第3話

文字数 2,335文字

「あなたさえいなければ」
 蒼白な顔で呪いの言葉をつぶやく男。
「あなたさえいなくなれば、あの方を脅かすものはなくなる。そう思っていた。あなたに対する執着は同情からきたものだと思っていた。それなのに、あの方は見るも痛々しいほどに我を忘れられて、魂が抜けたようになってしまった。それほどまでに、あなたはあの方の心を占めていたのか? なぜ」
 わたしはただ呆然と、目のまえで恨みごとをいう彼を見あげる。
 たしかに彬さんのようすはただごとでなかった。けれど、その原因が、わたし?
 あの冷静な彬さんが我を失うほどにわたしのことを?
「彬さんは、どこに」
 最後までいうことはできなかった。乃木坂さんの手がわたしの首を絞める。
「彬さまは渡さない。あの方を連れて行かせはしない。私が」
 違う。彼を連れて行くなんてそんなことは考えていない。
 だけど、声帯を塞がれた喉からそれを伝えることは不可能だった。たとえそれを伝えられたとしても、乃木坂さんはもはやわたしの言葉には耳を貸しはしないだろうけれど。
 彬さん。
 逢いたい、と思う。
 容赦なく喉に食い込む強靭な指はふたたびわたしの命を奪おうとしている。
 柘植、くん
 無意識に彼の名を呼んでいた。そしてわたしは意識を手放した。

 *****

 身体がとても軽くて、痛みも苦しみも感じない。ゆらゆらとたゆたうような心地好さ。
「海棠さん」
 名前を呼ばれて、ふっと意識を取り戻す。
 柘植くんがわたしを覗き込んでいた。なにかをこらえるようなその顔を見たとたん、わたしはすべてを思い出した。
 自分の家の座敷にいたはずなのに、わたしはあの森のなかに立っている。それを不思議とは思わない。
「気付いたんだね」
 彼はぽつりとつぶやく。
 わたしはこくりとうなずいた。
「柘植くんは最初から、ここで会ったときからわかっていたのね」
 わたしが死んでいることを。
「うん。海棠さんは気付いていないようだったから、危ないと思った」
「また助けてもらっちゃったね。ありがとう」
 柘植くんは首を振る。
「助けてなんかない。ぼくはなにもできなかった」
 つらそうな顔をする彼を見るのは胸が痛んだ。
 けれど、思わず伸ばした手は彼の身体に触れることはなく、手応えもなくするりと通り抜けた。
 ああ、わたしにはもう時間がない。
「あの、柘植くんにこんなことを聞いてもいいのかわからないけど」
 ためらうわたしに、彼は心得たようにうなずいて答えてくれた。
「海棠彬さんなら、衰弱していて今は病院にいるみたいだけど、命に別状はないよ。精神的にかなり参っているらしいけど、無理もない」
 彬さん。
 息をすることさえままならないほど、思い詰めたようにひたすらわたしを抱いた彼を思い出して胸が詰まる。
 わたしは彼がこわかった。
 ずっと心のどこかで彼に対して距離を置いていた気がする。

 母が死んだ通夜の晩。
 本宅の総領息子がはじめてあの家の敷居を跨いでわたしたち親子の領域に足を踏み入れた。
 そして。
 母を亡くしたショックと思いがけない訪問者に驚いてぼうっとしていたわたしは、ほとんど無理やり彼の思うままに組み敷かれて欲望を突き立てられた。
 それは一度では終わらなかった。それから彼はふいに訪ねて来ては、逃げ場のないわたしを捕らえて何度も征服した。
 ひとを愛すること、愛されることを知らなかった当時のわたしはまだ幼くて、彬さんがわたしに行う行為すべてが憎しみからもたらされた責め苦にしか感じられなかった。
 わたしが憎いからこんなことをするんだ。そう思っていた。
 だけど、いつからだろう。
 わたしを抱くときの彼の目が、手が、その仕草が、憎しみとは異なる感情を伝えていることに気が付いた。彼は決して言葉にはしなかったけれども。
 犯されるように自由に身体を扱われた痛みと恐怖は消えなかったけれど、いつしかわたしは、彼を受け入れることを苦痛に感じなくなっていた。
 それは慣れや諦めからではない、と思う。
 彼がしたことは許せない。
 だけど、苦しげな吐息の合間に名前をささやかれるたび、わたしの身体の奥でなにかが甘く疼いた。その変化に戸惑い、怯えながらも、彼を拒絶できない自分がたしかにいた。
 そんな始まりかたをしたわたしたちの関係は、幾重にも業を背負い、向かう果てには破滅しか存在しない行き止まりの恋だった。
 そうして愛憎相半ばする複雑な思いを抱えたまま、流されるように逢瀬を重ねた結果が今のわたし。
 いつかこんなふうに破綻することはわかっていた。だから、後悔したりだれかを怨んだり、そんな感情は湧いてこない。
 つかのま、自らの内に沈んだわたしを柘植くんは黙って見ている。
 彼はなにもかも、すべてを知っているのだろう。わたしの境遇や、彬さんとの許されない関係も。それでも、わたしに向けられる眼差しに軽蔑や忌避の色はない。以前と変わらない態度で接してくれる。
 はじめてわたしにやさしい言葉をくれたひと。恐らく彼にとってはなにげない振る舞いだったのだろうけれど、あの言葉にどれほど救われたことか。どんなにお礼をいっても足りない。
「ありがとう」
 それがわたしの最後の言葉だった。
 柘植くんがなにかをいおうとしたようだけど、その言葉はわたしには届かない。
 わたしの意識は目に見えない塵のように緩やかに拡散して、空気に混ざり、風に運ばれて木に、花に、土に舞い降り、そして消えてゆく。
 ひとひらの雪のようにはらはらと舞い落ちていきながら、最後のかけらでわたしは切に願う。

 願わくば、あのひとのもとに届くように。
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