわりついた。自分の手には白い靄がまとっている。
(これが魔法の力……)
魔力が伝わり、目にした光景に驚く少女の横顔に、笑みを含んだ声が投げかけられた。
「おんしがコインを持っておると、見失った時にすぐ見つけられて便利かもな」
むっと顔をしかめた少女を他所に、魔女は片手を地に着き立ち上がった。
「……まぁ、疲れがあっては旅が遅くなるのも事実だ。飯は起きてからで良い。我はもう寝るぞ」
そういうとグリンデはちょうどよさそうな朽ちた倒木を辺りから見つけ、たき火の近くに転がすと、巻いていた腰巻をそれに被せ、枕にして横になった。
朝から歩き続けたのもあって、オリビア自身も疲労の存在を強く感じていた。たしかに明日のことを考えると、今すぐ多くの眠りを得ないと、冷やかされるどころでは済まないかもしれない。
オリビアは鞄から乙女の涙が入った瓶を取り出し、地面に置くと、少し軽くなったその鞄を枕にして、仰向けに寝そべった。
目の前の木の葉たちが作るカーテンの隙間から見える空が、もううっすらと星々を迎えているのもあってか、いくら少しの視力が働くとはいえ、恐怖心は容赦なく全身を襲ってきた。こうして地面に横になると、余計にである。
二人の話し声がなくなると、辺りは驚くほど静寂に包まれた。目を閉じると、木の葉が風にそよぐ音、虫たちの声、焚火が燃える音、そして隣で眠る魔女の寝息が、よりはっきりと聞こえてくる。耳を中心に全身の神経がするどく尖り、鼓動が高鳴る。……先ほどの獣の声の主は遠くへ行ったのだろうか。再びあの声が頭の中でこだまを繰り返す。
鞄に入っている、何かの堅い部分が頭に当たる心地悪さもあってか、オリビアは再び起き上がると、焚火の近くで寝ているグリンデの近くまで寄った。そして少し遠くに置いていた、あの輝きの花のランタンを顔の近くに置いて、もう一度瞳を閉じた。オリビアの魔女に対する信頼感は、本人の予想を上回っていたようだ。何度か呼吸をしていると、ゆっくりと全身から力が抜けていくのを感じた。
これから何匹羊を数えるのだろうか、と考えていたのだが、やはりよほど疲れていたのだろう。もはや記憶の縁。少女は魔女が触れた “結界”の話も忘れ、すぐさま意識は眠りの沼へと誘われた。
ぱちぱちと何かが爆ぜる音に気付き、少女は目を覚ました。
とっさに身体を起こすと、赤い霞に覆われた人型の輪郭が、ぼんやりと目に入った。
「やはり暖かくなってきたとはいえ、まだ冷えるのぉ。火が消えておったわ」
その音は、消えていた焚き火に、魔女が再び火を灯した音だった。いくら自分で火を起こせるとはいえ、寒さなどの感覚は普通の人間と同じように感じるらしい。彼女は、揺らめく炎の前にかがみ、火にあたっている。
焚き火から目を反らすと、依然、辺りは暗闇に包まれていた。しかし、うっすらと青みが木々の葉を照らしており、もう暫く我慢すると朝が来る事を教えていた。
容易に火を放つことが出来る魔女に言われたせいもあってか、余計に全身が冷たさを訴え始めた。手足は凍ったように固くなっている。今まで良く眠れたものだ。ぎこちない動きでオリビアは起き上がると、グリンデの作った火種に手をかざした。じんわりと身体に血液が巡りだしてきて、指先が少しの痒みを覚える。
「おんしは外で寝ているというのに、我が火をつけるまで気が付かなかったのか。獣だったら食われとろうに」
起きてすぐにかける、まともな言葉がこれか。もっと他にあるのではないか。
目覚めて間もないうえ、寒さで頭も回らない。オリビアはその冷やかしに対し、鼻で返事をするのがやっとであった。
しばらくそのまま火に手を当てていると、だいぶ指先が動くようになってきた。手を握って、開いてを繰り返す。少しぎこちないが、もう支障はないであろう。
グリンデはとうに温まったのか、既に立ち上がり、先ほどから手を高く上げ、肩をぐるぐると回している。彼女はそのまま腕を交差しながら、こちらに振り返り口を開いた。目覚めてから三言目はなんだろうか。また冷やかしが飛んでくるのか、と思ったが、今度は少しまともな内容であった。
「さて……少し早いかもしらんが動くか」
思えば、火で暖まっている間に辺りは随分と明るくなってきていた。焚火から目をそらし、森の奥に目を向けても木々の輪郭が確認できる。不安ではあるが、足も十分に進ませられるだろう。
動物たちも少しずつ目覚めているらしい。聞き覚えのある【オナガガラス】の声が遠くから聞こえてくる。
「……それとももう少し寝て、うっかり獣に食われるか?」
やはり飛んできたか。今度はもう頭も身体も目覚めている。
「……大丈夫です。行きます!」
あっさりと挑発に乗り、力強く返事をし立ち上がる少女は実に単純である。
魔女は、にやりと口角を上げると、懐に手を入れた。小さな巾着が取り出されると、その中身を焚火に向けて振りかけた。乾いた音と共に白い粉末が辺りに舞い、たちまち、焚火の炎は小さくなった。少女は少し期待をしたが、これは魔法でもなんでもない。その粉は、火消しに重宝される【ガラ麦】の粉だったようだ。
少女が、放たれたガラ麦粉の山を見つめているのを他所に、魔女はもう森の奥へと足を進ませている。
それに気づいたのはすっかり数歩進んでからであった。そう、のんびりなどしていられないのだ。遅れを取っては置いて行かれる。オリビアは急いで枕にしていた革の鞄に、乙女の涙の入った瓶を入れ、肩にかけると、輝きの花のランタンを手に取り、その背を追った。