#02

文字数 3,433文字

 その日は仕事に忙殺された1日だったが、頭の片隅には『あなたは、誰ですか?』の文字がチラついて仕方がなかった。

 「306号室のあの人、いつもあの箱を気にして見ているよね」などと噂され、管理会社等にその旨の通告をされてはいないだろうか、インターフォンが鳴るだろうか、電話のコールが鳴るだろうか、と臆病な小動物のようにチリチリと神経が過敏になっていた。

 「何もやってないのになんでこんな思いをしなければならないのだ」と、いささか憤りの気持ちが湧いてきた。
 それと同時に、またあの箱を、もとい、あの箱の中に入っていたメモをもう一度確認してみたいという、好奇心をも持ち合わせていた。

 時計を見た。もう23時を回っている。この辺りは都心から外れた地域でファミリー層が多いため、この時刻になればすでに静寂が訪れている。本日の仕事はもうひと段落しており、思い立ったようにスマホとキーケースを持って玄関を出た。

 エレベーターに乗り込む際に、たまに敷地内で顔を合わせる同い年くらいの女性とすれ違ったが、それ以外は誰とも顔を合わせることなく共用のゴミ捨て場まで辿り着いた。

* * *

 街灯も控えめな暗がりの空間に、あの白い箱は鈍くも上質な輝きを放っている。その美しさに吸い込まれるように、身体を箱のもとへと近づけてゆく自分はまるで、灯りを好んで寄って行き、その周りを飛び回る蛾にでもなったかのようだ。
 周りに人の目がないかを確認し、その場にしゃがみ込んで箱の中を覗き込んだ。

 『あなたは、誰ですか?』

 昼間見たときから寸分変わらず、そのメモはまだそこに存在していた。
 この箱を遺棄した元持ち主を尋ねているようにも思えるし、いつも箱を気にかけている私に対して問いているようにも捉えられる文面だ。名前を聞かれているのか、こちらの個としての存在を問われているのか―――。ろくに哲学などには触れてこなかった人生だったが、とても思慮深い気持ちにさせてくれる不思議な感覚に陥る。
 とはいえ、「このメモの目的はなんなのだ」という、現実的な冷めた思考を持つことも忘れない。順当に考えれば、箱を捨てた者を探すためのもので、当人がそれを一旦引き上げ、常識的な方法で再度廃棄するようその行動を促す効果を期待してのことだろう。
 しかし、だとすれば、こんなに取り留めもない書き方をするのだろうか。
何の気なしに箱の中に手を伸ばして、その紙切れを摘み裏返した。一見すると特に何も書かれていないように見えたが、何せこの暗がりの中なので、その判断は確かではない。

 紙切れを持つ手を顔に近づけたとき、コツコツコツとヒールの音があたりに響き渡った。

「まずい、誰か来る―――」

 脊髄反射で立ち上がると同時に、そのメモ紙をポケットに突っ込み、さらに間髪入れずにコンビニの方角へと歩き出した。『夜食を買い求めに歩いている人』にカモフラージュできているだろうか。
 その足音の持ち主である女性は私と擦れ違ったあと、私の住むマンションのエントランスへと消えていった。ひどく疲れた顔をしていた印象で、夜中にうろついている私のことは特に気にも留めていなかったようだ。

* * *

 『好奇心は身を滅ぼす』という言葉が頭の中を反芻した。
 私はデスクに広げた紙切れを眺めていた。先程ポケットにぞんざいに押し込んだそれを広げて丁寧に手のひらで伸ばし、改めて明るい部屋の中で再度見ても、表面に書いてある言葉は『あなたは、誰ですか?』。
 衝動的に持ち帰ってきてしまったが、当然そんなつもりはなかったために罪悪感に苛まれている。

 そもそも、この箱を捨てた張本人でもなければ、ここの管理者でもなく、このメモとは全く無関係の人間なのだ。そんな当事者でもなんでもない者が、他人に宛てられた文書を勝手に持ち出してしまう行為は、何か法に触れたりしないだろうかと、どんどん小心者の考えに陥ってしまった。

 馬鹿馬鹿しい。とにかく、こんなものを自分の手元に置いておいても仕方がない。かといって、勝手に捨ててしまうのもケチがつくような気がする。 同じ場所に戻すのが筋ではないか。ここのところ、ゴミ捨て場に置いてあるだけのただの箱に翻弄されていた気がする。あまり健全とは言えない。

