第4話

エピソード文字数 4,971文字

 その後すぐゴールデンウィークに入る。
 新元号とか十連休とかで世間的にはいつもよりめでたい空気があったけど、私はまた何か不吉なことが続くんじゃないか、という不安を抱えたまま。
 連休はアルバイトでそれなりに忙しかった。普段通りの子供たちの世話や雑務に加えて、イベントが二つあったから。
 一つは職人さんを招いてのお菓子作り体験会、もう一つは遠足。小学校低学年までの子たちで東武動物公園へ出かけた。 
 あまり素行の良くない子も多くて遠足は心配だったけど、みんなその日は割といい子で、でも、一般家庭の家族連れの子を見て、美奈ちゃんが泣き出してしまった。
 ママに会いたい、ママ連れてきて、お家帰して、と。他の子にも伝染し、しばらくちょっとしたパニックになってしまう。
「痛い時に撫でてくれた」という彼女のお母さんは、育児放棄で彼女を餓死寸前に追いやり逮捕されている。裁判では執行猶予付きの判決を受けたけど、二度と一緒に暮らすことはないだろうと主任さんが言っていた。
 被虐待児は普通の子より親に依存しがちと言われている。愛着障害を一生引きずる人も多い。そして自分が親になると虐待してしまう傾向も普通の親より格段に高い。美奈ちゃんのお母さんだってそうだったらしい。

 母に守られてぬくぬく育ってきたことに罪悪感と、この子たちにちゃんと寄り添えているかと不安を抱く時がある。
 多分、普通より希望の少ない人生だ。それでも、生きている。生きてくれている。これからがある。それが少しでもよくなるように尽くさなきゃいけない。
 そういう忙しさの中で、一連の出来事は早々に風化していき、相川さんと会わなかったのもあって五月半ばくらいにはほとんど思い出さなくなっていた。

 六月も半ばに入る頃から、私は体調の変化に悩まされることになった。
 頻繁に吐き気に襲われたり、やたらトイレが近くなったり。また妙に鼻が利くというか、匂いの変化に敏感になった。炊いたご飯の匂いを嗅ぐと気持ち悪いと感じるようになり、家でも学食でもパンや麺類ばかり食べるようになった。
 母や友だちは心配したけど、私は苦しみつつもそう深刻に考えてはいなかった。手術後の私は女性ホルモンもあまり作れない体になっていて、そのことによる体調不良は今までもあったから。
 相川さんとの再会を果たしたのは下旬に差し掛かろうという日のこと。
 その日シフト通りに施設に行くと、駐輪スペースにバイクが停めてあった。職員さんの50ccは見るけどそれは大型バイクで、一つ目みたいなヘッドライトが印象的だった。
 そしてもう一つ、ピアノの音が漏れていた。施設のプレイルームにはピアノが置かれていて、先生たちが弾くのは童謡だとかアニメの曲だとか。
 これは初めて聞く、とても綺麗な曲だ。
 軽く跳ねるような音も、重い低音も、一つ一つの音が明瞭で繊細で濁りがなくて、きっとこれが正解なんだろうという。「弾けることは弾ける」くらいの私でもわかる、素晴らしい演奏だった。
 中に入って真っ直ぐプレイルームへ。戸を開けると、ジャケットを着た広い背中と襟足を刈り上げた頭が飛び込んでくる。長身だけど男性に比べると細く見える。相川さんだ。
 いつか再会するとは思っていたし、その時「汚らわしい」の意味を問い質すか迷ってもいた。だけどこの時の私はそんなことも忘れて、ただ見入って、聴き入っていた。室内にいる子達もだ。美奈ちゃんは、一番音響の良い位置に座って、時折手足をばたつかせる。
 相川さんの背中が、鍵盤を叩く指が跳ねる、踊る……その姿はすごくかっこよくて、なのに部屋を満たしている音色の悲しさはなんだか泣きそうになる。だけど。

