鬼の国は、『春たけなわ』だ。
あれから、シロ様と四度、『満月』の日を過ごした。
最後のときは、一番『ひどかった』。
高熱と『穢れ』に蝕まれ、寝衣の衿を握りしめて苦しむシロ様を、ぼくはただ、ぎゅって抱きしめて、彼の目尻ににじむ涙を舐めとって。
「そばにいるよ。『ひとり』じゃないよ……」
そう、言葉を紡ぎつづけることしかできなかった。
シロ様は、一度だって『弱音』を言うことなんてしなくて。
ぼくは、『無力』だ。
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そんなシロ様が、最近(今までもたまに、どうかしちゃったのかな?? って思うときはあったけれど)おかしい。
目が合うとそわそわしてしまうことが増えたし、この前は一緒に眠るとき、寝衣からのぞく滑らかな胸に頬ずりしたら、びくーん! って跳ねて、急いでお手洗いへ行ってしまった(お着物の上からはいつもさせてくれるのに……これは直接だとくすぐったすぎた、だけ??)。
ぼく、なにかしちゃったのかな……。
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朝。
障子からやわらかな明るさを感じとり、目をゆっくりと開けると、布団で後ろ向きに座っているシロ様が、お着物を開きながら、ぶつぶつとつぶやいている声が聞こえた。
「うう、ぱんつ、五枚重ねにしなきゃだめだろうか……」
(ぱんつ……?)
目をこすりながらシロ様の言葉を反芻する。ぱんつが、五枚……??
「シロさま、ぱんつって一枚はけばいいんだよね……?」
ねぼけたまま、なんの気なしにひょいっとシロ様をのぞきこもうとすると……。
「ひゃあっっ!!」
シロ様は素早く股の間を押える。
「…………」
「…………」
耳まで真っ赤になって気まずそうに、目を泳がせるシロ様。
ええと、ぱんつが五枚必要で、大切なところを隠さなくちゃいけなくて……それは、つまり。
「……あ!」
真意に気づいて、ぼくも沸騰したみたいに赤くなる。
「ご、ごめんなさい、シロ様! あの、その、オスだもんね!! そうなるときもあるよね!!」
真っ赤なまま、どんどんうつむいてゆくシロ様に、必死にフォローをする。
「ほらだって、朝は特にっ」
「……クロは?」
「え」
「クロは、こうなってるの見たことないですけれど」
隠しながらも、少し拗ねたように言うシロ様。
いや、普通になるときはなるよ……?
欲情しちゃったときも、シロ様がいないときに隠れて『処理』しているし……。
「あの、シロさ」
説明しようとしたとき、
「失礼いたします。朝餉をお持ちいたしました」
「あ、ああ。ありがとう……そこへ置いておいていただけますか」
襖越しに女中さんの声がして、そのまま、この話題は立ち消えになってしまった。
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「それじゃあ、行ってきますね……」
「い、行ってらっしゃい……」
ぎこちない空気のまま、お部屋を出てゆこうとするシロ様。
なんだか、このままではいけない気がした。
襖に手をかけたシロ様の袖をとっさにつかんで、上目遣いに打ち明ける。
「ぼ、ぼくもなるよ!」
「?」
顔が熱くて、心臓が爆発しそうだけれど、伝えたかった。
「血の巡りがよくなったり、すきなひとのこと想ったりしたら、普通におっきくなる……オスの部分」
シロ様も、伝染したみたいにぶわっと赤くなる。
「だ、だからね、それは『当たり前』の仕組みなの! シロ様とぼくは、『一緒』、だからね!!」
「…………はぁ〜。本当に、あなたってひとは……」
深いため息と共に、ぼくの肩に手を置き、しゃがみこむシロ様。
「あの……? シロ様?」
「適わないなぁ」
シロ様がへにゃって、困ったように笑った。
「???」
「帰ってきたら、覚悟しておいてくださいね。もっと話したい」
「……え」
にこっとぼくに笑いかけて、お部屋から出てゆくシロ様。
話すってなにを??
よくわからないけれど、その笑顔がすごく色っぽくて。しばらくぽーっとしてしまった。
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十数分くらい、夢見心地だったけれど、ずうっとぽーっとしていちゃ『だめ』だ、なにかお手伝いできることを探してがんばらなくちゃ、と、お部屋のお掃除をすることにする。
文机に目を遣ると、そこには。
「あれ。この箱……」
桐でできたその箱は細身で、あちらこちらに色とりどりの宝石と、きれいな模様があしらわれている。すごくすごく見覚えがあって、さあっと血の気が引いた。
これ、『王家の万年筆』だ……!!
