4-4 私にとって、聖書の次に 【カトリック仙人 天佑 視点】

文字数 1,783文字


 極一部の馬鹿者どもによる、とはいえ我が宗派がやってしまった罪の形を、同じくらいの伝統を誇る他宗派の妻に告白中。情けなくも癒されていく。

「これほどまでの悪逆、極悪がカトリックの内部に侵入していたという事例。それでも、それでも世界は壊れないんですよ。数多くの幼子に最悪の不幸をもたらした不幸であれど、目を背けたくなるほどの悪行でも、世界自体は、これほどのことでもビクともしない。

 私とて、人の世とは距離をとるべき存在、仙として領分は守る、守らねばならない。人界でなにが起ころうとも仙人がなにができるわけでもない、してはいけない。長生をもって留まることを許された存在は『このままでは世界が壊れかねない』というほどの恐れが生まれぬ限りには、直接的な関与は決して認められない。なんとかしたくても、罰したくても治したくても、この身にはそんな権限は与えられない。どのような人類への困難も、社会に満ち満ちる問題も『超越に至れない至ろうともしない』そのような『尊き只の人の群れ』が乗り越えなければならないものなのだから」



 そして、なおもカトリック仙人 天佑の精神的外傷(トラウマ)を披露しつづける。

「でも、だけれども、そうなのだけれども……その事件を主題にすえた映画をみたとき、その映画館で、ある女性がいきなり泣き伏したんです。その時、ほんとになにもかもが壊れてしまいそうで、自己の存在基盤が、グズグズと腐敗していくような、私はなぜ、その彼女を、いえそれこそ、それらの事件の当事者であったかどうかなんて、わかるはずがないし、正直わかりたくもない。

 それこそ、その理解したくないという心こそが汚い気持ちだということなのか、もしかしたら、この胸の内の信仰は独りよがりでしかないナニカ良くないものでしかなくって、私は守るべきではないなにかを守ろうとしているのか、そんな男でしかないのか。そんな、そのような苦しみの連鎖を生みつづけるだけの、こんな考えを止めることができない。どんなにあの暗い劇場での涙を思い返したところで、こちらの自分勝手な感傷以上のものはもちようがなく。

 いずれにせよ、ただ自然に任してしまえば、この胸に湧いてしまうこれらの悲しい想いも、所属するカトリックという名の団体をも含んだ自己正当化に導いてしまうようにしかならなくて、でもそんなのが許されるはずもなく、腹の腑に飲み込むようなソレこそが、深く考えるまでもなく『汚濁に身に浸すこと』に繋がってしまうのではないかと、そんな風ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐると、気が狂いそうなはずなのに頭はどこまでも冷静で……」



「師匠、ロシアや東欧はユダヤ人差別が凄まじい土地でもあります」

 煮詰まった状態で、己の口からただ漏れ出る言葉に翻弄されているカトリック仙人。自己虐待じみた、この脳内の思考の螺旋を止めてくれたのは、私の口を塞いでくれたのは、弟子でもある我が妻 『麗しきは柳生烏丸』(混乱してます)によるいきなりの宣言であって、その内容はかなり根の深い国際的問題。

「正教会が率先してそんなことをしたとは思いたくない、だけど、どう好意的にうけとったとしても、民衆によるポグロム(ユダヤ人への暴行や殺害)を止められなかったのは事実だ。そして弱い者を迫害するなんてことが、御心であるものか!」

 檄を飛ばすよに、まっとうな怒りを吐き出す彼女。そしてそれは多分、特定の個人に向けるべきものではない感情のはずで。

「力弱き者を踏みにじることなどは、あってはならない。御心であるはずがないんですよ」

 重ねて言う烏丸さんは、心ですがりついてくるよな私に、なおすがりつくような表情で。そして重なりゆく美しい女声、続く文言。

「弱い者を踏みにじってはいけない。そのこと、そのことさえ、せめて私たちの間だけでも、ともに理解できていればいいじゃないですか。そしてそれは確実に私たちだけの理想じゃありません。絶対、それはもう神様ぐらいに絶対に」

 聖書の福音の次に素晴らしき言葉。それを聴いた、少なくとも私にとっては。
 そしてその込められた想いは、どこまでも続くような(とき)(あいだ)、カトリック仙人 天佑としての長い命の中、ずっとずっとこの魂を支え続けてくれるに違いなかった。


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登場人物紹介

柳生烏丸(やぎゅう からすまる)


ヒロイン


柳生剣士でありながら女仙


キリスト教 正教会信徒


詳細は後日

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