「っ……」

 相川さんが唐突に演奏をやめ、こっちへ振り返る。私を認めると顔をしかめ、「ごめんね」と子供たちに言って立ち上がった。

「邪魔しちゃった? ごめんなさい」

 なるべく音を立てないように入ったつもりだったけど。彼女はまっすぐにこちら、出入り口へと歩いてくる。

「でも、演奏は続け――」
「丸屋恵那」

 いつか「寄らないで」と言った彼女が今は自分から私に近づいて、他の子達には聞こえない声で告げた。

「帰って。もうここには来ないで」

「汚らわしい」に続いて「帰って」とまで言われたのには唖然としたし、少し時間が経つと前のことも合わせて腹が立ってきた。
 帰ってしまったのは相川さんの方で、彼女に代わって私がピアノを弾いてあげることにする。あの人より子供たちの心を掴んでやるんだ、と意気込んだけど技術の差は明らかで、「愛ちゃんが弾いてたの」をリクエストする美奈ちゃんに謝り、施設で見ているアニメの曲でお茶を濁すことになった。

 そのバイトも終えて、帰りのことだ。いつも通り北千住へ向かうスカイツリーラインの車内、相川さんに次会ったらいい加減文句を言ってやろうか、と思いながらスマホを弄っていると。
 突然、声が響いた。

んぇあっあっあ゛

「っ!?」

 反射的に顔を上げ、あたりを見回す。

えぁはぁっきゃっぃあっひぁっあ゛

 赤ちゃん特有の甲高い、車両中に響き渡るような大声。笑い声だ。
 でもおかしい。
 赤ちゃんなんて車両内のどこにもいない。
 そして周りの誰も、この声に反応していない。スマホを見たり本を読んでいたり、まるで何事もないかのように。

あはぁああっひゃっきひっあっ
 
 実に楽しそうで、無邪気で。
 どこから聞こえてるのこれ……?

「あの、赤ちゃんの声しません?」すぐそばの女性に聞いてみても、怪訝な表情で首を振るだけ。
 脳裏に浮かぶのはあの時の笑顔。
 両手で耳を塞――んまあっひゃっやっん――ダメだ。
 
「嫌……、っ!?」
 
 ドンッと大きな音がして、電車が突然大きく揺れた。
 激しい金属音、急激な減速、皆が吊革や周囲の物に掴まって体を支え……停まった。
 車窓から覗く駅のホームでは利用客が何やら騒いでいる様子だった。駅員さんが走っていくのが見えた。

『えーただ今、ただ今人身事故が発生しました。救護活動のためこの電車はしばらく停止します。お急ぎのところ申し訳ありませんが車内でお待ちくださいますようお願いいたします』

 赤ちゃんの声はもうしなかった。
 それからしばらく、ホームを駅員さんが頻繁に行き来していて、そのうち制服姿の警察官も何人か足早に通っていく。その様子を興味深げに眺める人、スマホで撮影している人、どこかに謝罪の電話を入れ、何度も頭を下げた後、「家で死ねよ」と毒づく人がいた。
 降りることができたのは一時間余り経ってから。夏の夜の外気の心地がよかったけど、鼻で息をしないようにする。左手数十メートル先に青いシートが張られ、駅員や警察官が集まっているのが目に入る。
 あそこが「現場」――背筋がひやりとする。
 単純に肌寒かったからでも、凄惨な遺体の様子を想像したからでもない。この駅に降りるのは約二ヶ月ぶり、あの時以来だ。
 五反野駅。
 降りたところのすぐ近くには、由香里さんが死亡したあの階段があった。
 やはり自殺で、スーツ姿の男性が電車に飛び込んだらしい。遺書らしきものが肉片と一緒に車輪に貼り憑いていた、と。
 そのあたりのこと、そして男性の身元を知ったのは、翌日のネットニュースでのこと。
 由香里さんの夫、智也さんだった。

 事故の翌日も私はバイトがあって、出勤まで余裕のある時間に今度は自分の意志で五反野へ降りた。
 来るかどうかはずいぶん迷った。単純に怖い。私だけに聞こえる赤ちゃんの笑い声、直後に智也さんが私の乗っている電車に飛び込んだ。因果関係はわからない。わからないけど。
 現場に行って、またあの声が聞こえてきたらどうしよう。
 なのに来てしまっている。私は由香里さんがたまたま目の前で死んだというだけであの家族と無関係だし、死んだ人にはもはや何もしてあげられない。でもなんだか手を合わせるくらいは、しておかなきゃいけない気がした。
 智也さんの死から丸一日も経っていないのにホームには利用客がいて智也さんが飛び込んだ1番線にもごく普通に電車が停まる。ブルーシートが除かれているのは、もう「片付いた」ってことなんだろう。そうでなくては困るとはいえ、これはこれで何か怖い。
 ルミネの花屋で買った花を手に飛び込んだあたりへ向かうと、献花台の類は見当たらなかったものの、ホームにしゃがみ込んで手を合わせている人がいた。
 初老の男女。何だか見覚えがあるなと思えば……由香里さんのお通夜で見かけた二人だ。通夜が終わった後、清美さんに同情するやり取りをしていて、それを聞いた相川さんが毒づいた――。
 しゃがみ込んでいた二人が立ち上がり、男性の方がぼそりと言った。

