第6話

文字数 3,786文字

 荷物を持って、八百屋に寄りたがる都を叱りながら店主と都は商店街を歩く。しばらく歩いただけですぐに都は息が切れて、それでもしばらく歩いては休みを繰り返しながら……残暑、昼の間はまだひなたに出ると汗がにじむ、そんな季節だった。

「大丈夫かい、少し座るか」
「い、いえ……だいじょうぶ……」
「座ろう、そこの公園にベンチがあるぞ」
「すみません……」

 公園には子供すらいなかった。夏休みの終わりとは言え子供だって涼しい場所は知っている。店主は自販機でスポーツドリンクを購入し、都に飲むように言いつけた。

「ほら金はいらないから飲みなさい、脱水まで起こしたら大変だから」
「今日はご迷惑かけてばかりで……」
「申し訳ない気があるなら、十分に栄養をとって身体を休ませるんだね。大丈夫かい、そんなにひどく汗をかいて」
「おかしいな、普段は多少暑くても汗なんかかかないんですが」
「家はもう近いのか?」
「そうですね……公園からならもうすぐ……っ」
「都?」

 未開封のスポーツドリンクのボトルが都の手から滑り落ちる。慌てた店主は折りたたまれたその身体がベンチから崩れ落ちる寸前で抱きとめた。

「おい、都!」

 ***

 誰かが都の名前を呼んだ気がする。しかし辺りを見渡すもその姿はないが……図書館帰りの晴翔が不穏な気持ちで慌て帰宅を急いでいると、その時ちょうど公園から出て来た人影を見る。

「都……?」

 どこかで見たことのある男が背負っているのは間違いなく都だ。ぐったりと目を閉じているその身体を支えながら背負った彼は少し困った表情が伺える。条件反射的に晴翔は二人のものとに駆け寄った。

「都!」
「おや……君は知り合いかい?」
「同居人です。あの何が……?」
「ああ、都の言っていたのは君か、学生さんだって言う」
「はい、櫻葉です」

 櫻葉、その名を聞いた店主はぴくりと片眉をあげる。その時都がうめくような小さな声をあげた。

「都?」
「おい、君の家はどこだ、早く連れて帰ろう。これ、ちょっと済まないが荷物を持ってくれないか」

 そう言って渡された都の荷物を晴翔が受け取って、二人は急ぎ足でアパートに向かう。店主の背中からずり落ちてしまいそうな都を晴翔がその手で支えながら。

 ***

 暑さはあまり感じなかったが身体中汗ばかりかいてしまってじっとりと気持ち悪かった。うっすらと都が目を開けたら天井に見覚えのある染みが見える。

「え……?」
「都、目が覚めたか」

 どこか焦っている晴翔の背後には難しい表情の店主がいる。見るはずのないその風景に都は戸惑って、しばらく自分がいまどこにいるのかが分からなかった。扇風機が音を立てて一番強い風を出しながら音を立てて回っている。

「晴翔さん……どうして……」
「東雲さんが連れて来てくれたんだよ」
「なんで……?」
「おや、覚えてないのかい」

 枕元には砂で汚れたスポーツドリンクのボトルが置いてある。晴翔はそれを開けてグラスに注ぎ、都に飲むようにうながした。都はゆっくりと身体を上げたものの、ひどい眩暈に気分の悪さを感じる。

「これからでも医者を呼びなさい。常日頃の体調不良があるようだし、何なら私の知り合いの医者がいるよ。頼んでみようか?」
「お願いします」

 グラスを持つも水分すら喉につかえそうで飲み込めない、そんな都の汗を拭いながら晴翔は不安な顔をしている。しばらくすると店主がやって来た白衣の医者をドアを開けて部屋に迎え入れていた。都の意思なく彼らは動いて、あっという間にシャツの首元のボタンを外され入れられた聴診器はひやりと冷たくて。都の痩せた白い胸元に触れて診察をした医者は人形のように表情を変えない、彼は体調不良の類なんて常識で嫌になるくらい見慣れているからだろうが、医者のその無表情が都は少し怖かった。

 ***

「今日はありがとうございました、ご迷惑をおかけしてすみません」
「いや、構わないが、しばらくはゆっくり静養するように。バイトに来るのはまた追々、体調が整ってからで良いと伝えておいてくれ」
「はい」

 夜を迎えた頃には診察を終えて都はすっかり眠ってしまっている。落ち着いたその様子を見て、ようやく店主も帰宅の途へ。都の痩せた身体は見るからに栄養も足りていないし、ひどく疲れているようだからしばらくは食事をしっかりとってゆっくりと休むように、医者はそう言って帰って行った。店主の背中も見送った晴翔はさて今夜の食事をどうしようかと考える。料理は都まかせだったから、しかしこう言う時もあるとなると自分でも少し何か作る知恵や技術が必要だ。
 冷蔵庫を覗けばいくつかの容器に作り置きの惣菜があった。傷んでいる様子もなく、これは早朝から忙しい中、都が用意していたのかもしれない。これをおかずにして白米を炊けば立派な夕飯になる。米を入れた炊飯器を慣れない手つきでいじりながら、一方で複雑な感情を抱えた晴翔は、眠っている都をじっと見つめていた。