 最後にもう一度メモに視線を向ける。多少なりとも関わってしまった負い目もあり、犯人探しの一役を担う意味も込めて、未だ白紙である裏面に『この箱を捨てた人は誰ですか?』と書き加えた上で、再度自室を出て1階に降りてゴミ捨て場に舞い戻り、先程追記した面を表にした状態で白い箱の中に入れた。

 その瞬間、つきものが取れたかのような軽やかな気分になった。箱が捨てられる現場を目撃したことから始まり、いつまで経っても引き上げられない様子からここ数日間にわたり気にしてしまっていたが、こんなことに関わる立場でもなければその筋合いもないのだ。早く元の持ち主が現れ、撤去されることを願い、その場を後にした。

* * *

 休日。特に予定もない日だったので、午前中は少し寝坊して、簡単に部屋の掃除をした。
 今日は映画を自宅で何本か観ようか。サブスクリプション契約している配信サービスに繋ぎ、新着や関連して表示される作品を物色した。気になった映画を片っ端からお気に入りにストックしていくと途端に楽しい気分になってきて、「昼間から飲んでしまうのもありかもしれない」と名案が思い付く。そうと決まったら買い出しに行かなければ。

 連鎖的に、今日は資源ごみの収集日ということに気付き、貯まっていたペットボトルやワインのボトルビンを集め、まだ収集業者が来ていないことを祈りながらゴミ捨て場へと急いだ。

 しばらく続いた曇天が嘘のように今日の天気は晴れやかだった。
 遠目からゴミ捨て場を見遣ると、あの見慣れた白い立方体がいまだに同じ場所に鎮座しているのがわかる。つい先日までは、近所に住む小さな子供と挨拶を交わすときのような微笑ましい存在として捉えていたが、変に関わってしまったばかりに、多少の忌々しさや気の毒な思いを持つ対象となる存在に心情が変化していた。

 手に持っていたペットボトルやビンを設置されている回収ネットとボックスにそれぞれに入れようとしたところ、後ろから「おはようございます!」と威勢の良い声がかかり、振り返ると資源ごみの収集業者だった。「それ、もらっちゃいますね」と、私の手から複数のペットボトルを受け取ると、大量のペットボトルの入った回収ネットを引き上げようとした。その際、手前にあった白い箱が業者のおじさんの大きな片足の踏み台になった。さらに、その重量のあるネットが箱に勢いよくあたり、ズズズズと歪な音をたて数十センチほど引きずられた。おじさんは足で乱暴に箱の位置を戻し、乗ってきた軽トラにネットの中身を豪快に入れ込み、それが終わると再度箱に足をかけて、ネットを元あった場所に掛け戻し、元気よく会釈をして次の作業場へと移っていった。
 その一部始終を目の当たりにし、居た堪れない気持ちになったのは言うまでもない。

 よくよく考えてみれば、直径40センチメートルそこそこの大きさである。その箱を避けて家庭ゴミを置く必要があるから正直邪魔なのだ。今のような扱われ方をされるのも納得だ。この箱が置かれてもう10日以上は経っていると思うが、他の住人はどう思っているのだろうか。というより、これを捨てた張本人だって同じ場所にゴミ捨てにやってくるというのに、いまだ撤去されていない様子をなんとも思わないのだろうか―――。

 明るい日差しの中でその箱を初めてしっかり見たと思うが、私の記憶の中にあった白い箱とは違い、随分と汚れていた。縁の部分はところどころ欠けたり、線状の黒ずみ汚れも随所についている。踏んだり蹴られたりしたときについたのであろう靴の跡も数カ所に見られる。

 依然、紙切れが中に入っているのが確認できたが、それを見て「あれ?」と不信に思った。
 何も書いていない、白紙の紙に入れ替わっていたのだ。
 昨夜、自分が衝動的に自室に持ち帰ってしまった紙には、片面には元々『あなたは、誰ですか?』と書かれていた。そしてもう片面には私自身で『この箱を捨てた人は誰ですか?』と追記したのだった。それが何も書かれていない紙になっているということは、誰かが入れ替えたのだろう。
ゆっくりと腰を箱の前に下ろし、やや高揚した気分でその紙切れをめくった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み