「やっぱもっかいお祓いしてもらった方がよくないかなあ」
「へ」

 思わず反応してしまい、二人が振り返った。抱えた花を見た奥さんに「智也さんに?」と聞かれ、頷くとお礼を言われる。

「お二人は、ご親戚ですか?」
「ええ」

 男性の方が智也さんのお父さんの従兄弟、という関係だと二人は名乗った。

「あの……お祓いって、その、何かあったんですか?」
「……」

 さっきの言い方からすると一度はしたんだろう。単純に不幸が続いたから、でいいのか。それとも他に何か不吉な出来事や予兆じみたことがあったのか――私が見た奇妙な夢、聞こえるはずのない笑い声のような。

「あなたは……智也さんとどういう関係?」

 至極当然のことを確認された。由香里さんの死に続いてその夫が自殺したことはニュースにもなっている、気軽に人に言えることじゃないんだろう。
 どう答えるか少し迷って、正直に言うことにした。少し無理をしてでも聞いておかなきゃいけないと思うくらいには、私の中の一連のことへの恐れは大きくなっていた。

「由香里さんがこの駅で倒れた時、一番近くにいたんです。お通夜にも行って……それで、旦那さんが亡くなられたって聞いて」

 流石に夢や声のことは言えなかったけど二人にはそれなりのインパクトがあったらしい。深刻な表情で顔を見合わせる。
 学生証を見せ、決して口外しないと約束した上で、二人は信じられないようなことを話してくれた。

「由香里ちゃんが死んだとき妊娠してた赤ちゃん、由香里ちゃんの子じゃなかったんだよ」

 …………どういうこと?

「時期が合わないとかだったのかな、浮気を疑ったのか知らないけど……死んだ子のDNA鑑定をしてもらったら、なんと智也くんどころか由香里ちゃんとも親子関係がないって結果だったとかで」
「そんなことって」
「ないわよ、代理母でもなきゃ。だけどそんな処置の痕跡もないって。智也さんもだけど、向こうのお母さんも何だかボケちゃったみたいなの……病院で意識が戻った後もわけわかんないこと言ってるとか、まだ七十歳前なんだけど、気の毒にね」

 それで、智也さんは妻子を喪っただけでなく、恐らく精神的な混乱に耐えられなくなり、由香里さんが亡くなったこの駅で命を断った……らしい。
 話を聞き終えるとお礼を言う。声が震えているのが自分でもわかった。
 旦那さんが去り際、「気休めかもしんないけど、お姉さんも行ってみたらお祓い」と勧めてくれた。私に話してくれたのはそのためだったようだ。
 二人がいなくなって私は一人、花を持ったまま考えていた。
 つまり、つまりどういうこと……? 
 あの時笑って死んでいた赤ちゃんは、そもそも由香里さんの子ですらないって、じゃあ誰の子? どうやって妊娠したっていうの?
 あの夢、あの歌との関係は。これから私に何か起きるのか。わからない。
 ただ、もはや「なんとなく気味が悪い」「不吉な偶然」では到底片付けられない。
 三十度を超える暑さの中、脇や背中をじっとり濡らす汗は、多分冷や汗だった。
 どこからかまた、赤ちゃんの声がした。周囲に赤ちゃんはいるかどうか、私は確認する気になれなかった。
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登場人物紹介

丸屋恵那(まるや えな)


大学で幼児教育を専攻する女子大生。

子供を持つことに強い憧れがあるが、過去の白血病治療で自然妊娠は難しい体。

しかし、処女のまま突如として妊娠するところから物語は始まる。

相川愛(あいかわ まな)


恵那のバイト先の児童養護施設へボランティアに訪れる女性。

生まれつきの霊感のために親から虐待を受けた過去があり、基本的に親を嫌っている一方で里親の二人には愛情を抱いており、施設の子供たちにも優しい。

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