 ***

「だめ」
「そんな……せっかく前売り券を買ったのに」
「そんな顔してもしばらくは寝ていないとだめだ、映画館なんて持ってのほかだろう」
「座っているだけで観ることはできるじゃないですか」
「じゃあ、そこまでどうやって行くつもりだ? 歩くし、電車にも乗るし、残暑はまだおさまる気配もない」
「うう……」

 数日たってもなかなか体調は回復する気配がなかった。何かと動こうする都を制してなんとか晴翔は食事の用意をする。しかし未だにキャベツの千切りが出来ない。

「映画は涼しくなる頃にまだ上映していたら行こう、人気が出たら延長もするだろう」
「本当ですか?」
「嘘は言わない」

 楽しみにしていた映画も延期することにした。そのせいで今日の都は悲しそうにうなだれている。晴翔だって別に都を悲しませたいわけじゃない、しかし無理をさせて寝たきりの生活が続くのも。

「とりあえず食事にしよう。今日は良い干物があってな、八百屋で勧められたキャベツもあるよ」
「あの八百屋さんはキャベツが美味しいんですよね。いい仕入れ先があるのかな……ああ、千切りは難しかったですか」
「まあな、だから味噌汁に入れたんだ」
「ありがとうございます、うん、美味しそう」

 深東京医専も夏休みが終わる、晴翔も課題はなんとか昨日中に終わらせた。学校が再開すれば再開したで忙しい日々になるのだけれど……。棚の上には病院で処方された薬がある。晴翔はそこから『夕食後』と書かれた粉薬を持って食卓の端に置いた。

「忘れるなよ、薬」
「はい、すみません。早く自由な日々に戻りたいんですよね、バイトもまた行きたいし」
「無理をするな。暑いうちはよく眠って身体を休ませていた方が良いよ」

 都は今日の暇を持て余して、数ページ問題集を解いてから映画の代わりに原作本である小説の単行本を少しずつ読んでいる。そのためか日も暮れると少し疲れた顔をしていた。
 少食の都は食後の薬も飲みすでに布団で横になりうつらうつらとしている。二人が食事を終えた頃に呼び鈴がなった。今日は誰も来る予定はないが……いぶかしげな晴翔がドアを開けた時、そこにいたのは。

「やあ、久しぶりだね」
「東雲さん」

 スイカを抱えた老緑雑貨店店主、東雲暁月が立っている。左手には何かを包んだ風呂敷包みを持って、いつもの彼よりも表情が優しい。

「都はどうだい?」
「食事も食べ終えて元気にしていますよ、おい、都! ……あ」
「はは、眠っているようだね」

 すっかり都は夢の中だった。敷き布団に寝転んで、あどけない顔をして眠っている。

「すみません、さっきまでは起きていたんですけど」
「いや、構わないよ。たまたま渡すものがあっただけだ、これを都に」

 店主はスイカと風呂敷から封筒を差し出した、そこには給料袋の文字が。

「これは先月分の給料、よく働いてくれたからな。スイカはもう今年最後になるだろう、夏も終わって行くね」
「いただいてもいいんですか」
「給料は都の努力だし、スイカは知り合いからもらったんだよ、私一人では食べ切れないからな。何、気にする必要はない」
「すみません、こんな」
「また来るよ、都によろしく」

 それだけを伝えると店主は手を振って帰って行った。給料袋はそれほどの重みはないけれど都の一ヶ月分の働いた成果。実家ではタダ働き同然で、こうしてお金を貰ったのは初めてじゃないだろうか。封筒一つがどこか暖かい、これは都の苦労の賜物である。

「それはスイカ……ですか?」
「起きたか、都。さっき東雲さんが来てね。ほら、これ」

 布団の上で起き上がった都はぼんやりとしながら封筒を受け取った。不思議そうにその封筒を確認して、中に入っている金額を確認している。

「これ、お、お金ですよね……えっ給料?」
「ああ、お前が働いたお金だよ」
「一ヶ月でこんなにもらえるのものなんですか……」
「その分頑張ったんだろう? いいじゃないか、受け取って大事にしろよ」

 都は少し嬉しそうな顔でじっとその封筒を見つめた後、引き出しに大切そうにしまった。何に使うのか、けれどきっと都は無駄遣いはしないだろう。

「ねえ晴翔さん、これで今度何か食べに行きますか?」
「ふ、そのお金は自分のために使えよ」

 都はそれでも迷った顔をして、何かを考えているようだった。日が暮れてゆく、夏休みの終わり。今はただ寄り添う幸せに浸っている、やがて過ぎて行く時に身を任せて。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み