シロ様から聴いたことがある。鬼の国の大切な書類は絶対、この万年筆で署名をしなくちゃいけなくて、『国の宝』だって。
シロ様は毎日、肌身離さず持ち歩いていたのに。今日のぼくとのいざこざで、きっと記憶から飛んでしまったんだ。というか……。
『仕事道具』を忘れたなんてばれたら……シロ様がクレナイ様に、命が危ういレベルの《《おしおき》》されちゃうかも……!!
どうにかクレナイ様に内緒で渡せる方法はないかな、と一生懸命考えつつ、木箱を大切に両の手のひらに包み、執務室まで静かに走る。
だんだん執務室が見えてくると、ぼくの耳は、シロ様の声をキャッチした。なんだか、この距離にしては大きい声……もしかして気づかれちゃったのかな!?
慌てて近づくにつれ、どちらかというとうれしそうな声色なので、安心したけれど。でも。
別の心配が浮かびあがった。
ど、どうしよう。もはや叫ぶような音量なのだけれど……。ぼくじゃなくても丸聞こえだよ?! もしも、鬼の国の大切なお話だとしたら……!!
急いでノックして知らせようと、手の甲を執務室の扉に向けたそのとき。信じられないシロ様の言葉が、辺り一面に響きわたった。
「もう本当に、心から愛しているんだ!! 襲いたい!!」
え。
頭を強く、殴られたような。
ぐわんぐわん、世界が回るような心地がした。
『心から、愛している』。
『襲いたい』……。
そうか、最近のことは全部。
クレナイ様への気持ちが、『我慢』できなくなっていたから――……。
目頭が熱くなってきた。わかっていた、はずなのに。そう。シロ様はずっと、クレナイ様と仲がよかったもの。
くちびるをぎゅっと噛んで、必死にこらえる。……泣くのは、『だめ』。まずは、『万年筆』が先。
ぼくは、静かに呼吸を整えてから、とんとんとん、と扉を叩く。そして、すぅー、と、限界までお腹に息を溜めこんで、
「シロ様あー!! 失礼します、ですーっ!!」
さっきのシロ様に負けないくらいの大きな声で叫んだ。
「クロ! どうしてここに……!?」
「騒々しいぞ、犬っころ」
「ご、ごめんなさいです、クレナイ様。シロ様、あの、これ。お仕事のときに必要と思ったから……」
驚いた様子のシロ様と、眉をひそめたクレナイ様が執務室から顔をのぞかせる。ぼくはそっと、箱に入った万年筆を差しだした。
「……ぅえっ!? 王家の万年筆……忘れていましたか私!? ああ、ありがとうございます。助かりました、クロ!」
「うん。お役に立ててうれしい。どうぞ、シロ様……」
普通に、いつも通りにしなくちゃいけないのに。
笑顔はがんばって作れても、手が、少しだけ震えてしまった。
「クロ? どうかし……」
「あ゙ぁ゙……? なに国宝を置き去りにしちゃってんだよお前?? それがなきゃ仕事成り立たないだろうが……」
ぼくの手をとろうとしたシロ様の真後ろへ、瞬間移動を極めたクレナイ様は、今まで見たことのないような恐ろしい顔をしていた。これが本当の『鬼』というもの、なのかもしれない。
「だ、だってあの、最近いろいろ悩ましくて……テ、テヘ♡☆なーんて……」
「そうだよなぁ、モンモンモンモンしてたよな。じゃあそのモンモンパワーで20倍くらい今日は仕事こなせるよな??」
「いやちょっと待ってクロの様子が……」
「ほらさっさと来いや」
地の底から響きわたるような低い声音でシロ様の襟首をつかみ、引きずりだすクレナイ様。そんなふたりの遣り取りを、もうぼくは、しっかり直視なんてできなかった。でも、できる限り、『いつも通り』を言い聞かせる。
「クレナイ様、ごめんなさいです。全部全部、ぼくのせい、なので。シロ様もごめんね、こっそりできなくて……。――応援してる」
「クっ、クロー!?!!」
シロ様の悲鳴に後ろ髪を引かれつつも、多分『真実』には気づいていない様子に『安堵』し、猛ダッシュでその場を離れる。……その場から、転がるように逃げだしたんだ。